与えられることを当然と見做す。店と客の立場での話は、昨日取り上げたが、それがいつの間にか、何処までも広がり続けるとしたら、何が起きると言うのだろうか。もっともっとと欲する人達にとっては、問題などある筈もない話だが、社会的には大きな問題を孕んでいるように思う。何もせずに求める人を相手に。
こんな話題に、反応は世代によって違うのだろうか。育った時代そのものが、与えられることを当然としてきた人々にとって、それ以外の選択肢を見出すことは、難しくなっているように思える。これが昔との違いと評する人がいるが、現実はかなり違っているように感じられる。どんな時代に育ったかではなく、当人の欲望の大きさや権利と責任に関する考え方の違いから、当然と見做すかどうかが決まっているように見えるからだ。社会の中で、義務を果たさないままに、権利を主張する人の数は、限りなく増えているように思える。庇護の対象となる子供達にとって、義務を理解することは難しく、教え育まれている中でも、何故学ばねばならぬのかとか、何故意地悪をしてはいけないのかとか、そんなことに疑いを抱く子供が増えているのは、既に、義務のようなものへの反発があるからかもしれない。だが、その背景には、身近な大人の存在の、身勝手な振る舞いがあるのではないか。一方的な関係を当然と見る考え方には、互いの立場に思いを致すことはない。迷惑をかけるのは当然とする親の言葉にも、お互い様という考えは欠片もなく、与えるのが当然とする訳だ。こんなお仕着せの考え方が、世に蔓延るようになったのに、何らかの理由があるかはわからないが、現状は、そんな様子を見せている。与える側にもなりなさい、という一言に、遠慮や謙遜の雰囲気を漂わせながら、実は無視を決め込む人々には、老若男女に無関係な何かがあるのだろう。無理をせよとは言わぬが、考えるべきことがあるのでは、と言いたくなる。
至れり尽くせり、そんな気分になれる場所で、食事をすることが夢、という人もいるだろう。お金さえ出せば、そんな夢はいとも簡単に叶う、とあっさり言い切ってしまう人もいる。夢を実現する為に、金で解決するという話は、何とも無味乾燥なことだが、別の極端として、地獄の沙汰も金次第との表現もある。
客として扱われれば、確かに金が絡むだろうが、夢を見せて貰える。そんな関係が、いつの間にか、店と客の間だけでなく、世の中全体に広がっているように思う。店でなければ、金が絡むこともなく、気軽に構えたままで、夢を実現させることができる。何とも調子のいい話だが、若い人々を育てると言われる現場で、そんなことが行われている。はじめのうちは、夢を語る子供達の相手をしていたものが、徐々にその対象を広げ、その範囲を広げることで、子供達の夢とはかけ離れた所に辿り着いてしまったのではないか。何も欲していないのに、至れり尽くせりの施しを受けるのは、戸惑いさえ覚えるのではないか、と思うけれど、その場にいる若者や子供達は、何の疑問も抱かずに、それらの施しを受ける。与える側も、与えられる側も、何の疑いも挟んでいないのだから、問題などある筈もない、と結論づけられる。だが、本当に、こんな押し付けの豊かさでいいのだろうか。本人が描いた夢でもないものを、これが最適のものと押し付けることで、至れり尽くせりと決めつけるのは、大きな間違いを犯しているように思う。上げ膳据え膳で育った人が、悩みも抱えずに幸せ一杯で生きると、言っていいのだろうか。豊かな時代となり、欲しいものは何でも手に入るようになって、人が幸せになったのか。自分の可能性を知ることもなく、考える時間も与えられず、与えられた幸福で満足することで、本当にいいのか。
人を選抜する際に、重要となる要素は何だろうか。基準や目的に合ったものを選び抜くこと、という意味が辞書にはあるが、多数の中から選ぶとはいえ、人に対して基準や目的を適用することは、簡単なことではない。多様性という意味では、多数の中から選べば、全ての場合を対象とすると思われているようだが。
実際には、大した違いのないものの中から、適切なものを選び出す、という作業が主となり、無理矢理選ぶことも少なくない。となれば、選ばれた人の問題だけでなく、選ばれなかった人の問題も、残ってくるのではないか。よく言われるのは、試験などの選抜では、僅かな差の中に多くの人が並び、そこに線引きを施す作業では、悩んだり躊躇ったりすることも多いのだろうが、数が限られている中では、決めるしかない。ある数値を対象に、順位付けを行う訳だが、それによって、差をつけることに、どれ程の意味があるのか定かではない。それでも、選抜を行わねばならないのだから、決める側は圧力を感じる場合も多いだろう。確かに、選ばれるか選ばれないかで、各人の将来が決まるとなれば、責任を感じるべきとの意見もあろうが、それぞれに、違う道を歩む運命に、別の選択を試すことはできない。どちらかと言えば、選抜に対する不平不満を漏らすより、決められた運命に対して、どんな対応をし、どんな適応を示すかの方が、遥かに重要なものとなるのではないか。選ぶ側の責任を軽くする必要はないが、選ばれる側の便宜を図ろうと、様々な選択肢を示すことばかりに、目を向けることには、違和感を覚える。
教え育む場では、懇切丁寧に導き、教え込む形から始め、徐々に、向かうべき方向を定めるだけで、後は自分の力で切り開く形へと移行するのが、適切な手法と考えられていた。その中で、悪い点を指摘するより、良い点を取り上げ、それを褒めることで、力を伸ばすことも、効果的な方法の一つとして、扱われてきた。
ただ、褒めて伸ばす方法に注目が集まる以前には、厳しく叱ることで、頑張らせることの方が、専ら選ばれており、それでも支障なく、成長へと繋がっていた。どちらが正しいのかは、一概に決めることはできず、人それぞれに向き不向きがあると考えられる。対応にあたる人にとっては、責任を感じる部分だろうが、万能な人がいる筈もなく、成長過程で、誰と出会うかが肝心となるのだろう。ただ、家族とは違い、様々に異なる人との出会いがあるから、その中で、自分に合う人を見つけることこそが、自身の成長に不可欠なものとなるのだろう。はじめのうちは、導きが大切なものとなるが、そこから、自立へと繋がる道を見いださねばならない。何もかも教え込む形が、通用しなくなるのは、こんな段階にある時だが、ここでの戸惑いがその後の成長に重要な役割を果たす。当然、離れることも必要であり、身近な存在から距離を置くことで、別の段階へと移行することができる場合も多い。心配や不安が漂うことも多い時期だが、その過程を経てこそ、次の段階へと進めると思えば、自分なりの努力を重ねることもできる。ただ、最近の傾向は、この段階でさえ、導きを必要とする人が多く、依存体質が解消されることが少ない。どんな手立てが効果的なのか、模索が続いているようだが、以前のように、突き放すことで自覚を促せば、違った展開も期待できそうに思う。
依存性の問題は、様々にあるようだ。薬物などへの依存は、法律で厳しく制限されているにも関わらず、無くなる気配を見せない。あらゆる破壊へと繋がる話には、恐怖感しか抱かないが、それをも上回る魅力が、あるからこその規制なのだろう。欲望との繋がりからすれば、心の問題と捉える必要もある。
同じ依存でも、物に頼るという形ではなく、人に頼るという形についても、最近は度々問題となる。親に頼る子供は、小さな頃ならいざ知らず、いい大人になってまでも、となれば、やはり大きな問題と見るべきだろう。身近に、そんな存在が現れたのは、それほど昔のことでもないが、いつの間にか、珍しい存在ではなく、ごく当たり前のものとなって来ると、社会現象として扱わざるを得ないものとなる。だが、薬物中毒のようなものとは違い、犯罪に結びつく訳でもなければ、批判的な目が向けられるのが精々で、何かしらの圧力が加えられることもない。しかし、社会全体の問題として捉えた時、このままに放置することはまずいのでは、という意見が繰り返されるようになり、手立てを講じようとする動きが出始めた。それも、親子関係のような家族に限定されたものだけでなく、単純に、人間関係の中での依存性、という問題として捉えることが、この問題を扱う上での、重要な要因となっているようだ。難しく表現すると、混乱を招くこととなるが、実際には、いい大人としてどう振る舞うべきか、という問題であり、成熟する段階で、独り立ちすることの必要性を説くだけのことだろう。親が子供に向かって、人は一人では生きていけないのだから、などと説明するのが、今は当然のように見られているが、実際に、この言葉はどう伝わっているのか、と疑問に思うことがある。協力して生きるという状況と、依存して生きるという状況は、明らかに異なるものだろう。にも拘らず、それらを混同するかのような扱いには、違和感を覚える。
普段から何気なくやっているが、改めて聞かれると、何をしているのか思いつかない行為は、多分、沢山あるのだろう。例えば、考える、という行為は、実際には何をしているのだろうか。考えているんです、との答えはすぐに返ってきそうだが、何をどう考えているのか、と改めて問うと、答えに窮する人が多いように思う。
そういう人達に、頭の中でやっていることを説明して欲しい、と頼むと、要領を得ない答えが返ってくる。あれをこうして、これをああして、などと説明されても、雲をつかむような話に思えるし、場合によっては、それが本当に考えることなのか、と問い返したくなる。ただ、彼らにとっては、小さな頃から、考えなさいと言われたり、じっくり考えろと言われたり、考えることを強いられてきた訳だから、それをそのままやっているだけ、という思いが浮かんでいるのではないか。考えることが何をすることなのか、説明できないのは、自分の行為を分析的に捉えることができていないからだが、それに加えて、考えなさいと言われた時に、頭の中でどうすることが、考えることなのかの説明を受けたことがないのが、大きな要因となっている。これ程当然のように扱われていて、実際には、どうすべきものかが理解されていないことは、それ程多くはないだろう。だが、世の中では、考えることが非常に重要であると扱われる。何をしたらいいのか、判っていない人間にとって、これほど辛いことはないだろう。一つだけ、糸口があるとしたら、何について考えるかを、はじめに決めることが、一番重要であり、対象さえ決まれば、あとはそれに関わることをあれこれと思い浮かべればいいことになる。いや、そんなに簡単な話ではない筈、との反論もあろうが、決断が考慮の末にあると思う人には、逆の順番を指摘してやると、驚くことが多いから、そこに気づくことで状況が変わることが、実は肝心なのかもしれない。
可愛がると恩返しは、ある世界での言葉だが、一般社会でも同じようなことを話す人がいる。と言っても、あの世界の可愛がるは、厳しく鍛えるという意味であり、現代社会なら、苛めとも受け取られかねない行為であり、恩返しは、その相手に勝つまでに成長したことを意味する。普通の社会とは違う世界なのだ。
では、一般社会で恩返しを口にする人は、どんなことを期待しているのだろう。多くは、感謝の言葉とか、気持ちや態度で表現できるものを思い描き、一方で、可愛がるとは、便宜を図るといったものを指すことが多い。そうしてやったのだから、何らかの形で恩を返すべきと思うのだろう。この考え方に賛同する人は少なくないが、最近は、状況が大きく変化しているようだ。「御蔭」という言葉が聞かれることは少なくなり、それまでは太鼓持ちのように振舞っていた人が、目的の地位に就いた途端に、態度を一変させることが多くなった。それを恩を知らぬ者と罵る人もいるだろうが、恩返しを強いる態度には、問題がないのだろうか。他人の為を思っての行動は、人それぞれに判断しながら、やっているものであり、何らかの返礼を期待するとは限らない。それを期待することは、欲の表れの一つとして、嫌う人が多いのも事実だろう。ただ、折角気遣ってやったのに、それを仇で返されたのでは、と思うようなことが起きるのも、時にあるだけに、道徳観だけで行動することが、必ずしも周囲に正しく伝わる訳でもないことも、事実のようだ。正しいことを貫く姿勢であれば、その後の展開に、期待するものがあるとしたら、多分、対象となった人の成長だけだろう。自分を負かせるほどに成長した相手を見て、恩返しとするあの世界の考え方は、違った形に見えるかもしれないが、実は、こちらの世界でも通用する話なのではないか。