パンチの独り言

(6月22日〜6月28日)
(厳格、復興への道、空威張り、義務、書き替え、生物種、衆愚)



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6月28日(日)−衆愚

 自らの存在を危うくする勢力に対して、その壊滅への手段を論じ合う。まるで戦場での睨み合いの状況のように見えるが、実際は平和な時代であり、好き嫌いに関わる話に過ぎず、危機感の表れとは言えそうにもない。所詮、身勝手な主張の投げ合いでしかなく、そこから何かしらの重要な決断が生まれる筈もない。
 それでも、好き勝手な振る舞いを妨げる、批判の矢には怒りを覚えるのだろう。自分のことは棚に上げ、相手の不見識、非常識を並べたて、存在意義がないことを強調する。確かに、情報伝達に当たる人々の不見識は、今まで見たことがない程の水準に達し、知識不足だけでなく、無理解、未調査のままで、強引な結論の導出へと結びつける姿勢には、責任感の欠片も感じられない。結論ありきの情報操作だけでなく、捏造とも思える行為には、本来の任務を果たそうとする気配はなく、誤報の乱発には呆れるばかりとなる。その一方で、自らの主張を通す為に、様々な方便を並べる連中に対しても、信頼が生まれる気配もない。何事にも、解釈で押し通そうとする人々に、政を施す資格はないだろう。それにしても、壊滅を狙うかの如くの発言に、挙って国民全体からの批判を持ち出すことに、これまでの行状からは、諸手を挙げて賛成とはいかぬ状況ではないか。確かな議論の機会を奪い、敵対視する相手の立場を無くそうと苦心する。本来の業務とは異なる役割に、どれ程の意味があるのか不明だが、当事者達の力の入れようには、相も変わらぬ品性の無さが見える。互いに、品格は失われ、泥仕合へ持ち込まれることは、ほぼ確実だろう。その上で、何の実りも産まない遣り取りは、何の為だったのかと批判されることもなく、忘れられるだけだろう。

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6月27日(土)−生物種

 道理を明文化したものが法律なのだろう。穿った見方をすれば、所詮、人間の都合によるものであり、生き物としての問題とは、違った考えを根源とすることもある。様々な事情が横たわり、それらを論理的に結びつけた結果として、社会の秩序を保つ為の法則へ繋がる。一見妥当なものと映るが、生物学的には異常と思えるものもある。
 特に大きな問題を生じるのは、人間の欲を根源とするものだろう。欲を抑え付ける為の掟は、様々な形で法律となり、社会の秩序を保つのに役立っているが、その一方で、欲から出てきた権利の主張を、保障する為のものに関しては、当事者独自の論理が表出し、その妥当性が議論されると共に、人権問題として注目が集まる。権利を獲得する為の戦いを展開する人々には、その有無こそが重要課題であり、生物としての人間の存在に関して、目が向けられることは少ない。異性間での生殖活動を源とする子作りは、生き物としてのヒトと呼ばれる種の存続に欠くことのできないものだが、同性による組み合わせでは、その機会を失うこととなる。生殖医療の発達により、様々な手立てが講じられ、不妊治療の延長線上には、同性間の生殖さえ可能にする技術が、編み出せるとの期待もある。元々、生殖医療自体が、人間の欲望の表れの一つであり、生物としてではなく、人間としての権利の主張の結果とも見做せることから、生物学上の原理に背くものとも言えるだろう。それが更なる要求を満たす方向に動けば、不可能も可能へと変わり、誰もが望みを叶えられるかもしれない。だが、それは、生き物としての本来の営みを失うこととなり、ヒトという種が絶えることとなりかねない。その選択を、法律という名の下に行うことに、強い違和感を覚える。

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6月26日(金)−書き替え

 他人のものを盗む行為は、法律で禁じられている。誰もが理解している事実だが、その対象によって解釈が違うように思える。人の持ち物を盗めば、それは犯罪であるとなるが、では、どんな持ち物でも、そうなるのか。金品であれば、異論を唱える人は居ないが、意見となったらどうか。意見に所有権があるのだろうか。
 意見そのものには、同意するなどの行為が伴うことから、共有といった感覚が存在する。であれば、他人の意見を自分のものとして表明すること自体に、何の問題もないこととなる。確かにそうだろうが、形を持たない意見と異なり、文字という媒体で伝えられるものに関しては、事情が異なってくるのではないか。一定の形を有さない意見と違い、それを文章に起こせば、一つの形として出来上がる。これをそのまま拝借した場合、剽窃という罪を犯したと解釈される。著作権という権利が保障されるようになり、書き記したものにも、金品同様の扱いが適用されるようになった。これが、引用という形式を取らずに、他人の文章をそのままに使用する行為に対して、犯罪と見做す理由だろう。だが、考え方として同じであっても、その表現方法は千変万化する。同じことを主張するにしても、違った表現を使うことは可能なのだ。にも拘らず、安易に他人のものを書き写す行為が横行するのは、何故だろうか。独自の表現様式を持たないことが、最大の要因だろうが、異なる表現さえ思いつかない、文章力の欠如にも問題があるのではないか。そんな練習はしていない、という言い訳を使うのもいいかもしれないが、頭の中で起きている文章理解の道筋を、冷静に思い起こしてみれば、造作もなく出来ることに思える。表現方法という最終形には、独自のものを持てなくても、そこに至る筋道には、各自独自のものを持つに違いない。そこに一工夫を施せば、自分なりの表現への転換も、可能となるのではないだろうか。

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6月25日(木)−義務

 自由という言葉に惹かれ、権利を殊更に主張する。特別な人種だと、昔は思われていたが、この頃はこれが当たり前となっているようだ。まともな人々からは、何の責任も負わず、義務さえ果たさぬ人々に、自由も権利もあったものではない、という意見が聞こえてくるが、主張する人々は、意に介さぬ姿勢を貫く。
 前段に書いたような人々は、社会に巣食う害虫のように見られることもある。害を及ぼすばかりで、社会に対する貢献が全くない為に、お荷物と呼ばれることとなる。だが、当人は、そんな評判に耳を貸すことなく、どこ吹く風と、権利を叫び続ける。いい大人でさえこんな状態なのに、右も左もわからぬ若者や子供達には、大人達の身勝手な行動も、何かしら魅力的なものに映るようだ。模倣を繰り返し、人格が疑われるような、悪い大人への道を歩んでいる。困っているという顔を見せれば、誰かが手を差し伸べてくれる。不安だと大きな声を上げれば、何かしらの手立てを与えてくれる。そんな環境で育った人々は、自ら解決の道を探る能力が身につかず、混乱の元にしかならない。こんな社会になってしまうと、真面目に振る舞う人々が、損をするばかりとなり、身勝手な主張をする人々が、得をすることになりかねない。昔なら、バチがあたるという一言で、そんな不道徳が厳しく戒められたものだが、天罰などという言葉は、今や死語と化している。責任の問題も、かなり大きくなっており、その転嫁を常とする人々が、大勢を占めるようになっていることが、先行きを暗いものとしている。義務という言葉でさえ、何を指すのかを知らず、無視しようとする人がいることは、社会の存在そのものを危うくしている。この状態で、世界はどこに向かうのか。なるようにしかならない、ということか。

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6月24日(水)−空威張り

 自分達に誇りを持つことが重要であると言われるが、一つ間違えると自分中心の考えに縛られ、外から見ると傲慢さが目につくことがある。そんな時、周囲から批判の声が届くが、誇り高き人々の中には、相手の意見を尊重せず、反論に努める人がいる。肝心な指摘に目を向けず、単に批判されたとして反応する訳だ。
 誇りの高さは、自負心と呼ばれるものへと繋がることがあり、それが時に強過ぎると、逆効果となることがある。誇りは自信の表れと見る向きもあるが、現実には、確固たる自信がある訳ではなく、不安を抱きつつの主張であることが多く、それを見破られないようにと、肩肘を張ることとなり、無理を押し通す。世の中には、この種の人々が沢山居て、その相手をする羽目に陥ると、かなりの困難を感じさせられることになる。中身のある誇りは、それを見るだけでも、更には、それについての話をするにしても、無駄と思うことは少ないが、安物の鍍金のように、すぐに剥がれてしまうようなものを、誇示する人々と接すると、それ自体が大いなる無駄に思えてくる。始めにも取り上げたように、こういう人々が陥りやすい間違いは、自分を中心に物事を見るきらいがあることで、外から眺めてみようという気持ちは毛頭ない。だから、他人からの意見の多くは、自分を否定するものに見え、反論という防御に努力することになる。冷静に眺めてみれば、様々な問題が見えてくるのに、そのきっかけさえ失う態度には、本人の格調の低さを感じてしまう。謙遜という言葉を、卑下と受け取る人の多くは、一度否定すると、それが固定してしまうことを危惧するのだろうが、それこそが自信の無さを表すのだろう。空元気にならぬように、自らの主張を繰り返すことこそ、誇りを崩さぬ為の良法なのではないか。

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6月23日(火)−復興への道

 地方都市の抱える悩みは、単一のものではない。それぞれに、異なる事情があることから、その解決に向けての方策にも、一つの確実な方法がある訳ではなく、それぞれの問題に対応したものが求められる。画一的な対策が好まれる中で、個別の例に対応するものが求められ、関係者の悩みは深くなるばかりのようだ。
 公的な支援の多くは、ばら撒きと批判され、的外れなものに終わることが多い、と言われる。実際には、支援の決定が先になされ、その詳細に関しては、個別に検討すべきと言われるが、結果的に画一化した施策が実行されるだけで、個々の問題に目が向けられることは殆ど無い。それでも支援は施したとの解釈は、社会全体に広がる訳で、不的確なものと言われても、やったのだから、という言い訳ばかりが残ることとなる。特に、災害からの復興において、慌てた対応が、ある意味出鱈目に行われ、役に立たないものが残るだけとなる。確かに、何が必要なのかを検討することが、まずは必要となる筈だが、突然襲われた状況からは、思いつきではなく、整理した形での検討を実施することさえ難しくなる。はじめは、日々の生活を保障することから、手をつける訳だが、そこから更なる一歩を踏み出す為には、何らかの整理が必要となる。現状把握さえ及ばぬ中で、対策を講じようとする動きには、明らかな無理があるけれども、何故だか、無理を承知で進めようとする動きへと繋がる。どこが間違っているのか、敢えて指摘する必要も無いことだが、突然の状況で、選択の余地が無いとされて、無駄へと結びつくのでは無いか。遅々として進まぬ復興に、現地の人々の焦りは高まるばかりだが、何年も経過したことを考慮すると、逆に、焦らず騒がず、敢えてじっくりと考えることこそが、重要なのかもしれない、と思う。

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6月22日(月)−厳格

 様々な圧力を浴び、抑圧に苦しめられる中で、不条理を嘆く姿がある。誰もが、若い時代に感じたものだが、年を重ねた後で振り返ってみると、何かが欠けていたことに気づかされる。若気の至りとよく言われるが、こんな苦しみの中でも、自らが築くべき道理や論理の欠陥に気づかず、信じた道を歩もうとしていた。
 そんな様子は昔と今で少しも変わっていない。未熟な若者の姿に、不安を抱く一方で、苦言を呈そうとするが、そこに、自分の昔の姿は重ならない。全く違ったものとして、頭の中には描くものの、実際には、その記憶さえ不確かなものに過ぎない。それでも、若者達を教えようとする人々は、道理や論理に必要な要素を、教え授けようと努力する。だが、目の前の不安げな顔からは、大した反応は返ってこない。一から十まで、全てを教えてくれるものと信じる目からは、自分で切り開こうとする気概は感じられず、そこからも道筋を照らしてくれる教えを乞う気持ちだけが伝わってくる。そんな期待を抱く人々が、不条理としか感じられなかった相手が、どんな思いでその態度を取っていたのか、彼らに理解できる日が訪れるだろうか。独り立ちを強いられる中で、不安ばかりを口にする人々に、どんな心の変化が訪れるのか、本人だけでなく、教える側にさえ見えていない。その中で、どんなことを学び取るか、余りにも不確かなことばかりだろう。だからと言って、今の人々が頻りに口にする、全てを教え込むやり方が、効果を上げるとは思えない。一時は、厳しい対応と見られても、その後の展開から、全く違った見方が出てくることもある。大人になるとはどんなことか、こんな場面でも、意識すべきことではないか。

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