パンチの独り言

(7月20日〜7月26日)
(鍍金、史実、服従、成長、非常識、理路、要望)



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7月26日(日)−要望

 客の要望に応える。商品を扱う業者にとって、重要な要素と言われるものだ。そんな考えが世の中に浸透し、望むものが簡単に手に入る時代となった。望みが叶うことは、誰にとっても嬉しいことであり、どんな些細なことにも要求が通るかどうかが、様々な形で、判断に影響を及ぼすこととなる。これは喜ぶべきことなのか。
 欲望は尽きることがないから、それに応える体制ができれば、誰もが満足することができる。それが実現する時代には、何の不満も出てこないのか。その場の欲望を満たすことで、誰もが満足するわけだが、実は、何度もこんな経験をしていると、一時の欲に走った結果、後々悔やむことが出てくることに気付かされる。幼い子供の相手をすれば、すぐに分かることだと思うが、要望が優先される時代には、そんな簡単なことにさえ、気付かぬ社会が出来上がったようだ。「させる」という言葉が、殆ど使われなくなったのも、強制的な行為が好まれず、自ら選択することが優先されるからだが、十分な知識を持たない幼子にまで、こんなやり方をすることには、強い違和感を抱く。意志の強さは、知識の多寡とは無関係との判断が、こういう場面で下されているが、そういう見方自体が、大きな過ちを生じているようだ。確かに、欲望は意志によるものであり、欲しいという気持ちが外に現れてくる。だが、その対象に対する理解は、知識に頼らねばできるものではない。その意味で、大人たちが様々に環境を整えてきたが、今は、全く違った様子のようだ。敢えて、この問題を大きく取り上げるのであれば、見聞を広めるとはどんなことか、要望を優先する人々に、考えさせたくなる。

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7月25日(土)−理路

 この国の制度では、子供達に教えるべきことに関して、多くの制限を加えている。次代を担う子供が、それに見合う知識を身に付けておくことは、当然と考えられるから、ある水準を超えたものが必要となるのも当然で、あやふやで不確かなものを授けては、混乱を招くだけでなく、不安定な人格を形成させるだけ、となるからだ。
 だが、戦前の制限が、様々に悪影響を及ぼした事実も、忘れてはいけない。その反省というより、別の形の制限を目的とした、占領軍の監視によって、自由の中にもある程度の制限を残す形式がとられた。それ自体に問題はなかったのだろうが、全くの自由にしてしまうと、異常な偏向が放置されることから、監督官庁による検定が行われている。占領していた人々が暮らす国では、自由が最優先となったことから、科学的な事実に基づかないものを、公然と教えるところまでが出てくる始末で、これで次代を担わすとは、何をか言わんや、である。だから、でもないだろうが、縛られることに対した違和感も抱かぬ国民性には、検定も当然との見方が強い。とは言え、どんな方向に向かうかを決めるのは、監督官庁の匙加減と、作る側の能力などだろう。昨日取り上げた、高校生物の教科書は、どんな基準に従ったものか、論理性を破壊し、関連性を排除した結果、出鱈目な筋書きの演劇を眺める気分を味わえる。元々、生物学自体が、幹となるべき論理を備えず、同じ科学の分野にある、数学、物理学などと比べても、繋がりが希薄な為、各論の学問と言われるほどであり、その専門家が、高校生を相手に、筋道を立てた内容を提示できるかどうかは、かなり怪しいものとされてきた。昔から、この点が混乱を招く元凶と言われてきたが、今回の改定は、まさに極みに達したと思える。話題に振り回され、偽情報に惑わされる人間を、如何に減らすかが教育の目的の一つだが、これでは、非論理的な話題に乗せられる人が増えるだけだろう。愚の骨頂の悪影響は、また、10年が経たないと見えてこない。

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7月24日(金)−非常識

 常識を身に付ける為には、どんなことをすればいいのか。非常識の恥さらしといった表現を、屡々使ってきたのは、常識を身に付けること無く、それによって、害を被っている人が、世の中に溢れているように思えるからだ。非論理的な嘘に、簡単に騙される人々の多くは、単純に論理を検証する手立てだけでなく、その基礎となるべき常識さえ無い。
 基礎知識を身に付ける機会は、おそらく、誰もが思い当たるだろうが、学校だろう。小中であれば、義務教育期間だから、誰もが通る道なのだが、この期間に教わる物事は、一部の不見識な人々の影響で、大きく減らされることとなった。その影響が社会に広がる為には、更に10年以上の時間を必要とし、馬脚を現した頃には、取り返しのつかない状況となっていた。この問題が深刻であることは、そんな環境で育った人々が、現場で教える側に回り、常識を軽んじる風潮が強まることで、元の状態に戻すことは、容易でないことが明らかとなった。自らの非を認めないままに、改善を図ろうとする動きは、教えるべき項目を急増させることとなったが、ここでも見識の無さが様々な形で表面化している。知識の蓄積には、ただ単純に詰め込むことも、一つの方法ではあるが、その過程で築かれる論理性が、大きな役割を果たすことは、経験者には当然理解できることだろう。にも拘らず、詰め込みだけを重視し、繋がりを無視した結果は、悲惨な状況を招き始めた。更に輪をかけているのは、無知をさらけ出すような、誤解や思い込みに基づく判断が、重要な知識を失わせていることだろう。生物という科目での要点は、周囲の生き物の理解にあるが、それに加えて、人間を含めた生き物がもつ性質の理解も肝心となる。遺伝現象は、その最たるもののはずが、高校教科書から、メンデルという偉人の名は消され、DNAという理解不能な物質名が頻出する。優れたとか劣ったという表現がまずいとの判断らしいが、いかに不見識なことか、理解できないのではないか。言葉に対する常識のなさが、こんな影響を招くとは、腐った社会の象徴と言うべきかもしれない。

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7月23日(木)−成長

 達成できる自信が無くても、やればできると虚勢をはる。若い頃には誰もが経験したものではないか。そんな時代と違い、今は若者達の言動に、首を傾げることが多い。自信が無くても虚勢を、と言っていたものが、自信が無いのでと尻込みをする。いつまで待っても、自分から動こうともしない人々に、周囲は業を煮やす。
 だが、平和で豊かな時代には、叱責するより励ますことが好まれるようだ。背伸びをしないのなら、踏み台を差し出すことで、より高い所に手が届くようにしてやる。成長を促す為の方策と見る向きもあるが、本来到達できる筈の水準に、手を伸ばそうとしない所に大きな問題が残る。意欲の減退は進むばかりで、危惧の声は大きくなる。だが、踏み台を差し出す傾向は、強まり続けている。様々な場面で、何が必要となるかは、安定した時代には明らかに思えるのだろう。人を育てる意欲を見せる人ほど、この考えに囚われるようで、機会を与えることこそ、育成に繋がるとばかり、あれこれと与え続ける。だが、豊かな時代に育った人々の特徴として、自ら切り拓くという意欲が無く、与えられるのを待つ、という姿勢が目立つ。その中で、更に多くのものを与え続ければ、育成には程遠く、甘やかしとなるだけだろう。そこに加えられる、更なる過ちは、叱責では無く、褒めることこそが成長を促すという迷信であり、これにより、その気になった若者達の多くは、精進努力では無く、怠惰を習慣化することとなる。確かに、教え育むことの難しさは、時代が変わろうとも変わらない。先が読めているからといって、手を出し続けていたのでは、自ら歩もうとする意欲は芽生えない。そんな手を振り払い、勝手な行動に出る若者達には、特に問題も無いことだが、素直と呼ばれる人々には、成長の妨げとしかなら無いことに、周囲の大人達は気付くべきだろう。

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7月22日(水)−服従

 命令に逆らえなかった、との表現が使われる状況に、皆は納得したのだろうか。不祥事が起こる度に、原因の一つとして紹介されるが、首を傾げることも多い。確かに、組織において、上からの命令は絶対とも言われる。だが、それを実現する為に、不正が必要となる場合に、一線を越える行動を起こすのは、誰なのか。
 弱い立場の人間を保護しようとする動きは、いつの時代も正当化される。だが、悪事に手を染めることは、部下としての立場からだけでなく、人間としてどうか、という判断が伴うものではないか。命令を下した人間を擁護するつもりはないが、従わされた人間達が、全て正しい判断をしていたとは、言えないと思う。この辺りの状況は、弛んだ感覚によるものであり、そこへの寄与は、上も下も区別なくあるとすべきだろう。厳しさは、単純に、他人に対するものではなく、自身に対するものが、第一となる。それを緩めようとする動きには、責任感の欠如が端緒となっており、一度失われたものを取り戻すことは、失うよりも遥かに力を要するものとなる。だから、失わぬように、日頃から自らを律する必要があり、他人の振り見て我が振り直せ、という感覚が重要となる。これもまた、上からのものだろうが、仲間のものだろうが、何の区別もない。単純なことだけに、誰もができる筈なのだが、今の世の中では、難しいものと見做される。楽しいことや楽なことに、人は惹きつけられるからだろう。それにしても、何故、企業経営者達が、何度も過ちを繰り返したのか。そこに潜む心情について、これからも度々分析が施されるだろうが、無駄なのではないか。一方、今回の問題において、命令とされた指示の多くは、電子メールという形で残されていた。以前なら、口頭での指示で済まされたものが、こんな形で残ることで、申し開きは不可能となる。更に、真意を説くことも、受け手の問題として片付けられては、反論の余地さえ見出せない。いずれにしても、何が大切か、考えねばならない。

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7月21日(火)−史実

 高校時代、不思議に思えたことの一つに、歴史の学習がある。国内のものでも、世界のものでも、古代史から始まり、徐々に時代が流れていく。だが、自分や家族が経験した時代には、何故か届かないのだ。教科書にも少し触れた部分があるが、分量としては大したことはない。身近な話題の筈が、何故かと思った人も多いだろう。
 近現代史と呼ばれる範疇に入る時代の史実は、多くの関係者が存命である為に、一様に定まらないと言われる。事実は同じだとしても、その解釈は人それぞれで、全く違った観点から、正反対の解釈が導き出されることも多い。その中で、何をどう伝えるべきか。絶対的な存在であるべきの教科書に、正反対も含めた様々な意見を併記することは、成長過程で知識を詰め込む最中の子供達に、どのような影響を与えるのか、確かな考えがない中で、触れないことが一つの結論となっていた。それから半世紀近くを経て、存命者の数は減り続け、一方で、多種多様だった解釈も、時代の趨勢に従い、ある程度の収束を見せ始めている。だが、それが史実となるかは不明なままだ。一つの解釈が好んで使われるからといって、それが事実であったとは限らない。解釈はあくまでも解釈に過ぎず、それをどう使うかにより、好き嫌いの区別が起きる。先日読んだ、戦時中の新爆弾開発に関する「秘録」も、著者の筋書きに合うように、各人の言葉が解釈され、更には、会ったこともない人の心理を、独自に解釈する始末となる。取材の結果として到達した結論ではなく、一部の関係者の発言に基づいて作られた筋立てに、沿うような解釈が重ねられる。この手法は、例の新聞の大誤報と呼ばれた記事のものと同じであり、端緒となった話は、ごく少数の人を源としていたにも関わらず、それを補強する為に、多くの人の意見が曲解され、歪曲された挙句に、結論ありきのものが作られた。こんなやり方で歴史を作るようでは、とても若者達に教えられるものにはならない、と判断するしかない。

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7月20日(月)−鍍金

 愈々、と思った人も居るだろう。世は隅々まで、役に立つか立たないか、が判断基準となり、立たないものには、立つ瀬がないとされる。ものを相手に論じることに、誰も口を挟まないけれど、これが人間を対象としたらどうか。そんなことさえ考える人は居ない。何とも、身勝手な論理が罷り通る、ある意味都合の良い時代のようだ。
 私達の年代には馴染みがなかったのに、今や社会を席巻する考え方の一つに、「役に立つ」というものがある。本来、人や道具に対して用いられてきたものだが、今では、専ら知識に対して使われている。女流作家の戯言で、注目を浴びたのも、そんな世相だからだろうが、実際には、あの年代の人々が作り上げた、ハリボテの如く中身のない考えなのだ。にも拘らず、その毒が全身に回ってしまった世の中は、それを金科玉条のように奉り、無駄を省くことに精を出す。だが、この手の知恵のない人々は、役に立つということにおいても、目に見える形のみを追い、別の形での効用に目を向ける能力も、それを見抜く力も持たない。博覧強記である必要はないが、様々な知識を様々な形で活かすのも、各人の能力であり、それらがどう現れるかは、その場にならねば解らぬものだ。その最たるものとして、一世紀以上昔から、この国でも始まったものに大学なる教育機関がある。ほんの一握りの人しか受けられなかった高等教育が、戦後の高度成長を経て、過半の人々を対象とするものとなり、大衆化の果てに、職を得る為のものと化してしまったのは、今では当然と受け止められている。だが、教育を受ける最後の機会であることには変わりがない。なのに、役に立つべきとの声は強まるばかりで、監督官庁だけでなく、現場までも毒が回り始めたらしい。人文社会科学が、どんな形で人の役に立つのか、かの小説家でさえ、自分の文章の効用を論じてはいなかった。もし、職を得る為であれば、パソコンの使い方でも教えればいい。だが、鍍金はすぐに剥がれてしまうぞ。

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