雨が降ると、様々なことができなくなり、外に出かけることも難しくなる。そんな所から鬱陶しいと感じられ、それが長く続くこの季節は、嫌われることが多い。最近は単なる長雨だけでなく、急激な天候の変化に、恐れを抱くことも多くなり、良いことなど一つもない、という意見も度々聞かれるようになっている。
しかし、少し視点を変えてみると、様子が違って見える。庭の草花の勢いは、天からの恵みを受けて、徐々に増してくる。最近、庭の片隅によく見かける、コキアと呼ばれる一年草は、樹木を小型化したような姿を見せるが、少し勢いを増しすぎると、まるで鬱蒼としたジャングルの小型版のような光景を演出する。前の年に結実したものが、その周辺に飛び散ることで、数を増やし続けるから、喜んでいるうちに、蔓延ってしまうこともある。ただ、そこは一年草の特徴か、気になった時には、間引きをすれば数の調整は難しくない。ナスやトマトなどの苗達も、一気に勢いをつけ、枝葉を伸ばし始める。こちらの目的は、あくまでも果実にあるわけだから、枝葉だけでは満足できないが、酸性土の問題から、育ちの悪かった去年と比べると、その格段の違いに驚かされる。環境さえ整えておけば、こんなに育つのかと思っている所に、雨と日照の組み合わせは、素晴らしい効果を産むようだ。気温も高いままで保たれれば、更なる効果も期待できるが、長雨の悪い部分は、気温の低下へと繋がることだろう。まだ、その気配は出ていないが、気温の上下には、自分も含めて気をつける必要がある。風邪をひいたり、体調を崩したりしては、自然の営みを楽しむことさえ難しくなるが、この季節は、適当な雨量と日照さえあれば、植物達も元気に育ち、人間もそれらを見て食べる楽しみを持てる。
捏造や剽窃は職業上の問題と捉えられていたが、そのきっかけとなるのが、教わっている最中の行為とされるに至り、現場では混乱が続いているようだ。既に記憶の片隅からも無くなってしまった、リケジョの星の問題は、まさにその典型と捉えられ、彼女が獲得した研究者としての資格も、丸写しの多さに怪しいものとされていた。
だが、肝心の審査機関は、必ずしも不正があったと断定できないとし、剥奪の決定は下さなかったようだ。この背景には、多くの人々が剽窃を問題と捉えず、常道と見做してきたことがある。それどころか、資格獲得にデータ捏造が必要となれば、止む無きことと受け取るようでは、職業を得た後にまで、そんなことを続けるのは当たり前のことかもしれない。では、そんな特殊な職業に就く人々だけが、心の病に冒されているのかと見れば、教育現場の状況は、更に厳しい事態を迎えているようだ。大学の講義で課せられた、レポートと呼ばれる課題について、丸写しを常態化している人々は、その行為に何の疑問も抱かない。それどころか、その内容に関しても、理解が及ばないだけでなく、その中にある間違いにさえ気付かない。剽窃という無責任な行為を指摘するだけでなく、作り上げた文書に対する責任さえ放棄した人々に、倫理の意識は皆無と言うべきだろう。盗むという行為に対する、意識の変化とも言うべき現象だが、それ以上に深刻なのは、ガラクタを盗んでいることにさえ気付かぬ、知能の低さにある。その上、それを他人に晒すことは、自らの恥を晒すことになる筈だが、その意識さえないとなれば、人間失格と言わざるを得ない。こんな状況が放置される中で、進学している若者達は、能力の欠如だけでなく、心の問題も抱えている。彼らが当然と受け取るものが、明らかな間違いに基づくと指摘され、厳しく批判された時、心が折れるという不思議な現象が起きるらしいが、それこそ、自業自得というものだろう。
貧困対策の多くに関しては、心情的には賛同したいと思うのだが、現実を目の当たりにすると、その無軌道ぶりに、反対する側に回りたくなる。権利の主張は、確かに、誰もが行うことができるものだが、現実の非常識さには、その剥奪を提案したくなることも多い。金銭的な問題だから、金銭の補助で解決すればいいだけなのに。
実際には、目標を達成する為に必要となる援助の筈が、いつの間にか、金銭のみを受け取り、本来の目的については、忘れ去られることが多い。こんな事例が並べられると、人道的な見地で導入された制度も、本来の意味を果たすことが難しくなる。逆効果は悪影響を及ぼし、本当に援助が必要な人々には、その手が届かないことが多くなる。その度に、支援の必要性が取り沙汰されるが、悪い例ばかりに目が集まり、批判の矢が飛び交う中では、肝心な手立てが講じられなくなる。高い志を尊重して、という思いも、欲に駆られた人間の存在により、社会で認められなくなることもあり、権利と同時に義務を与える必要性が強まる。確かに、志を持つ人にとっては、義務は大した負担とならないだろうが、金銭欲を満たしたい人にとっては、邪魔なものにしか映らないだろう。そんな経過観察が実行されれば、支援も確かなものになるに違いない。では、何故、それが実行に移されないのか。おそらく、観察する為の手間が面倒との見方があるからではないか。だが、何をするにしても、効果の程を確かめる必要はある。それをばら撒きだけで済まそうとするのは、これまでの考え方だったのだろう。貧困対策において、本当に支援が必要な人がいるのなら、事後のことにまで目を向けて、実施すればいい。
能力がないのか、それとも、意欲がないのか。若者達の言動に、呆れたことのある人は多いだろう。身の丈に合わぬ目標を設定し、頑張るのかと思えば、そのままに放り出す。当然の要求に対し、達成できなかった時に、過度の要求と言い放つ。責任転嫁と言えばそれまでだろうが、それにしても度が過ぎるのではないか。
ゆとりが取り沙汰された頃、低い目標設定に、意欲の減退が問題視されていた。当時の若者達は、用意された確実にできる目標を、やっとのことで達成することで、大きな満足を得ており、その上を目指す動きは、殆ど見られなかった。当時への反省は、子供達の意欲に期待してはならず、高い目標を無理矢理でも設定することで、這い上がる若者を選び出すことの重要性に、目が集まったことではないか。ゆとりを捨て去り、既にそんな心配は無用となったと考える人もいるようだが、現実はそんなに甘くはない。一度緩んだ仕組みは、弛んだゴムの如くであり、関わる人々の心持ちを、根底から変える必要がある。傾向と対策に侵された現場では、最低限の努力が好まれ、有益かどうかばかりに注目が集まる。こんな中で育った人の大部分は、目標達成への努力を当然とは思わず、手助けを権利として主張する。有益な内容という問題より、役立たずの人材の問題の方が、今や重要となっているようだ。期待ばかりを抱かせ、必要となる努力を、正当に評価しないばかりか、努力が成果を産まなければ評価されない、という基準に関しても、不条理と主張する。意欲の減退が解消される可能性は、依然として低いままだが、その中で、自分なりの頑張りを見せる人々を、どう引き上げるかが社会の課題となるだろう。平均ばかりに目を向け、目立つ仲間の足を引っ張る不届き者を放置するようでは、可能性を引き上げることも難しいが。
多様な生き方という言葉の響きは、若い人々にどんな感覚を抱かせるのだろう。自由な選択といった形で、自らの意思で様々に選ぶことができる状況に、多くの人は魅力を感じるようだ。だが、その結末がどうなるのかに対しては、全く注目を浴びていないように思う。転々とした結果、根無し草となった人には、誰も目を向けない。
権利と自由を最大限に活かした結果、可能性を伸ばすことができた、という事例に関しては、多くの賛同が得られ、成功例として挙って取り上げられる。だが、その一方で、落ち着くべき場所が見つけられず、彷徨い歩いた結果、何の可能性もない、どん底に落ち込んだ人に関しては、失敗例としてどころか、何の注目も浴びず、忘れ去られる運命にある。選択の責任という表現が、突如として現れることに、当事者達は驚きを隠せない。自由の反対側にある、義務と責任という制限に関して、本来は表裏一体とすべきものを、身勝手な解釈を適用することで、無視し続けた結果だから、当然の帰結とも言えるが、本人にとっては、予想外の展開と決め付けたくなるのだろう。それにしても、要望に応じる形で、次々に編み出される新機軸に、諸手を挙げて歓迎を示した人々は、落胆の色を隠せない。何をどうすれば、などと悩む姿が目立つが、現実には、従来からある義務と責任を伴う制度に対して、自らができることを考えた方が、遥かに確実で、遥かに効率的な結果獲得の道があることに、社会は気付くべきではないか。大多数がその恩恵に浴すことが出来るのに、ほんの一握りの人を対象に、新たな制度を見出す努力をする。安定した時代の特徴には違いないが、寛容もここまでくれば、過剰なものとなる。大人と子供の関係をはじめ、強者と弱者の関係においても、何が適切か、真剣に考えるべきだ。
役に立つかどうかが議論の対象となっている、ように見える。だが、役に立つとはどういうことか、議論に参加する人々の考えは、かなり異なっているように思える。何度も取り上げたことで、聞き飽きたと言われるだろうが、ある小説家の言葉には、悪意が感じられ、自らの生業が冷遇されたことへの反発とも思えた。
言葉を売ることで、収入を得ている人々にとって、言葉に託すべき意味は、重要な役割を果たす筈のものに思える。だが、怒りに任せて発した言葉には、何の意味も感じられず、軽薄さばかりが目についていた。彼女の知性の無さは、その後の発言にも現れ、物議を醸すことで、注目を浴びようとする、低俗さの表れのように見える。一方、役に立つかどうかを、新たな議論の対象とした人々は、最高学府を率いる役職にある。目の前に並ぶ、情報伝達にあたる人々の理解力を、考慮に入れた訳でもあるまいが、分かり易さを追求する風潮に、自らが乗ってしまっていることに、気付いていないのかと訝る程に、質の低い話を展開していたようだ。確かに、学問をする為とされた、最高学府への進学も、今や、単なる資格取得の意味しかないように見える。その中で、自らの役割を見直すことなく、単純に、社会からの要請を否定する立場を貫くことは、所詮、崩れ掛けた知の城を、守ろうとしているだけのことだろう。成果を追求する風潮に、自らも加担していることに気付かず、全体の勢いは収まる気配はない。その中で、こんな発表を仰々しく行ったとしても、下世話な内容に終わり、知性を感じさせるものにはならない。社会の要請に応えることが、あらゆる組織で要求されるような時代には、こんな対応も当然と見做されるのだが、本質を見失った人々に、組織を運営する資格があるのかは、かなり怪しいものと言わざるを得ない。学問の府として、何を授けるべきか、今一度考えるべきではないか。
春の訪れとして、花やその香りを楽しんだものが、数ヶ月後に実りを持ってくる。自然の恵みとして、受け止めれば良いのかもしれないが、人手不足はこんな所にも及んでいる。実を採って集める作業も、人の手が必要であり、そのままに放置すれば、折角の花の園も、荒れ果てててしまう。そこに工夫が必要となる。
市内の公園にある梅園では、市民の参加を募り、一人三百円の参加費で、梅の実を二キログラム持ち帰ることができる。これが30年も続いていると聞いて、驚いてしまった。市販の実に比べれば、大小入り混じった状態だし、傷物は限りなく存在する。労賃を考えずに安い物を手に入れようと思った人にとっては、少々の傷物は我慢するとしても、この水準では仕方ないか。それでも四百組近くの参加があるとなれば、長く続いていることは納得できる。それに、空手で参加した人間から見ると、脚立持参に加え、網や棒を抱えての準備万端に、更なる驚きを催す。おそらく何度も参加している人達は、大きさを限定し、傷物を外して、いい物だけを持ち帰る。その後の手間を考えれば、変な欲を張らずに、気に入った物だけに限れば、いいだけのことだ。初参加の立場からは、そんな余裕は微塵もなく、目についた実を次々に袋に入れる。大きさバラバラ、傷も目立つのでは、徒労に終わってしまうかもしれないが、体を伸ばし、飛んだり跳ねたりをすることで、久しぶりの運動になったと思えば、それでいいのかもしれない。それでも流石に、帰宅してから傷物の活用法を調べた。凍らせてから、砂糖と煮て作る梅ジュースが手軽とのことだ。青いのは焼酎漬け、色づき始めたのは、暫く置いてから、梅干し作りへと進むこととなった。