人間の欲には色々ある。宗教では、それを取り上げ、欲ばかりに走る行為を戒める。こんな教えが、人間世界に広がったのも、各人が全く違った考えを持っていても、その根底に広がる欲の世界には、殆ど違いがないからだろう。欲を禁じる動きがある一方、それを満足させる為の努力への評価は、別の形であるようだ。
成長に繋がる努力は、何の目的もないままでは、積み重ねにくいものだろう。そこでは、欲を満たすという目標が、重要なものとなる。強すぎる欲は禁じられても、無欲が必ずしも良い結果を産む訳ではないことも、多くの人々が知る所だろう。だが、その為に必要となる努力について、欲の大きさの割には、無駄なもののように扱われることには、あまり目が向けられないようだ。格好良く生きる為には、精進努力は嫌われるとは、一部の人々にある考え方のようだが、矛盾に満ちたものに思える。ただ、誰しもなるべく簡単に手に入れたい、と願うものであり、欲を満たす際にも、そんな考えが過るようだ。目立ちたいのに、目立ちたくない、とは、まさに矛盾だらけの考えだが、彼らの多くは、機会にさえ恵まれれば、そんな思いを満たしたいと願っている。そこに、便利な道具が現れれば、飛びつくのも無理はないのかもしれない。だが、目立つ為だけの行為では、虚勢を張ったり、虚言を繰り返したりと、努力とは異なるものを積み重ねることともなりかねない。呟きの機会も、そんなものの一つであり、幼稚な考えしか持たぬ人々が、手に入れた瞬間から、馬鹿げた行為が繰り返されるのは、当然のことかもしれない。欲が露わになる中で、別の形の欲までが、引き出された結果が、様々に社会に氾濫しているが、一度手を染めた人々に、自らの行為を抑える術はないらしい。暴走が繰り返され、秩序を乱す行為さえ、何の疑問も抱くことなく行えるようになると、良識は、消し飛ばされてしまう。
団塊と呼ばれる人々は、様々に不平不満を並べ、自己主張を繰り返している。確かに、急激に増加した世代にとって、従来の設備では不足することばかりで、その皺寄せを受けてきたとの解釈に、同意できる部分もある。だが、その序でとばかり、更なる要求を重ねてきた態度には、嫌悪感を催すことさえあるのだ。
常識の流れの中で、現状への不満を並べるためには、それを断ち切る動きが必要となる。それを繰り返してきた結果、要望が受け入れられ、改善が図られてきた、と見ることもできる。だが、それが重なった結果、様々な障害も生まれ、歪みが強まることとなる。それでも現状の課題が解決されないから、要求は消えることなく、次々と突きつけられる。困っているのだから、という配慮も、ある線を越え始めると、無意味に思えるようになり、逆風が強まるに従い、彼らの要求も理不尽なものと扱われるようになった。そこまで力を発揮できたのも、実は団塊の上にいる人々が、数にものを言わせつつ、どさくさのように、自分たちの主張を押し通してきたからで、これが真の問題を見にくくさせ、私利私欲に走る人々の台頭を招いていた。既に舞台を降りてから久しい、あの世代の人々も、更には運動に精を出し続けてきた、団塊の世代の人々も、今回の自衛に関する議論には、昔の活動を思い起こせたからか、我先にと口を出し始めた。彼らの論法の特徴に、他人の為という論理があるが、以前の運動の結果を顧みれば、自分中心であることに気づく。今回も、次の世代への配慮を前面に出すが、実際は、議論をしたいだけではないか。自己主張という、誇示する機会を得て、したり顔で意見を並べることで、何の成果も得られないのは、これまでの活動を見れば、明白だろう。また無駄な時間を、と思うのは、今働く世代であり、退場した人々には、単なる暇潰しも楽しいものらしい。
いつもより多いような気がする、と思いながら空を見上げていたら、案の定、渡り廊下の軒先にある巣は、もぬけの殻となっていた。前の日まで、大きな口を広げて、親に餌をねだっていた雛達も、巣立ちの日を迎えた訳だ。枝の上に作られるものと違い、軒に出っ張る形で作られたものでは、そこから出る為には飛ばねばならない。
鳥達の子育ては、それぞれに様々な違いを見せる。燕の巣は、昔は一年のほんのひと月かふた月、といった感覚で、軒を貸すくらいのことは、大したことはないと思われていたが、最近は、他の鳥達と同様に、糞害なる言葉が出され、汚れるものとして嫌われているようだ。確かに、巣の下を見てみると、そこには糞が幾つも落ちている。雛達は、巣の中を汚さぬように、外に向けて排泄するからで、誰が教える訳でもなく、本能的に行うことらしい。それを知らずに、下に佇めば、服を汚されることもある。それが嫌われる理由のようだが、少し注意すれば済むことではないか。空気を読むとは違うことだが、状況把握の力が衰えつつあることが、こんなところにも現れている。自然との共生という謳い文句は、好んで使われるようだが、自然を知らぬ人々にとって、どんな意味があるのかと思えてくる。それにしても、枝の上で暫く過ごし、羽ばたきの練習や試しに飛んでみるなど、そんな巣立ちへの段階を踏む鳥がいる一方で、燕は全く違う手順を踏むのだろう。ある日突然飛び立った雛は、二度と巣に帰ることはない。巣は単純に子育ての場であり、家とは違う訳だ。それまでは、度々訪れていた親鳥も、もぬけの殻となった巣に近寄ることさえない。ほんの一時の子育て、だったことに、改めて気づかされた。
どうなるかが見えない時に、人はできる限りという形の努力を積み重ねる。それが高い目標を設定することとなり、到達点も予想より高くなることが多かった。これが成長の基盤となり、それらが積み重なることで、不可能とも思えた技術開発も、いつの間にか達成してきた。それが、停滞から下降へと移るに従い、変わってしまった。
誰かが経験したものであれば、それをなぞって描くことに、難しいことは殆どない。更に、その状況を悪化させてきたのは、高い所にあった筈の到達点を、どうせ実現できないのだから、という見込みの下に、誰もが到達できる所まで下げてきたことだろう。達成感や成功体験などという言葉が、殊更に用いられるようになったのも、こんな社会状況によっており、それが人間の可能性を矮小化させてきたことは、このやり方を率いてきた人々には、理解もできず、認める気さえない事実だろう。それが全体の力の減退を招くこととなり、打開策が様々に講じられ始めたが、それらの効果は期待程には現れていない。最大の理由の一つに、当事者達の心持ちがあり、遠くの目標を目指す為の忍耐より、手っ取り早く手に入るものを選び、その達成を喜んだり、主張するという訴求力が、表向きは評価されるという世相にある。改めて、努力を積み重ねようとする意欲は、誰かがつけた道筋の上を歩んできた人には、生まれにくいものとなり、そこでの失敗を、一生の汚点のように見做す人々に、打開へ挑もうとする姿勢は出てこない。無難に生きることが第一となり、多難な人生を受け入れる気配はない。ここまでくると、今更高い目標を定めても、動きは鈍いままであり、変化は起きそうにもない。そうなると、これまで低い評価しか与えられなかった、異端の扱いにこそ、注意を要するのではないか。
責任の話題を取り上げると、70年前のことに触れようとする人が出てくる。侵略という言葉が持つ意味に、大きな問題を抱く人々の多くは、周辺諸国に及ぼした力の行使に対して、責任を感じると共に、反省をすべきと論じる。だが、当事者でもなく、当時の状況を知る術も持たない人間が、何をどう反省しようとするのか。
責任から反省へと繋がり、謝罪を当然と見る向きもあるが、これについても、どう見るべきなのだろうか。だからと言って、一国の宰相という立場で、何やら無責任な発言をしようとすることに、与する訳ではない。結論が同じに見えたとしても、そこに込められる思惑は、今後の道筋を決める為のものであり、暴走や迷走を予感させるものだけに、厳しい視線を向けておく必要はある。彼の真意は、おそらく辞める時まで見えてこないだろうが、こちらの考えは単純である。国を挙げて取り組んだ、他国への侵略という行為を、正当化するつもりは毛頭ないが、だからと言って、どのような経緯でそこに至ったかを吟味することなく、闇雲に反省という言葉を用いたり、責任を感じる必要はないのではないか。こんなことを主張すると、傲慢な考え方との批判を浴びせられるだろうが、悪いことは悪いこととして認識し、自らの行動を律することさえあれば、そこに反省が先行する必要などない。まして、個人として、謝罪を表明することなど、逆に傲慢な行為と言うべきなのだと思う。何をどう理解しての行為か、という点での議論は全くなく、ただ、謝っておけばいいという考えに拘るのは、無難さを追い求めているだけで、何かしらの考えに基づいているとは思えない。それより深刻なのは、この手の人々が、自らの反省を根拠として、他人の批判を繰り返すことであり、自分の行為の意味さえ理解できぬ人々の、不見識な行為としか思えない。歴史に対する反省という訴えも、その多くは、史実を確かめることなく、叩かれたことへの反応に過ぎない。何故、こんなことになったのか。一番の要因は、責任を負う気もなく、責任の負い方も知らないからだろう。
駄々をこねる子供達を、宥めすかすような心境だったのかもしれない。国を挙げての決定は、確かに、提示された条件を拒否する結果となったが、所詮、悪い状況に陥っていることに変わりはなく、それを脱するための方策には、厳しい条件が必要となる。拒否したものと違うと言っても、結局は、緊縮を受け入れるしかない。
条件を提示する側からは、迷走を繰り返したとしか見えない手続きも、当人達には、必要なものと思えたのかもしれない。しかし、状況を受け入れず、全ての提案を拒絶すれば、国としての体を保つことさえ、困難となる。国を率いる人々の役割は、こういう究極の状況下で、自らの責任の下に、決断を下すことである。ただ、多数決に慣れた人々の中には、これを理解できない人が多く、何事にも数による解決を図ろうとする。一見、正しい選択を行う為の、最良の方法のように思えるが、大衆の心理は、全体の利益より、個人の利益を優先する方に働く。その結果が、先日の投票となったのだが、結局は、大した違いもない別の提案を受け入れざるを得ないこととなった。ただ、流石にもう一度投票を、という無責任な発言はなく、苦渋の決断とはいえ、自分達だけで決めたようだから、交渉相手としては、ある意味一安心だったのだろう。決断できない人間が代表として送り込まれることくらい、決定機関にとって悲劇的なことはなく、終わりの見えない議論ほど、不毛なものはない。民主主義の危機と呼ばれるのは、以前であれば、弾圧や独裁といった状況を表していたが、今では、全く違った様相を指し始めている。決められない指導者の問題や、私利私欲のぶつかりという多数決の問題は、このまま広がり続ければ、社会の仕組みを根底から覆すものとなり、結果として、非民主的な世界が広がることとなる。
分相応とか年相応とか、何かに相応しいものがあり、身の丈に合ったものを求めるべきという教えがある。確かに、成長を続ける中では、上を目指すと共に、その時その時に見合った状況を目指すことが必要だろう。だが、成長が止まった後ではどうか。これもまた相応しい形があるのだろうか、それとも全く別の形が。
この問題は、人間の成長の問題と映るかもしれないが、社会の成長も大きく関係している。成長を続ける中で、次の世代に任せ、自らは身を引くという形が取られていた。それでも、成長が約束されていた中では、不慣れな人々の失敗も目立たず、右肩上がりの傾向は続いていた。ところが、永遠の成長はあり得ず、限界がはっきりしてくると、継承は確実なものとならず、失敗は停滞を招くこととなった。そこでの対応で、最も驚くべきものは、前任者の復帰などの時間を巻き戻す措置であり、それによって、状況は改善するように見えても、次を考えることが難しくなった。引き継ぎが巧くいかず、停滞を招いた場合に、復帰による回復も、歓迎されたようだが、現実には、先行きを危ういものとしたことは事実だろう。労働力の継承の問題に関しても、多くの国々で引き継ぎがなされず、事情に精通した世代が、蓋のように居座ることとなった。隠居という形で、身を引くやり方は、昔からこの国でとられたものだが、今や、そんなものは無駄とか非効率とか言われてしまう。確かに、確実なものを手に入れる為には、実績がものを言うのだろうが、これでは、次の世代にかかる圧力は強まり、光が見えてこない。一流と呼ばれる人が君臨する世界では、それを凌駕する人の登場は難しくなる。他人の為に退くことを、よしとしない人々が居座れば、表面的には繁栄を続けられても、先行きは暗いものとしかならない。また、人間の寿命を考えると、ここにも、永遠がないことは明らかなのだ。