動く物と書いて、どうぶつと呼ぶ。それに対して、植える物と書いて、しょくぶつと呼ぶ。それぞれに生き物の特徴を捉えた表現だが、それがそれぞれの起源を表すこととなり、遠い昔に袂を分かちた証左とも言える。動ける物が、自分の意志に従って、様々に移動できるのに対し、植物は、その場に居続けるしかない、と言われる。
この解釈が正しいのであれば、植物にとって、分布を広げることは不可能となる。だが、現実には、外来植物の問題からも明らかなように、突然、ある場所に蔓延り始めるわけで、様々な手立てによって移動を行っていることがわかる。その多くは、種が新しい場所に移動した結果であり、単に飛び散ったり、風に舞ったりすることで広がるだけでなく、鳥に食べさせて糞として排泄されたり、人間などの動物に纏わり付くことで、新たな場所へと移動する。現代社会のように、その生息範囲が大陸を跨いで広がる場合には、多くが人間の営みに乗せられたものと考えられる。だが、一度その場に落ちて仕舞えば、植物に選択の余地はない。土壌が生育に適するかどうかは、草花を育てるときに、重要な要素となると知られているが、そこで生きようとする場合にも、適不適が重要な要素となる。時に、不向きな場所であれば、敢えて芽を出さずに、次の移動の機会を待つことさえあるという。人の手によって、土壌改良が成された途端に、そこでは見たこともない植物が生え始めることがある。これも、環境の変化により、ある引き金が引かれた結果なのではないかと思う。いずれにしても、植物にとっては、環境は変えるものではなく、それに従うものなのだろう。少しでも外れたら育たない、という訳でもなく、適さぬものにも何とか対処しようとする。これが動けぬ生き物たちの特徴なのだろう。
使い古された、不安、という言葉でしか、表現できないのかもしれない。天変地異に関して、人間の力は何とも小さなものに過ぎない。それでも、何かしらの方策を講じようとする動きを続けるが、及ばぬ力に、皆の期待は裏切られ、目の前に広がる光景に、驚き、恐れ戦くばかりとなる。自然の力は良いも悪いも強大なものだ。
このところ、様々な形で山の脅威が伝えられている。紅葉を楽しみに出かけた山で、突然目の前で展開する噴火に、逃げ惑う人々の多くは、命を落としたと伝えられる。直前まで、色とりどりの世界が広がっていたのに、突如として色のない世界へと引き込まれる。それどころか、光のない世界であったと、生存者達が伝えていた。その後も、火山列島と呼ばれた国の各所で、山の脅威が伝えられている。予知が可能だとも言われたが、今回の火山島の噴火も、その瞬間を予め知ることはできなかった。ただ、暫く前から続いた活動に、島民達は警戒を続けていたから、何とか被害者を出さずに済んだようだ。とは言え、今後も活動が続けば、帰島が叶う時期がいつ来るのか、全くわからない。同じように予知が目指されている地震に関しても、当初の目論見は果たせず、暗中模索の上、近年では諦めの声さえ聞こえてくる。その中で、確率を論じる方に目が向き始め、極端な表現に、心を乱される人も多いようだ。無責任な言葉は、彼らにとっては心外なのだろうが、舌足らずの表現に、振り回される現状を眺めるに、やはり軽率な言動と批判すべきと思う。地の底から伝わってくるものとして、噴火も地震も、同じように見られるが、全く違った仕組みによるもののようだ。一方、人々の不安の広がりを、警戒する動きも多くあり、全島避難の措置は当然のものとして、温泉地を襲った活動への警戒は、生活との繋がりが論じられ、風評被害なる言葉が度々聞かれる。だが、その後の活動を眺めるに、あの決断は、被害を防ぐ意味で重要とみるべきで、的確な判断だったと評価すべきだろう。
話せばわかる、とはよく使われた言葉だが、当てはまらないとの指摘も多い。所詮、互いの思惑が主体となり、その主張だけでは、相互理解は見込めないというものだ。だが、議論が必要な場で、そんな仮定が置かれるのでは、成果は期待できない。どちらが正しいにしても、話し合いの必要性は、常にあるのではないか。
それにしても、話が通じない相手には、ほとほと困り果てることとなる。彼らにとっては、自らの主張が全てであり、他の意見を汲み取る必要は認められない。また、歩み寄りも無駄に見えるだけで、中途半端な結論と決めつけてしまう。取りつく島もないとは、まさにこのことかと思えるが、たとえ、そんな人々を相手にしたとしても、説得を試み、結論に導く必要があることも多い。時間をかけ、曲げられない主張を相手に、何とか妥協案に導こうとする。この際にも、現実には、先方の主張の明らかな誤りを指摘し、此方の主張を受け入れさせるような説得もあり、歩み寄りとは異なる事態となることがある。傍目には、一方的な自己主張に見えるかもしれないが、甘い考えに基づく、半端な主張に対しては、厳しく対応する必要がある。足らない部分を指摘し、補う必要性を示すことで、此方の提案を考慮する機会を与えるわけだ。一方的な主張とも思えるだろうが、現実には、議論の場での遣り取りと、基本的には同じ形を保ち続ける。こんな場面で重要となるのは、実は、相手の考えの足らない部分を的確に指摘し、それを補う考えが、自分の提案に含まれていることを示すことだろう。やり込めるとか、言い負かすとか、そんな表現が使われることが多いが、実は、厳密な論理を用いることで、誘導を図っているだけのことだ。だから、気付かせる為の一手段と見るべきだろう。
懇切丁寧を当然のものとする風潮がある。要求する側は当たり前なものと見做すようだが、される側はその要望に応える為に様々に苦労する。問題が起きないように、との考えから、徐々に細々とした配慮が行き届き始め、丁寧さが増す事となる。これが積み重なれば、誰もが苦もなく利用できるようになるのだろう。
歓迎すべきことのように思える状況だが、誰にも分かる状態となると、人はものを考えなくなるらしい。問題解決に向けて、様々に考えを巡らし、答えを見出していく、という過程は、至れり尽くせりという環境では、無用のものと扱われるようだ。能力を劣化させるとも言われる話だが、その一方で、配慮が至らず、問題を生じている場合もある。要求側に回れば、様々に問題を提起できるのに、反対の立場では、何も思いつかないという人も多い。こんな風潮の中では、当然の展開なのかもしれないが、件の人々が、どんな役割を社会の中で果たすかによって、悪い影響が及ぶこともあるから、注意しなければならない。よく言われるのは、公的な機関での無配慮の問題であり、様々に想定することなく、ただの押し付けを続ける姿勢に対して、強い批判が向けられる。国民や住民に対して提供される筈のものが、不十分な形で出されることで、満足のいく結果が得られないから、権利主張が訴えられるのも当然だろう。少し事情が異なるが、教育の現場でこの辺りの事情を教えることが、少なくなっているように感じられる。できることが少なくなり、その中で少しでも力を伸ばす為に、訓練を繰り返す。だが、社会において必要なことは、単に教科書に載った事項だけではない。それらを交えて、様々な形で伝えることが、人を育てることに繋がるのではないだろうか。その割に、現場では、覚えるべき事項に目を奪われるだけで、人として考えるべきことが、忘れられているように見える。後進の育成は、どうなってしまったのだろう。
自分の意見が言えるかどうかは、この国の人々にとっては、重要な事柄らしい。逆に言えば、自分の考えを論理立てて話すことができる人が少なく、他人の意見を受け入れるだけの人が多いのだろう。幼い頃や若い頃には、素直と褒められたのかもしれないが、自立すべき頃を過ぎると、途端に批判の対象となる。
確固たる考えを持ち、それを主張することは、確かに、その人の能力の高さを表しているように思える。だが、主張することだけに目を向け、その内容を吟味せずに判断すると、評価を誤ることに繋がるようだ。議論の場では、声の大きさが全てのように扱われるが、結論が出た後で思い起こしてみると、実際には、声の大きさなどより、主張の確かさによって流れが決められてきたことに気づかされる。内容が伴わなければ、頻繁に主張を繰り返したとしても、他人の賛同を得ることは難しいのだろう。また、議論の場は、主張をぶつけ合うのが、その主たる役割だが、一方だけを残すような、二者択一を行うのが常とは限らない。異なる主張の共通点を拾い出し、それらを纏めることで、より良い案に導くことも、重要な課題の一つとなる。その為には、主張するだけでは足らず、他の意見を受け入れることも、時には必要となる。これもまた、人の能力を見きわめる指標の一つとなり、自己主張に終始する人の評価は、その活躍の割に低いものに抑えられる。話し合いでも、こういった遣り取りが行われるが、その際の振る舞いで、評価が左右されることは多い。主張を繰り返すことから、多くが言い訳を並べるようになるのも、その表れの一つだろうが、このような言動では、信頼を得ることは難しくなる。主張することを第一とすると、こんな問題が出てくることになり、折角の話し合いや議論も、無駄なものと終わる場合もある。口だけでなく、耳も働かせないと、事を難しくする。
事実と意見、マスメディアが伝える内容に、注意を要する区別だろう。本来、事実を伝えるのが務めだった筈が、分かり易さを優先させることで、脚色を加えたりするだけでなく、時に、改竄と言われかねない程の変更を加える。一部の意見に過ぎないものを、事実として伝えようとした途端、歪曲が前面に出ることとなる。
送る側の姿勢が変わるにつれ、受け取る側の判断は重要さを増し続ける。最近の出来事のように思える状況だが、伝達者がそのままに伝えても、大元の送り手が情報操作を施せば、改竄は見えない形で行うことができた。今でも批判的に捉えられる、戦時中の情報操作は、伝達者が疑いを抱きながらも、自らの地位を守る為と、そのままに流したことが、大きな問題を招いたと言われる。その時も、おそらく、受け手が自らの判断力を磨いておけば、随分と違った結果を産んだのかもしれないが、ことはそれほど単純ではないとも言われる。有事の環境において、操作に反論を加えることは、時に、罰の対象となりうるからだ。だが、今は平和なものである。有る事無い事、全てに批判を加え、自分の方にその矢が向かぬように、罵り続ければいいのだから。だが、本当に間違いを犯さぬようにしたいのなら、一方的な態度を取り続けるより、事実と意見の区別を明確にし、そこから正確な判断を下す習慣を身につけることこそが、大切なのではないだろうか。批判の対象とならぬように、などということに心を奪われていると、却って判断が鈍ることも多い。兎に角、周囲から流れ込む情報に関して、確かな判断を下すと共に、自分が発するものについても、混同させるようなものを排除することが、他人からの信頼を得る為に重要となる。これほどに当たり前なことに、気づかぬ人々が増えたことは、実は、情報操作を目論む人々にとっては、有利な状況を作っていることになる。乗せられてはいけない。
わかってくれない、とは若者達の口癖だろうか。それに対して、昔であれば、厳しい言葉が返ってきたが、今は、随分と状況が変わったようだ。わかってやりたいと漏らすどころか、わかってあげたいと言い出す人まで出る。元々、言葉の乱れが理解を妨げると言われるが、ここにもその一端が現れているように思う。
わかってもらえない理由ははっきりしている。一つ目に挙げられるのは、常識外れの考えだろうが、もう一つの要素は、正しく表現されていないことにある。自らの思いを表現する為には、言葉という媒体に載せる必要があるが、その過程に足らない点が多々あるからだ。言葉足らずと呼ばれる、不十分な内容説明が主原因だろうが、的確な表現を身につけていないことも、大きな原因の一つとなる。その多くは、自己評価としては十分と結論付けていても、他人の評価は著しく低くなる。舌足らずとなってしまう原因には、多くのものがあるのだが、中でも、深刻と考えられるのは、話し相手との前提となる事柄の有無ではないか。互いに知っていることを前提として、話を進めていくのであれば、詳しい説明を省くことも可能だが、わかってもらいたい相手が、必ずしもその範疇にあるとは限らない。にも拘らず、友人達との会話と同様の流れを使うと、理解に及ぶことはなくなり、話が通じないという状況に陥る。ただ、当人にとっては、いつもと同じ調子なだけに、何が悪いのかが見えてこない。逆に見れば、互いに理解し合っているかのような振る舞いが、他人の理解を得ようとする努力を失わせているのではないか。理解を得ようとすれば、正確に伝えることが大切となり、時に、説明を施す必要も出てくる。それを飛ばしたままで、何故、理解してもらえないのか、と思っているとしたら、それは明らかな間違いだろう。こんな見方で、自分の言動を眺めてみては、と思う。