パンチの独り言

(6月1日〜6月7日)
(上昇、圧迫、更生大臣、愚王、謙虚、先取り、先手)



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6月7日(日)−先手

 先行投資とは、企業経営において、成長の勢いを無くさぬ為のもの、と考えられている。ただ、成長に陰りが見え、停滞どころか、縮小を余儀なくされる時代を経て、先先よりも今が大事、という考え方が主流を占めてきた。どちらが正しいのかを決めることは難しく、時と場合に応じて、考えていく必要があるようだ。
 それでも、生産計画をどう決めるかなど、企業を動かす上では、将来を無視できない部分がある。その辺りの舵取りの難しさが、最近特に強調されるようだが、その背景には、見通しの甘さから、経営が傾いてしまった所が、目立つようになったからだろう。経営陣の刷新が、唯一の手立てのように扱われるのも、固定した考えに縛られる人間には、画期的な展開が期待できないからだろう。人の首をすげ替えれば、こんなことも簡単に行えるが、個人の将来を考える上では、他人とすり替わることもできず、自らの力で解決を目指すしかない。その意味で、人間に対する先行投資は、失敗を解消する手立てもなく、それがその人物の人生に付き纏うことだけに、注意を要するものであるに違いない。にも拘らず、世間では挙って飛びつく人々に溢れる。子供への投資は、ある意味、親の責任によるものだが、どうなるにせよ、結果が降ってくるのは子供自身の上であり、親自身には、直接的な影響は及ばない。親心という言葉で、その問題への理解が示されるが、子供達にとっては、時に、迷惑以外の何物でもないこともある。自分の選択によらず、親からの押し付けであれば、その気持ちは強まるだろう。それでも、将来を考えて、という選択が下され、他とは違うことに飛びつく。軽率な考えと言ってしまえばそれまでだが、当人達は、子供の為と決めつける。結果が良ければ、問題は起きないだろうが、多くは悪い方へと動く。企業経営との違いは、その後の対応にも現れる。

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6月6日(土)−先取り

 上り坂や下り坂、成長や衰退、そんなことが繰り返されるとは言え、激変に曝されることは無い。確かに、天変地異には襲われるが、その一時だけのことで、たとえ厳しい時に接したとしても、徐々に回復できる状況にある。安定した時代とは、こんなものかと思うが、多くの人々は、そんな意識さえ抱かないようだ。
 不安とか心配とか、そんな言葉が度々聞かれるのは、実は正反対の状況があるからであり、その中で、少しでも危ういことを見つけ出した気になって、備えている気分を味わっているだけのようだ。だが、現実は、何の備えもなく、怠惰に過ごしていたとしても、大過なく過ぎていくものだ。そのことに警鐘を鳴らす人からは、厳しい指摘が示されるが、緩んだ心には響かない。一方で、不安とか心配とは違う、目論見に満ちた行動が目立つのも、安定する時代の特徴ではないか。先の見える時代に育つことは、面白くもないこととの指摘もあるが、その一方で、可能性に賭けたり、確率を気にすることなく、確実な歩みを続けられる利点があると言われる。その中で、何か他人とは違うことをしようとすれば、何事も先んじることが重要となる。早期という言葉で表される状況は、それが過激なものになるにつれ、幼児教育どころか、乳児教育や胎児教育などという言葉さえ、聞かれるようになる。その下らなさに批判の声は意外に小さく、親心への理解があるようにさえ見える。だが、身の丈を考えぬやり方では、無駄ばかりが目立ち、誰かの自己満足だけが問題のようだ。同じ状況は、年齢を重ねても続き、各学校での先取り的な活動は、手を替え品を替え、次々と編み出されたものが続けられる。背伸びは自分でするものであり、誰かに引き上げられたのでは、何の意味もないと思うと、下らないものにしか見えないが、渦中の人々は、そんなことは微塵も感じない。最先端に触れることこそ、何よりも重要との見方も、愚の骨頂としか見えないが、彼らには賢慮の末となるようだ。

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6月5日(金)−謙虚

 自国の恥部を晒すのは憚られるが、他国であれば何ら問題はない。これは全世界に当てはまることのようだ。最近も、隣国の情報統制を厳しく批判する報道が、国を代表する放送局から流されていたが、同じ観点で、自国の状況を検証する姿勢は見受けられない。愛国心と片付けてしまえば、それまでの問題となるのだが。
 国の情勢が傾いてくると、施政者達は様々なことに敏感となる。印象を重視する動きは、実体が無いだけに、極端な反応が目立つ。世界を導く立場に陰りが見えた時代、あの大国でさえ、印象を悪くする動きに、神経を尖らせていた。体制への批判など、その中心となる筈の映画業界でさえ、批判の結果としての悲観的な筋書きより、楽観的な結末を優先させていたことも、当時、一部の識者が訴えていたものの、経済状況が好転すると、そんな恥ずべき過去には誰も目を向けないようになった。この国とて、当時は日の出の勢いと言われ、不可能は無いとの称賛も飛び交っていたが、泡がはじけるように、過度に膨らんだ経済は、極端な収縮に見舞われた。その後の気の持ち様に関しては、今更取り上げるまでも無いことだが、実態にそぐわない自信は消し飛んでしまい、その取り戻しには予想以上の時間がかかってしまった。その際には、自らの愚行を反省することが中心課題となっていたが、徐々に回復するに従い、他の愚行を批判することで、自信を取り戻そうとする動きが強まったようだ。だが、本来為すべきことを見失い、他山の石の役割さえ考えないままに、批判ばかりを繰り返していれば、戻った自信も再び弾け飛ぶこととなるように思える。要するに、誰が為したことか、によって区別することなく、常に客観的に見極める姿勢を貫かないと、自分を見失うことになるということではないか。

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6月4日(木)−愚王

 省庁の長の言動を浅慮と批判しても、それを書いている人間も同じように批判だけでは、と思われているだろう。確かに、具体的な内容を書かねば、何が問題であり、どうすべきかが判らないと言われる。細々と隅々まで指示を尽くすことが、最近の風潮のようだが、自分で考えることを止めた人間を、相手にすべきだろうか。
 不安を口にする人の多くも、同じように全てを他人任せとする。それによって被害を受ければ、その責任は自分ではなく、誰か別の人間にあると思うようだ。この風潮を批判することは、確かに必要なのだが、この状況下の混乱を解決する為には、そんな時間的余裕はない。それより、まずは、勝手な想像から出てきた不安なる心情を、安心へと転換する手立てが必要だろう。大臣への批判は、それに手をつけず、ただ部下や下部組織の構成員という弱者を、矢面に立たせるような言動に、危機感の欠如が感じられたからだ。情報漏洩から、確かに個人名などの情報は、流出したには違いないが、それがどんな被害に結びつくかについて、考えを巡らせていないのではないか。不安や心配を抱く人々は、自分の財産にしか目が届かず、他人の問題や組織の問題などに、興味を抱く筈もない。その人々が、混乱を招く原因となるのであれば、彼らが抱く金の心配を、解消してやる必要があるわけだ。国が管理する限り、個人の責任とは異なる範疇となり、たとえ被害が出たとしても、その補償はすると言って仕舞えば、済むことなのだ。それを的外れな議論へと導き、如何にも監督しているというふりをすることは、愚の骨頂としか言えないように思う。個人が自身で守るべきものは、漏洩があろうがなかろうが、既にそこにあったわけであり、そこまで手を広げろなどとは、誰も言わないだろう。この辺りの状況を把握できず、一つ覚えで臨む姿勢に、愚かさだけが目立っている。

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6月3日(水)−更生大臣

 何でも悪いことは未然に防ぐのが第一であり、その為の仕組みを整備しなければならない。だが、事が一旦起こってしまえば、それへの対応が求められる。管理能力とは、これら二つの対応に関するものであり、不足すれば発生だけでなく、悪影響の拡大も防ぐことはできない。今まさに、そんな不手際が進行中なのだ。
 電子情報が様々に利用される時代に、その管理は重要である筈だが、現状はそれ程厳格には行われていない。その為に、多くの事件が起き、その度に問題を指摘し、責任を追及する声が出てくる。確かに、周囲から見れば、そんな批判も当然と思えるものだが、関係者が同じ振る舞いをすることは、おかしいのではないか。老後を支える制度に関して、その情報管理が不十分であり、漏洩が起きたとの事件に関して、監督官庁の長たる人間の言動には、無能ぶりが露呈している。管理の責任を追及することは、確かに行うべき仕事の一つであるに違いないが、最も重要なことは、漏洩によりどんな影響が生じ、個人の被害が如何なるものかを明確にすることで、影響拡大を防ぐことである。にも拘らず、批判を専らの役割と任じる政治家達は、問題の本質を捉えられず、馬鹿の一つ覚えのような言動を繰り返す。心配を常とする人々は、自分の財産が奪われることだけが気がかりで、その心配は問い合わせの嵐となって押し寄せる。混乱は自ら招いたものと件の大臣は宣うかもしれないが、実際には、情報漏洩によって何が起きるかを検討し、心配すべきことを指摘すれば、大騒動は未然に防げる。肝心なことさえできず、馬鹿げた批判を繰り返す人々に、管理能力は皆無との批判を向けるべきだ。この大臣は、宰相の前任時に支えるべき任務を放り出したことで、一時厳しく批判されていたが、能天気の人物が再び任用し、当人も適任とばかり飛びついたと言われる。だが、無能ぶりはこれだけに留まらず、地方の大学病院の管理能力の無さを理由に、地域医療の荒廃を招きかねない決定を下した。自らの無能を棚に上げ、批判しかできない人間に、管理は高嶺の花なのではないか。

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6月2日(火)−圧迫

 老人の拘りを批判する声が聞かれるが、経験に基づくものとなれば、ある程度の尊重も必要なのではないか。彼らの言動の中には、様々に参考となる部分も多く、経験不足な人々にとって、救いとなる場合もあるだろう。それを無視して、煩い年寄りという反応を返すのは、結局、自らの無知を晒すだけなのではないか。
 寿命が延びるに従い、身の回りの高齢者の割合も増え続けている。これが始めに取り上げた話題が、度々聞かれるようになった原因の一つだが、一方で、別の拘りが台頭してきたことも、大きな要因となっているのではないか。まだ、大した問題ではないと思われているようだが、こちらの拘りは、今後も続くだけに注視すべきと思う。若者達の拘りに関しては、大目に見る風潮が続いているが、経験もなく、自信もない中で、一つの考えに囚われる姿勢には、危うさばかりが目に付く気がする。拘りの対象に対しても、殆ど理解できないままに、それに縋り付く姿には、異様な雰囲気が漂うが、安定する社会には、それを受け容れる余裕があるようだ。だが、彼らの将来こそが、この国の将来を決めるとなれば、このような状況を許すことが、必ずしも賢明な判断とは言えないのではないか。宗教に走った若者達と、今の拘りに沈む若者達が、同じ考えを持っているとは言えないだろうが、それでも、極端な方向に走っていることには変わりがない。経験を積むべき時に、偏狭な考えに縛られることは、損になることはあっても、得になることはない。それがわかっているのに、見守る姿勢を維持する社会には、先を見通す気配が感じられない。存亡をかけて、とは大袈裟だとしても、時に、抑圧とも見える力をかけなければ、反発に基づく成長には繋がらない。

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6月1日(月)−上昇

 物価が上がらねば、収入も上がることはない、との説明に、納得できない人は多いようだ。そこに更なる混乱を持ち込んだのは、物品の売買にかかる税金の率を上げる措置だが、これもまた、様々な方向への影響があり、解釈がそれぞれに異なる為に、単純には片付かないようになっている。日々の生活では、どちらも実感できないようだが。
 とは言え、税率の改定は断行されたから、消費者にとっての実質値上げは、既に起きたこととなっている。そこに、物価上昇を誘導するような政策が出され、愈々次に来るのは賃上げとの期待も膨らんだ。ただ、大衆にとっては、嬉しい話は先に来る方が歓迎だから、この流れは拒絶されることとなり、改定も中途半端な点で止まっている。その後も、企業の業績が改善されつつあるのに、末端への施しは先送りされ、またもや、夢か幻かと思われていた。ただ、景気の先行指標の一つとされる株価が、驚くほどの上昇を続け、久しぶりの活況に市場が賑わうこととなり、実感も徐々に強まり続けている。それを背景に、労使交渉とは名ばかりの馴れ合いとなっていた遣り取りも、重い腰を上げ始めたようだ。これもまた、大きなものから中小へと、末端に向かっての波及が常道であり、そこまで至って初めて全体への広がりが確実となる。ここまでは何とか約束が果たされつつあるが、さて、この先はどのように遷移するのか。確実なことは一つもないとは言え、約束は果たしつつあると主張する人の数は増えるだろう。これが一つの安定へと繋がれば、日々の生活への不安も消え始め、安心へと結びつくのだろうか。それとも、一つの満足はすぐに忘れ去られ、次の要求へと移るのだろうか。

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