パンチの独り言

(7月6日〜7月12日)
(草叢、利己的、流言、不明、負け犬、無知、舌足らず)



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7月12日(日)−舌足らず

 言論の自由、報道の自由、そんな言葉を並べ立てる人々が居るが、彼らは自由なだけなのだろうか。勝手気侭な言動を続け、目論見に溢れた内容を垂れ流す。今やそんな輩ばかりとの指摘もあり、自由から生まれる筈の義務や責任は、無視され続けているように映る。認可制のものであれば、当然の図式の筈だが。
 言論人の中でも報道に携わる人々は、その言動に責任を負っていると言われる。では、ここで問題となる責任とは何か、その答えを示してくれるものは少ない。発言に責任を、とは、よく政治家に対して報道が投げる意見だが、意見の主は、それを果たしているのだろうか。そんな疑問が浮かぶ程、好き勝手な意見を投げかけ、同じ指標を自分に当てはめることなく、無責任な態度を続ける。こんなことを書くと、その業界から反論が出るだろうが、肝心なことを棚上げしている人々に、反論の権利は無い。意見や解説における責任は、様々な形で現れ、これという固定したものにはならない。しかし、報道そのものに関してはどうか。情報を伝える上で、最も重要なことは、正確さにある筈だろう。それを蔑ろにする人々に、電波に自分を乗せる資格はなく、誤報や情報操作を繰り返す状況は、あり得ないものと言うべきだろう。中でも、公共放送と呼ばれる組織において、最近、目に余る状況が続いていることは、この国の水準低下を如実に表しているように思う。原稿を読むだけの報道を基本とした時代と違い、意見を述べる機会さえも与えられるようになったことは、視る側や聴く側からすれば、歓迎すべき部分もあるだろう。だが、肝心の情報の正確さが、無くなっては元も子もない。原稿書きの能力低下と言ってしまえばそれまでだろうが、一人だけの責任ではないものだ。常識の無い人々が世に蔓延る時代には、こんなことも起きるとは、まさに非常識の表れの意見に違いない。

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7月11日(土)−無知

 国の問題でもそうだが、その根底にあるのは、人間一人ひとりが自らの要求を、満足させようとすることだろう。彼らの欲望は尽きることなく、次々に突きつけられるが、そこからは何も生まれない。一つの権利を渡すことで、一つの義務を果たすことがなされるのであれば、殆ど問題は生まれないが、現実は、一方的な取引だ。
 弱い者を保護しようとする考えが、何か重要なものであるが如く扱われ、まるで人の格を決める要素のように見られる時代には、与えることが第一と考えられる。こちら側の観点からすれば、与えることを心がけ、貧しい人々に目を向ければいいのだから、何の問題もないように思える。だが、心も懐も貧しい人々が、自らの権利として、もっともっとと要求するようになると、何か大きな間違いを眺めているような気がしてくる。現代社会の大きな問題は、単純に、自由と権利に対する交換条件のようなものとして、義務と責任が生じることに気づいていても、それを無視し続けることで、自らの利益を膨らませようとする人々が、強い発言権を得ていることだろう。これを当たり前と見る人々が、社会の中枢を成すようになり、過度な要求への批判を、口にすることが憚られるようになると、この流れを止めることは、かなり難しいものとなる。何しろ、何の役目を負わずとも、権利を行使できる訳だから、これほど気楽なものはない。物々交換の時代には、手にある物を、相手の物と交換することが、基本となっていたが、別の交換の仕組みが採り入れられると、恰も要求が交換の対象となっているかのように見える。こんな輩が社会に蔓延れば、何が起こるかは簡単に分かる筈だが、今の世の中は、老若男女に関わらず、誰もが分からないでいられるようだ。

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7月10日(金)−負け犬

 被侵略の歴史からだろうか。主体性の無い意見の羅列に、強い批判が浴びせられる。難癖としか思えない注文に、過去への反省を感じる隣国は、何かと便宜を図ろうと腐心する。だが、一つを満たせば、更なる注文が出て、尽きることの無い欲望に付き合うことの難しさだけが、疲労困憊の後に残っているようだ。
 追い抜いた途端に、自らの優秀さを誇る態度を露骨に表す。そんな国民性に、隣国ばかりか、取引をする国々の多くは、呆れてきたのだろう。技術革新の過程でも、手立てを尽くして、新技術の盗用を繰り返していた。こちらも、その昔、それに似た行為をして、海の向こうの国の技術を盗み見てきたが、見ただけのことであり、真似に過ぎない所に留まっていた。その後の努力が、繁栄を築いた訳だが、それとて批判的に見れば、盗用と見做されるのかもしれない。だが、彼国の場合は、手練手管を弄し、色欲を手繰って責めたり、金でカタをつけたこともあると言われる。繁栄を誇ったこちらも、それに溺れてしまったのか、重要技術を安易に渡したこともあるらしく、相手の思う壺とは、こんなことかもしれないと、お人好しのお国柄とでも言いたくなる。いずれにしても、被害者意識を消し去ることなく、それによる利益をあくまでも追求しようとするお国柄か、例の遺産話でも、注文と要求は更に勢いを増している。相手にしないことが、肝要と思われるが、口煩い人々への怒りは、違う形で表面化しそうだ。言語の問題に関しても、最先端の文字を誇る姿勢に、理解という最重要課題への妨げとの解釈が、横槍を入れている。複雑怪奇な仕組みを使う側から見れば、単純さは魅力にも思えたが、それで失ったものを眺めてみれば、何が大切かを考える必要を再認させられる。

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7月9日(木)−不明

 若い頃、もっと考えろ!、と言われたことがない人は居ないだろう。その時、こんなに考えたのに、何故、考慮不足と断じられるのか、不思議に思ったのではないか。後から思い起こせば、上司や先輩から受けた叱責が、実は、的を射たものであり、十分に考えたというのが、単なる自分の思い込みに過ぎないことに気づかされる。
 経験不足からくる、こんな判断の間違いは、何度も繰り返されてきた。それが積み重なることで、ゆっくりとだが、徐々に成長を繰り返し、今に至ったと考える人が多い。足らないのは、今でもそのままだが、状態はかなり変わってきている。人間は成長を続けねば、そこでおしまいとも思え、それぞれに努力を続ける。これで十分と思うことはあっても、実態がその通りになることはなく、常に、何かが足りないとなる訳だ。このことに気づくのは、殆どの場合、ある年齢を超えてからであり、それまでは、傲慢さを含んだ自己満足に終始し、自らの至らぬ部分に目を向けることはない。時には、至らぬのは経験が浅いから当然であり、それを責められるのは筋違いの話と、所謂、逆ギレのような反応を示す人も出るが、そんなことを後々思い出して、恥じ入ることとなる。経験の浅さは、視野の広さにも影響を及ぼし、多くの要因に目を向け、それらを分析することができない。狭い視野に基づく判断では、突発的な出来事に対応しきれぬことが多く、対応を誤ることとなる。これも若気の至りと片付けてもらえればいいが、そうとも行かぬ場合もあるだろう。一方で、傾向と対策で、無難な道を歩んできただけに、予想外の展開に応じ切れないことは、当然の帰結と見做されることがある。これも力不足を棚に上げるだけのことで、自らの不明に気付かぬことを晒すだけだ。そんな失敗の数々があっても、周囲の支援のお蔭なのか、それぞれに成長することで、何かしらの手立てができるようになる。この変化を忌避していては、社会のお荷物になるだけと、少しは覚悟を示す必要がある。

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7月8日(水)−流言

 偽の情報を流していると、糾弾された人々は、表現の自由を振りかざして、反撃に出ていた。確かに、度の過ぎた糾弾が、組織の存続さえ危うくする手立てを講じようとしたことは、自由の保障を蔑ろにするものとなり、見識のなさを露呈した。身勝手な考えに基づく提案は、社会の秩序さえ乱しかねないものに見做されたようだ。
 ただ、反撃の盛り上がりは、予想外のものだったのではないか。言論の自由という観点から言えば、自分たちが流した情報に、責任を負っていさえすれば、何の問題もないと思える。だが、指摘された点に関して、強い反論を展開したのはほんの一部に過ぎず、その点に関する議論を、まるで避けているかのような展開に思える。意図的に、世論を操作しようとする動きは、今始まったものでもないが、その危険性に関して、あの業界の人々は、侵略戦争への加担への反省から、常に自制を心がけてきた。にも拘らず、今回のような批判は、度々起きており、過去への反省と称して、捏造としか思えない情報を流したり、過度な脚色を施した情報を流したり、様々な問題を招いてきたことは、大いに反省すべきことと言われる。それとこれとは話が違う、とは、彼らがよく使う言い回しだが、根源にある心理に関して言えば、同じ問題を論じていると言えそうだ。後ろめたさがないのであれば、言葉による喧嘩を得意とする人々が、これ程に大人しい対応に出たことに、理由が見つからない気がする。たとえ、相手が犯罪にも似た行為を提案したとしても、その真意を汲み取り、自らの姿勢への反省に繋げなければ、互いの傲慢さは改められることはない。言い放つことばかりとなり、耳を傾ける謙虚さを忘れてしまっては、情報伝達を担うことは難しくなる。

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7月7日(火)−利己的

 国を挙げての決断に、成り行きを見守っていた人々も、どうしたものかと思ったようだ。それがどんな展開を生じたか。最近の流行りから言えば、不安が増大し、狼狽が広がったとなるようだ。だが、冷静な分析からは、報道の煽りを批判する声と別の要因への指摘が現れる。どちらが本物か、あるいは、どちらも偽物なのか。
 情報の活用が強く推奨される時代だが、その真偽を見抜く力を養うより、どう集めるかばかりに注目が集まる。ゴミも宝も、全てを集めてこそ、情報を活用できるという考えによるのだが、さて、それらの山を目の前にして、何をどうしたら良いのか、現時点では、答えは示されていない。技術革新への期待は、こんな所にも現れ、情報収集を担う計算機の中で、その選別までやらせようとする仕組みの開発に、大きな期待が寄せられている。実際には、まだその域に達しておらず、暫く待つしかないようだが、その間にも、情報の氾濫は続く。それも、単に真偽の問題だけでなく、その裏にある思惑をも見抜く必要が出てくるだけに、集めることに力を入れてきた人々の混乱は、収まりそうにもない。だが、最初に上げた話でも、人々の興味を惹くためには、都合のいい話を作り上げる必要も出てくる。これが情報操作へと繋がるわけだが、目の前に広がる甘い話に、惹きつけられる人に罪はないのだろうか。自由と権利が膨れ上がってしまい、それに伴う筈の責任と義務について、目を向けることを忘れた人々に、差し伸べられてきた手が、ある日突然引っ込められるとしても、不思議なことは何もない。それを当然と見做すことができれば、惑わされることもないのではないか。

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7月6日(月)−草叢

 光が見えない、と言っても、今話題となっている、国際問題や経済問題のことでは無い。光そのものの話で、長雨の続く天候についてである。日照を頼みとする作物に関しては、長雨続きは大きな痛手となり、厳しい状況はまだ暫く続きそうだ。その一方で、日陰に育つ雑草達は、これ幸いと成長を続け、蔓延っている。
 夏の日照は、自分の体でも感じられるように、良い影響ばかりでなく、悪い影響も及ぼす。日を浴びて育つ植物にとっても、必ずしも成長を促すとは限らず、強すぎる光に、枯れてしまうこともあるようだ。そんなことを思ったのは、この所の長雨続きの中で、庭の草花の様子が一変したことによる。土の中には様々な植物の種があり、それが機会を捉えて芽を出したこともあるのだろうが、普段なら、強い光を浴びて干からびてしまうものが、圧倒的な水分と雲で弱められた日照から、ぐんぐんと茎を伸ばし、葉を茂らせて、まさに蔓延っているという図が広がる。そういえば、広がっている植物の多くは、日向で育つものではなく、日陰に広がるものが多い。ほんの数日でも、日照りのような天候が続けば、状況は一変していただろう。しかし、肝心の太陽は顔を出せないし、水分は過ぎる程供給されている。本格的な夏の訪れは、まだ暫く先のこととなりそうで、蔓延った草を抜く作業は、凄まじい湿気の中で続けねばならない。脱水症状に気をつけつつ、続けていかないと、こちらがくたばってしまうことになりかねない。ちょっとした気候の違いで、結果が大きく異なり、対応も全く違うものとなる。自然を相手にすることの難しさは、こんな所にも現れているということか。

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