書き写すという行為が、作業と化してしまい、問題を生じているようだ。教育現場での問題は、以前にも取り上げたように、考えながら写すことで得られた知識が、機械的に写すことによって、何も残らないものとなってしまった。同じことが、職場でも起きているようで、転記の作業でさえ、間違いが繰り返されている。
情報の伝達は、正確さが命となるが、それを蔑ろにしているのが、現状のようだ。伝言ゲームの状況からわかるように、人づてに伝えられる事柄は、徐々にその内容が変化していく。意図的に変えるのではなく、できる限り正確に伝えようとしても、人間のやることには間違いが伴うものなのだ。しかし、耳で聞いて、口で伝えるという作業では、不確かさを避けることは難しい。それを避ける手立てとなるのが、書き記したメモのようなもので、それを見せながら説明をすれば、書き写すという手段も生まれ、確実性は大いに高まるだろう。だが、そこでも、写し間違いは起きるものであり、絶対確実とは言い切れない。特に、その作業の中で、耳から流れてくる内容と、メモの内容を突き合わせることなく、ただ漫然と見たままに写していると、自らが犯した間違いに気付かぬままとなることが多い。折角のメモも、間違いが起きれば、その情報は違ったものへと変貌する。これが重なれば、元とは全く違ったものへとなることもある。一度乱された情報は、元の形に戻すことは不可能で、修正が効かない。大切な書類の役目が果たせなくなるのも、多くが誤転記によるものと言われる。正確な作業は集中力によるものと言われるが、単に間違いを犯さぬようにという心がけでは、不十分な場合も多い。雑念は邪魔だとしても、それぞれの意味を考えながら、写し取ることをすれば、過ちは防げるものなのではないか。
攻撃は最大の防御であるとは、言い古された表現だが、今でも通用すると思う人が多いのではないか。特に、議論の場において、他の提案を批判する人の多くは、それによって、自前の提案を残そうとしている。攻撃を続ければ、自論を守る必要もなく、また、大半の時間をそれに費やせば、自らの欠陥が露呈することもない。
通用するにはするが、攻撃のみの人は、総じて嫌われているようだ。議論は、様々な意見が出された上で、その集約を図ることでより良いものを目指すものだが、極端な立場の存在は、その妨げとなる。本人にとっては、最適な提案を残すのが目的となっているのだろうが、他の意見に耳を貸さないのでは、議論が成立する筈もない。批判的な見方が大切であるのは確かだが、その多くが、悲観的な展開に基づくものであり、何かを産み出そうとする積極性は生まれない。本来ならば、欠点を補い、長所を拡大する為に、議論が重ねられるのだろうが、これではまるで、八方塞がりの状態に追い込まれ、精神的にも穏やかではいられない。黙らせるのが一番の方法だが、民主主義では暴挙と扱われ、効果的な手立ては見出せない。本来、批判においても様々な展開があり得るのに、どうにも悲観的な方向に導くものが多いのも、何かしらの理由があるのだろう。このところ上昇傾向が続く株式相場も、実態が伴わないとの批判が出されているが、あの世界の人々は、つい先頃まで、相場は先行指標であると強調していたのではないか。嘘吐きとは言わないが、相も変わらず、場当たり的な発言やいい加減な分析を繰り返すだけでは、誰からも信用されなくなるだろう。攻撃とはならないまでも、口から出任せを並べているだけでは、その価値を認められることはない。所詮ゲームの一種と見做されたのでは、折角流入し始めた資金も、どこかに振り向けられてしまうのではないか。
教え方に関する議論は、様々にある。答えが見えないからこそ、それぞれの主張が入り乱れるばかりで、結論は出てこない。教える事は、教育現場に必要なこととの理解があるが、現実には、社会のあらゆる現場で必要とされ、技術の伝授だけでなく、ものの見方や考え方に影響を及ぼすものと見られている。
それだけに、何をどうするかは、全ての人にとって重要なものとなり、自分のこととして考えなければならない。ただ、この状況は、教える側に押し付けられているようで、教わる側はその問題に触れることはないようだ。上から降りてくる、命令にも似た指示を受け止め、それに従うことが優先され、自分で考えることは極端に少なくなる。この傾向は、安定した時代に入ってから、強まるばかりとなり、今では、大きな問題と見做されるようになった。言われたことに従うだけでは、そのことにしか対応できない。そこから先は、自分で工夫せよ、という指示に関しては、具体的な内容がないから、何もできないという答えが導き出される。彼らにとっては当然と思えることも、工夫をすることで生きてきた世代からは、受け入れ難いものと見えてしまう。この状況も、長く続いてきただけに、既に教える側にも、そういった考えを持つ人が増えている。これでは、懇切丁寧に一つずつ教えることしか、方法が無いことになってしまうのではないか。現実に、作業の中から答えを見出す手法に関しては、作業をこなすことだけが目的となり、そこに見出せるはずの要素は、掘り出されることなく放置されたままとなる。だから、答えを一つずつ示すべきとの指摘もあるが、それでは伝えられる要素の数は、以前と比べて極端に少なくなってしまう。これが、「ゆとり教育」と呼ばれた時代に、専ら使われた方法であり、結果的に、問題が山積することとなった。だが、一度そちらに向いた考えは、中々変えられないもので、現場での戸惑いは広がるばかりのようだ。
文章表現力を培う為に、名文を書き写すことから始めよ、という指導法があることを知っているだろうか。写経はその意味を知らずとも、続けることによって、心の落ち着きを導くと言われる。それと同じこととは思わないが、書き写す作業には、何かしらの影響を及ぼす力があり、それを進歩に繋げようというのだろう。
自分でやったことはないから、その効果の程を知る術を持たないが、これだけ多くの記述があることから、何かしらの効果が期待できるものと思える。これと似たような作業に、声に出して読むというものがあるが、こちらも、続けることで何かの効果があると主張する人が多い。どちらも、昔はよく勧められていたが、今では、あまり取り上げられていないようだ。だからこそ、効果を訴える話が紹介されたり、実情を伝える話があるのだろう。では、何故、今はこの類の方法は使われないのだろうか。書き写すことも、声に出すことも、昔から無意識に行うことで、十分に効果が得られるものとされてきた。同じように、今の子供達にやらせても、効果が出ないとしたら、何が違うのだろうか。一つあるとすれば、何かを意識せずとも、その作業に集中することが、何らかの効果を産んでいたということではないか。では、現代社会で、どんな問題があるのか。散漫にさせる要因が、周囲に転がっていることが、一番大きな問題かもしれない。作業を片手間で行っても、結果は同じになるとばかり、他の事をやりながら書き写したり、読んだりしても、様々な要因が集中を妨げる方に働く。作業と考えれば、結果が全てと思うのは、各人の自由には違いないが、その作業を行う目的が、結果に結びつけることではないとしたら、どうだろうか。メモやノートの取り方も、同じ考え方を適用すると、多くの人が役立つものへと繋げていない気がする。まずは、集中しなければならない。
批判するのは簡単だ、と思っている人は多い。確かに、他人の言動を批判することは、ただ扱き下ろせばいいだけだから、大した労力も要しない。だが、自己批判はどうだろうか。自己愛と呼ばれる不思議な行動が、普通のものとなりつつある時代にあって、肝心の自己を扱き下ろすのは、簡単ではないだろう。
自己と他者の違いは何処にあるのか。そんなことを考えさせられる事例だが、実際には、単純に基準の設け方の違いに過ぎない。相手によって扱いを変え、基準までも異なるものを使う人は、昔から沢山いた。好悪を基準とし、それによる使い分けをすることは、幼いうちはよくあったことだろうが、それがいい大人となっても続くのでは、精神の幼児化と言われても仕方がないだろう。だが、多くの人は、無意識にそんな選別を繰り返していることに、気付いていないようだ。他人に対してさえも、こんな状況だから、自己と他者を区別するなど、意識することなく行える。だが、この問題についても、逆の見方をしてみたらどうだろうか。意識的に区別しているのであれば、その意識を排除する手立てを講じなければならないが、無意識であれば、そのまま区別をしないやり方を取ることができるのではないか。特に、批判対象として考えた時、自身を批判することは、自己否定へと繋がると危惧する向きがある。そこまでの極端に、初めから思いを及ばせることは、理解に苦しむものと思うが、当人達は大真面目のようだ。ただ、下らない議論をするより、自分に対しても、批判的な目を向けてみることから、始めることが大切だろう。それにより、何らかの障害が生まれるのなら、対処しなければならないが、そうでなければ、その手法を使うことで、自らを磨いていけばいい。単純なことなのに、多くの人ができないのには、自分が可愛いという心理と共に、批判の質の問題があるのだろう。
無責任な発言が続く、SNSという仕組みは、実社会では見向きもされ無い人々にとって、唯一の発言の機会を与えてくれるものとなっている。何が人の注目を集めるのか、実社会でも当然必要となる指標だが、顔を晒しながらという条件と、匿名性を維持しながらという条件では、内容は大きく違ってくるものなのだ。
それが無責任に繋がると言われるが、虚言満載の書き込みに、始めは目が集まったとしても、早晩馬脚を露わすこととなり、実社会同様に、目も向けられなくなる。こんな展開が続くことで、発言の過激さは上昇を続け、違法性が露わになると、仮想世界での匿名性は破られてしまう。一種自業自得の過ちにすぎないが、当人達は、まるで自分達が被害者であるが如くの振る舞いを続ける。仮想世界どころか、実世界でまで排除される結果には、存在否定にも似た状況に、受け入れ難いとの思いが過るのだろう。だが、意思の疎通における、互いの存在の尊重は、不可欠なものと見るべきだろう。それを無視した発言に、厳しい措置が下されたとしても、致し方ないのでは無いか。一方、始めは個人の無責任な発言だとしても、それが連鎖を招き、拡散へと繋がる仕組みに関しては、まだ、理解が不十分であると思われる。実社会でも、昔の話を何度も取り上げられると、それだけで心が落ち着かないことがあるが、面と向かって話されるのではなく、誰かが気軽にやる行為の場合、怒りを抱いたとしても、それを向ける先が見当たらない。自らの不用意な発言を反省したとしても、その拡散を止めることはできず、いつまでもしつこく付きまとわれるのでは、たまったもので無いだろう。ただ、これも、始めの発言は自らのものである。そう考えれば、元の話に戻って、無責任な発言を控えることが、最も重要であると見做せる。要は、身勝手な行為ができることに惹かれて、間違いを繰り返すことの無いように、自らを戒めなければならない、ということだ。
全力を尽くす、という言葉は、好意を持って受け止められるのに、できることしかやらない、という言葉は、反発を招く。結果は同じではないか、と思うけれど、態度や姿勢が違うということだろうか。だが、その気もないのに、そのふりをする人が増えている現状では、正直に振る舞った方が、いい結果を産むと思うのだが。
こんなことを思うのも、実は、全力など尽くす気もなく、いい加減に済ませたいと思う人が、大多数を占めるようになったからだ。一つのことでさえ、完結させることができない人が、二つも三つも追い求めることには、無理があるのは当然だが、負荷をかけることなく、成長を期待するのには、やはり無理があるということではないか。これをやりたいから、あちらを諦める、といった考えが歓迎されるようになってから、これさえも完結できない人が増えてきた。恰も、選別を繰り返しているように見せて、その実、能力不足を隠そうとする手立てにも見える。子育てと仕事を両立させることが、今の女性に与えられた課題のように扱われるが、どちらも始めからやるべきこととして設定されている。それに対して、個人の能力は著しく低下している為に、どちらも不十分な状態に陥っているようだ。であれば、二兎を追わずに、一つのことに集中すればいいのに、と思うけれど、先立つものが無ければ、生活の楽しみさえも手に入れられない、という状況では、選択の余地は無いとされる。男女格差を無くす為の施策により、様々な手立てが講じられているが、どれも効果を上げられないでいる。だから、もっと効果的な手立てを、などと論じる向きもあるが、所詮、当事者達の能力を超える効果は、得られないのでは無いか。無駄な努力は言い過ぎとしても、環境整備と称する方策には、かなりの無駄が含まれているように感じられる。