体の急変に戸惑うばかりで、何をしていいのか判らない。というより、そういった判断力が失われ、適切な対応ができなくなるのが、この変化の最も大きな問題なのだ。助言の多くは、症状が現れてからでは手遅れで、対応が間に合わなくなる場合が多いから、症状が現れないように、気を付けるべし、というものらしい。
気持ちが悪いという程度の症状なら、多くの人が見たことがあるが、最近伝えられる所では、突然気を失うだけでなく、痙攣を起こすとされるから、応急処置の必要も出てくる。こんな場面に接して、冷静に対応できる人は多くなく、慌てて救急を呼ぶのが精々だろう。だが、彼らが駆けつけるまでの時間が、最も重要となる。まさか、楽しい催しの最中に、こんな事が起きるとは、とか、大して無理をしていなかったのに、何故だろう、とか、原因を探ってみても、すぐには思い当たらぬことが多い。これでは、未然に防ぐことも難しい、と思えてしまう。だから、水分をこまめに摂るとか、休憩を頻繁に取るとか、そんな注意が出される訳だが、どれ位、という点に関しては、やはり、体と相談するしかない。これで問題なし、と言えるものはなく、もし、本当に心配ならば、そんな場面に接しないようにするしかない。だが、少しの油断で、安全である室内でさえ、こんな事態に陥ることがあるとなると、何をどうしたらいいのか、と戸惑ってしまう。こんな話が次々に伝えられると、心配は膨らむばかりだが、一方で、ある年齢を超える人々からは、全く別の意見が寄せられる。以前なら、夏の盛りに外で活動しても、何も起きなかったのに、最近は何故、というものだ。これに対して、平均気温の上昇を原因とする見方がある。その事実はその通りだが、果たしてそれだけで、これほどの変化が起きるのか、疑問は残ったままに思う。生活の変化に対する考えも、巡らす必要があるようだ。
鳥の目と虫の目、目の構造の違いを指している訳ではない。見る位置の違いを表す為の表現で、人々の観点の違いを示すものとされる。鳥の目は、上空から見渡すことで、所謂、俯瞰的な見方を表し、虫の目は、ごく近傍から見ることとなり、一部のみに注目する見方を表す。では、見方の違いに着目するのは、何故か。
個々の物事に関して、一つ一つ取り上げる作業は、手間がかかるけれど、大した工夫は要しない。いつも目にしているものを、次々に紹介するだけのことで、細かな点まで熟知しているからだ。だが、それらの要素を束にして、まとめた場合にどんなものが見えるのか。日頃の感覚からだけでは、何も見えてこないし、個別の話をただ集めただけでは、まとめることも儘ならない。それまで抱いていた見方は、一つ一つを別のものとして扱い、全体を見渡そうとするものではなかったからだ。では、全体に視野を広げる為に、何が必要となるのだろうか。人間は成長するに従い、知識は豊かになるものの、その記憶容量は限られていて、徐々に、覚えることは難しくなる。しかし、子供に比べて、大人達は多くの知識を有し、それらを活用しているように見える。子供の頃に培ったものを、いつまでも使いこなせるとは思えないから、何かしら、別の方法があるに違いない。個別の記憶が増大するのは、精々、高校を卒業するくらいの年齢までと限られている。そこから先は、増大の速度は減り、限界を迎えてくる。そこで、人々は、自分なりの工夫を施す。例えて言えば、芋蔓式と呼ばれる、各要素を関連付けるやり方で、一つの要素から、次々に別の要素を引き出す方法だ。誰かに言われずとも、自然に出てくるもののようだが、これを苦手とする人も多い。それが個別に囚われることに繋がり、結局、地べたにいる虫が飛び立つことがない。折角、色々な経験を積んでも、全体を見渡そうとしなければ、俯瞰的な見方はできない。そんな人が世に溢れている。
不平不満、世に満ち溢れたものに対し、人々はどう判断するのだろう。妥当な要求と見做すか、はたまた、過剰な要求と見做すか。自由と権利に対する、義務と責任の問題と、良識の範囲内では、十分な議論が為されているようだが、大部分の不平不満は、その対象外と思えるものが多い。論外と言われるようなものだ。
立場の違いが鮮明となるにつれ、要求の度は増すばかりとなってきた。望めば叶えられるとの幻想は、夢でも幻でもなく、ただ大きな声で訴えれば、罷り通るものとされている。だが、その度が増すに従い、悪影響は様々な形で現れ、時に、応じられないと表明する事まで起きてきた。こうなると、勢いが止められた人々の不平不満は燻り続ける。風船が膨らむように、実体のないものが拡大を続けた時代と違い、萎み始めた経済は、法外な要求に応える術も余裕もなくなった。その中で、望めば叶えられると信じて、育ってきた年代の人々は、ある意味、路頭に迷うこととなる。その時点で、何が必要となるかを熟考すれば、手がかりを捉えることもできたのだろうが、それまで、何の努力もせずに過ごしてきた人には、そんな暇はないとなる。一方、爆発的に膨らむ中でも、自分なりの努力を惜しまなかった人にとっては、何の違いもなく、それまでのやり方を続ければいいだけとなる。どちらが正しい道を歩めるのか。これほど明白なものはないが、欲に目が眩んだ人々には、そんな地道な生き方は、馬鹿げたものとしか映らない。憧れの対象とか、羨望の対象とか、そんな形で呼ばれる人々が、どんな努力の末にその地位を達成したかは、やる気を見せない人々には、見えないものなのだろう。そうなると、やはり、その手の人々に施す手立ては、無いこととなる。
極端な発言は、ゴミと呼ばれる人々にとって、魅力的なものに映るようだ。彼らの言葉が、どんな意味を持ち、どんな影響を及ぼすか、そんなことを考えることさえできない人々は、騒ぎの火元となることに、快感を覚えるのかと思える。見識とか、良識とか、そういうものと無縁な人でも、成果を上げることはできる。
こういう人が世に蔓延るのは、ある意味、仕方のないことかもしれない。器の大きさは、あらゆるものに適用でき、成功するかどうかは、ほんの一部の表れに過ぎないのだ。企業内で、不可能と言われた技術を開発し、その功績に見合う報酬を求めた人物は、皆から羨望の眼差しを向けられ、成功へと繋がる地道な努力は、尊敬の対象となっていた。労働者の鑑のような扱いに、不完全な人格の持ち主は、舞い上がってしまったように見えた。乱暴な言葉や、過激な発言に、ゴミ共は飢えたハイエナの如く飛び付き、その内容を吟味することなく、貴重な意見と取り上げていた。欲が前面に押し出され、薄っぺらな思考が目立つ意見は、無知蒙昧の人々に受け入れられやすく、尊敬の対象となっていた。国内の組織から嫌われた人物は、結局流出せざるを得なくなり、一時、熱は冷めていたが、科学界の最高の賞が授けられると、またぞろ、ゴミ共の騒ぎが再燃する。そこからは、相変わらずの問題発言ばかりで、注目する価値さえないのだが、話題好きの連中に餌を与えていたようだ。こういう自信過剰人間にとって、何もかもが、自分を中心となり、勝手な思いつきさえ、見識の表れと扱われるようでは、更に調子に乗るだけだ。互いの利益においては、劣悪な人々の助け合いは、重要な事だろうが、良識にとっては、迷惑千万である。まあ、劣った人間ほど、その傾向が強いのだろう。
ゴミと揶揄される人々は、批判に対して何を思うのか。何も、と答えたくなる人が多いのも、業界が抱える問題の深刻さを、表している。情報伝達を務めとする人々が、不確かなものや思惑に満ちたものを流すことに対し、マスゴミの言葉と共に、嘲笑を浴びせられる。それでも、求められる情報を流していると胸を張る。
求められる情報という括りも、何を表しているのか定かでないが、それよりも重大なのは、その為ならば、嘘も虚飾も構わぬとする考え方だろう。自らの主張を押し通す為に、都合のいい話ばかりを並べるのは、情報伝達の基本を見失っているし、更に、それが誤報だったとしても、何の反省も生まれないのでは、責任も何もあったものではない。事件や事故の報道においても、原因解明を第一とするならまだしも、動機に目を向けるだけでなく、話題となりそうなものなら何でもとばかり、瑣末で無関係なものまで持ち出す始末である。見識は欠片も感じられず、他人の醜聞だけに興味を抱く人の集まりとしか思えない。その際の彼らの反論は、大衆の求めに応じている、というものだ。自らの役目を理解できない人では、仕方のないことかもしれないが、だったら、免許や資格を剥ぎ取るべきではないか。例えば、つい最近の墜落事故についても、原因究明を声高で訴えるそばから、飛行目的や経営状況など、今必要なのかと、首を傾げるしかない情報が垂れ流される。そこには、批判姿勢が明確に現れており、それによって、間違いを犯した人間が、どれ程劣悪な人種だったのかを、主張しようとする。一体全体、伝達という仕事は、何を目的とするのか、理解しようともしないゴミなのだ。
初めて導入された時にも、反対の声が上がっていた。それでも一定の指標の必要性を訴え、評価基準の明確さを前面に押し出すことで、少しずつ認める声も大きくなってきた。丸暗記を助長するとの批判も、問う対象を変えることで、覚えているだけでなく、その場で考えることを促し、多様な能力を測る努力が重ねられた。
内容が充実し、評価が高まったのに、何故、今更の大幅変更を目指すのか。第一報に触れた時の人々の感覚には、複雑なものがあっただろう。当初の反対も、今思い起こせば、的外れの感は否めないが、様々な心配がそうさせたことは、理解できる。では、今回の変更はどうか。共通の試験という制度は残るものの、競争という括りについては、別の制度へと移される。最低限の資質を見極めるとされる新制度に関しては、あの時と同じような危惧は確かにある。何をどう判定するのか、資格試験として実施形態はどうあるべきか、等々、問題は山積している。その中で、一部には、何故この制度なのか、という問題も取り上げられている。海の向こうの制度の丸写しに過ぎないとも批判されるが、それにしては、入り口となる部分だけの模倣では、全体を写したことにはならない。各大学に任せるという手法は、裁量を尊重するものだが、従前と異なる仕組みに、現場の混乱が予想される。また、大学制度に関しても、あちらとはかなり違う部分があり、簡単に模写すればいいとは言い切れない。特に、社会の成熟度の違いからか、人間の成熟度の違いからか、大学を資格の一つとして考え、それを手に入れるための手段に多様性を持たせている点に、大きな違いがあるのではないか。年限に関しても、こちらでは、厳格な数値を当てはめてきたが、その根拠は希薄に思える。実際に、法律で規定されているわけではなく、各大学の規則で定められていることからも、大した根拠はないように映る。この辺りにまで、改革の手が及べば、また違った様相を呈するのだが。
自由に選べる、という形式が当然となったのは、あの風船が弾ける直前の頃だったか。特別という扱いを、前面に押し出す為には、他とは違う選択が第一となる。それを優先させ、独自の組み合わせを提示することで、付加価値を主張する。それからかなりの時間を経て、付加価値への考え方も、随分変わってしまったようだが。
当然の権利となるまでは、選択の余地のないことがあり、定型のもので満足するしかなかった。しかし、個人主義が当たり前の社会では、食事の場でさえ、何かと選ぶことを強いられる。初めての海外旅行で盛り上がる中、レストランで、注文の度に様々に聞き返されることに、辟易とした経験のある人も多いだろう。当時の指南書には、お薦めを聞き返せ、とあった。作る側の推すものを、という論理だが、この際にも、給仕に当たる者への質問か、作る者への質問かで、相手の出方が変わり、質問の難しさを感じた人も多かったようだ。それにしても、要望を問われることに慣れてきた人々に、最近は、また昔のやり方が喜ばれるようになっているようで、おかしな具合と思えてくる。お任せ、と表現される、決まった形式のものを、その中で楽しむというやり方には、作る側が推すもの、という感覚がある。日々の仕入れの違いや、旬に対する考え方など、もっとも知る人間こそが、料理を作っているのだから、当然と言えば当然なのだが、それを無視してでも、自分の望むものを欲する人に限って、大した知識があるわけでもなく、一つ覚えのような場合も多い。こんな時代には、多種多様な経験を望む場合に、自分の主張を貫くより、他人の勧めに従うというやり方が、効果的であることが多い。見聞を広めようとする気持ちは、本人にしか抱けないものだが、それを実行する場合に、知っている範囲に留まるような形では、広げようがないということだ。受け身のように思えるかもしれないが、現実には、かなりの冒険であることも多い。