パンチの独り言

(6月8日〜6月14日)
(経験、期待、意欲、不易、反省、無遠慮、年功)



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6月14日(日)−年功

 年長者の話に対する、好悪に関しては、人それぞれなのだろう。叱られたり、怒られたり、口煩い印象しか持っていない若者は、年寄りのでしゃばりとしか思っていない。それに対して、教わる部分に目を向け、含蓄のある言葉に耳を傾ける人々は、年の功を感じる機会を、大切に思っているのでは無いだろうか。
 確かに、年長者が全て良い印象を与える訳では無い。口煩さが先に出る人の多くは、そこに含まれる言葉の重さが感じられず、ガミガミと言い続けているという印象しか与え無い。第一印象を大切にする人では、最初にどんな言葉を受け止めたかが重要となるから、間違ったことをした時に接したのであれば、良い印象が残る筈も無い。その原因を作ったのが、たとえ自分自身だとしても、それを棚に上げて、厳しい言葉を放った人のことを毛嫌いする。年長者も、若い人々への接触の機会を窺っているだろうが、何もなしに話しかけるのは憚られる。だから、間違いを犯した機会に、ということも当然なのだろう。逆に見れば、若い方から年長者に向けての働きかけが、重要となるのでは無いか。なのに、敬遠することばかりでは、互いに機会を得ることは出来ない。含蓄のある言葉を受け止める為には、それなりの準備が必要であり、それを整えてから話しかければ、気楽な話も出来るのではないか。そんな機会を得て、様々な話を聞くことができると、今まで知らなかったことが見えてくる。小言しか言わないと思っていた年寄りから、意味のある言葉を引き出すことで、年長者の話の大切さも見える。こんな経験が重なれば、年の功の意味も解るだろう。そんな経験をした昔を思い出し、次の世代へと繋ぐ役割を果たす準備ができているか。そんなことを考える年齢になってきたようだ。

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6月13日(土)−無遠慮

 批判を受けるのは、何か悪い点があるからであり、その批判を受け入れて修正を図れば、次は問題なく受け入れられる。そんな思いを抱きつつ、批判に晒される最中、我慢を続けることは、次の成長へと繋がる。そんな言葉を信じて、厳しい叱責にも真剣に立ち向かい、時に、理不尽な言動にも、我慢し続けてきた。
 そんな人々にとって、批判を受け入れられないどころか、聞くことさえ拒絶しようとする人の気持ちは理解できない。だが、そんな行動をする若者達の心情は、全く違った観点からくるものらしい。自信の無さから、心が折れると表現される心理に対して、大人達は、何を大層なといった反応を示す。だが、彼らの心の中では、それがごく当たり前の動きとなり、自信を得る為に必要な一歩は、踏み出されることがない。これでは何処にも進めない、と思うのは、周囲の大人達だけであり、本人達は、その行動に何の違和感も抱かない。大切に育てられてきたから、との指摘は、部分的には当たっているように思えるが、それだけでは、現状の全てを説明することは難しい。批判にしても、叱責にしても、捕って食われる訳でもなく、殺される訳でもない。そんなことは承知の上、と考えてみても、何故、あれ程に中途半端な反応しかできないのか、全く理解できない。こう考えてみると、一つの結論が導き出せるのではないか。大人の理不尽に対して、若者が反応しているように見えることが、実は、若者の理不尽さの表れに過ぎず、それに示すべき理解などは無い、ということなのだろう。大人達が正しいと信じて、若者達に向ける批判は、そのままにすべきであり、何の遠慮も無用だということだ。

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6月12日(金)−反省

 誰しも失敗をするものだ。それから新しいことを学び、繰り返さぬように備えさえすれば、小さな失敗は大きな成功への端緒となる。ごく普通の人生訓だろうが、最近の傾向は、全く違った様相を呈している。安定期には、他人との違いも減点法が主体となり、小さなものでも目立つことは憚られるからだ。
 成功体験ばかりに目を向けると、人間は偏ったものへと成長する。確かに、整えられた環境さえあれば、誰しも、障害に直面することなく、平穏に成長できる。だが、その結果、様々な障害に対処せねばならない立場の人間でさえ、それを避けて逃げ回ることしかできず、何の解決策も講じられない。それでも、安定した時代には、大過なく過ごすことも可能であり、歪みがある線を越えるまでは、何の問題も無いように思えている。一方、避けがたい災害の場合、対応策が不十分となった結果、想定外に拡大することがある。その失敗に懲りて、そのもの自体を排除しようとする動きが強まることも、致し方なしと処理されるようだ。その最たる事例が、原発の問題では無いか。失敗の結果が甚大なる被害へと繋がったから、全てを投げ捨てるという選択には、失敗を過度に恐れる風潮が背景にある。何も学ぶことなく、別の失敗へと邁進する姿には、冷静な判断力や知性の欠片も感じられないが、感情に走る無知蒙昧には、当然のことと映るようだ。備えが不十分だったとの検証結果も、その原因を突き止めたとは言い難い。直後に感じたように、安全神話の結果であることは確かだが、その一方で、今と同じように、本質の理解なしに、何事にも反対する風潮では、更に安全性を高める為の方策など、見向きもされないどころか、下衆の勘繰りを招くだけとなる。部外者には、そんな検討があったかさえ、知る由もないことだが、神話に絡め取られた人々には、自由な発想さえ抑え込まれる。政治的な発想が、様々な面で問題を生じることに、気付かぬ人々には、本質を見抜くことなど、到底無理難題というものだろう。

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6月11日(木)−不易

 老人が若者達のことを憂えて、嘆息を漏らすのは、いつの時代も同じなのだろうか。ここでも何度も書いてきたことだが、権利主張ばかりをする姿に、呆れ果ててしまうだけでなく、最近は、不安とか心配とか、そんな言葉を並べるだけで、自分から動こうとしない人の姿が目立っている。意欲の減退はその現れなのだろうか。
 こんなことは特に気遣ってやる必要もないと思うが、今読んでいる本の中では、半世紀以上昔の、どちらかと言えば混乱期に近い時代にも、身勝手な輩を叱責する意見が出ている。そこでは、「青年にも学生にも、国民の強い誇りが感ぜられない。彼らのうちには、民主主義を履き違えて、自由と無秩序とを混同し、責任や義務に対する高い観念を身につけずして、権利のみを主張して当然のことであるという風潮が横溢しているかと思われた」とあり、この荒廃の原因は、戦後の混乱期の劣悪な教育環境にある、と断言している。今もそのままに通じるような言い分だが、これが癇癪持ちとか頑固者と呼ばれ、長きに渡って宰相を務めた人物の回想録に収められていたとなれば、全く異なる時代背景の中で、同じような言動を繰り返す人々の存在に、多くの人々が悩まされていたことが想像される。それにしても、人間とは成長しないものとは、よく言ったものである。この状況を眺めるにつけ、若い世代の身勝手な言動だけでなく、まともなことが教えられない教育者崩れの存在、更には、何事にも心配や不安を付き纏わせ、人心を惑わすことに躍起となる言論人の活躍など、いつの時代も同じ光景が続くものらしい。

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6月10日(水)−意欲

 興味を抱いたこと以外には、関心を持たない。そんな人々を眺めていると、何が幸せなのかと考えたくなる。おそらく、何かを失う心配さえなければ、人は好きなことだけをやり続けるのだろう。だが、その結果が何に繋がるか、本当に心配はないのだろうか。不安とか心配を口にしながら、彼らの頭の中は空っぽなのでは。
 好きなことだけに意欲を示し、嫌いなことから遠ざかる。こんな行動様式が、当然の権利として掲げられるようになってから、社会の混乱は、これも当然の帰結として起きている。意欲という言葉も、何度も使われるけれど、誤用のように思えるのは、好き嫌いが先にくるからなのだろう。欲と言えば、金銭が絡むものとの解釈も、誤りに繋がるものと思えるが、心の動きとして、様々な形があることに、誰もが気付くべきと思う。だが、現実はかなり厳しい状況にあり、自らの殻の中に閉じ籠り、外からの刺激にも反応しない人の数は、以前とは比べようのない程に増えている。それでも、社会の問題として取り上げられることは少なく、家庭の問題として放置されている。イジメが原因などとも言われるが、果たしてどこまで信じるべきか、と思う。きっかけがたとえその形だとしても、人はそれぞれに成長する過程で、何かしらの解決策を見出すものだ。それができない人間は、どこか他の場所に行くしかない。自分の殻の中に居られることこそ、実は、大きな間違いだということに気付くべきだろう。好き嫌いと関係なく、様々なものに興味を抱き、それを進める過程で意欲を示すことが、人間として当たり前の行動だという点に、現代人はもっと目を向けた方が良い。その上で、何をすべきなのかを考えれば、目標は自ずと絞られていくものだ。

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6月9日(火)−期待

 次代を担う人々への期待は、いつの時代にも大きいものだろう。期待があるからこそ、様々な批判の声も飛ぶ。言われる側からすれば、褒められたり貶されたりと、喜んではいられない状況だろうが、言う側にはそれなりの理由があるようだ。ただ、最近は、少し事情が変わったようにも思える。今の自分を第一に考えている。
 期待して後進に道を譲るより、自分達の好きなことをし続ける方が良い、という考えが、目立ち始めたのは、多分、成長に陰りが見え、下り坂に入った頃ではないか。成長を継続する為には、自分の代で終わらせてはならぬ、という考えが大勢を占めていた時代には、跡継ぎを育てることが第一となり、繁栄を長続きさせることが、自らの幸福にもなるという考えが当然のものだった。それが、衰退が目立ち始めると、自分の代で終わらせることも、選択の一つと考えられるようになり、後進を育てることは、却って不幸を招くかのように見られ始めた。何が先に来ていたのかは判らないが、衰退の始まりとこういう風潮の始まりは、ほぼ同時に起きていたようだ。人の心持ちの変化、と言ってしまえば、それまでのことなのだが、自分を中心に据える考え方が、特に持て囃された頃から、こんな方に向いてしまったのではないか。それから既に四半世紀を経て、若者達の意欲の減退は、強まり続けているように思う。指示を守ることが第一との考えも、ある見方からすれば、妥当なものと評価されるようで、問題が露呈した後で初めて、その本質に気付く人が多い。安定と言っても、成長が見込めた時代には、問題も大きくならなかった。だが、衰退への安定期は、全く違った様相を呈している。意欲をどう表すか、何に興味を抱くべきか、様々な課題が目の前に聳えるが、若者達はその姿に目を向ける気配も見せない。やる気のない人々に、何をやらせるかを考えるくらい、馬鹿げたものはない。

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6月8日(月)−経験

 齢を重ねてくると、体力の衰えやど忘れなど、悪い面ばかりが目に付く。社会の中でも、そんな見方が優勢であり、若い力の導入の必要性が強調される。一方で、筋肉は衰え、記憶力も定かでなくなりつつも、経験の力が役立つようになることも多い。問題に直面した時に、解決策を見出す力は、明らかに伸びているようだ。
 組織内の運営において、亀の甲より年の功が活躍する場面は多い。だが、急激な変化や未経験の問題にぶち当たると、経験だけでは役に立たないこととなる。ただ、十分な経験を積んだ人にとっては、未経験のこととはいえ、ある程度経験の範囲からの類推で、状況を把握できることも多い。この辺りは、単純に経験の多さだけで区別できず、その中で考えを広げたかどうかが、能力の高さに影響する。あれこれ考えると、寄り道が増えるだけに、はじめの内は他人の後ろを歩むことが多いが、経験値がある程度の限界を迎えた頃に、他との違いが際立つようになる。急がば回れと言われるのも、こんな状況の一つと思えるが、その場その時にやってみようと思うかどうかは、人の性格のようなものかもしれない。このような形で経験を蓄積すると、頼りない後輩達への視線にも、違いが現れてくるようだ。間違いを指摘し、転ばぬ先の杖を与えようとする人もいれば、間違いを見守り、本人の気付きを尊重しようとする人もいる。どちらが正しい対応なのかを決めるのは難しいが、これも受け手の問題となるのだろう。今の状況は、どちらかと言えば、前者に近い風潮にあると思えるが、これは、何事も教えて貰えるという若者達の考えに基づくもので、彼らの成長は順調に見えて、以前より早く限界を迎える。それでも教えを待とうとする姿勢に、苛立ちを隠せぬ先輩達にとって、新たな手立ては見えていない。無視し放置することで、気付きを待つほどに、皆の我慢は続かないのかもしれない。

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