パンチの独り言

(8月3日〜8月9日)
(幻滅、直感、宣伝、朗報、不確実性、検証、正当性)



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8月9日(日)−正当性

 歴史を忘れない為の手段の一つとして、それが何故起きたのかを検証することがある。原因を追及することで、その正当性を確かめ、同じような事態に陥った時に、どのような対処が考えられるかを調べる訳だ。特に、間違いを犯したと思われる場合に、反省を込めて検証を行い、過ちを繰り返さぬように備える為もある。
 経験を積むことで、様々な事態に対応できるようになるのは、誰もが何らかの形で接してきたことだろう。その際に、ただ漫然と過ごすだけでは、同じ間違いを繰り返すだけで、経験が無駄になると言われるが、どのようにすれば、経験が糧となるのか、理解できている人は少ない。そこで、先人達の遺したものを眺め、そこから何かを学び取ろうとする訳だが、人それぞれの見方の違いから、一つの答えに到達することは、容易ではない。だから、様々な解釈を並べ、それぞれの違いを見極めることで、正解を見出そうとする。その意味で、多様な考えが世に広まることは、歓迎すべきことかも知れない。だが、その中には、偏りが強過ぎて、それに接する意味さえ見出せないものも少なくない。極論も一つの考え方であるには違いないが、自分が思いもよらないほどの偏見を、眺める必要が本当にあるのだろうか。歴史の検証においては、長い時間を経ても、新たなものが提出される場合があり、その度に、議論が再燃する。だが、奇想天外なものについてまで、皆が挙って議論に加わる必要があるのだろうか。提出した本人は、思いを込めて主張するのだが、所詮、異論でしかないもので、根拠も希薄な場合が多い。それに加えて、検証そのものの目的が、自らの設定した結論を導き出すものに過ぎず、論理的な手順を踏みもせずに、結論を導く姿勢が見えるものも多い。こちらも、目を向ける価値さえ見出せないのに、検証という名の下に、皆の目に触れるようにすることには、強い違和感を抱かざるを得ない。

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8月8日(土)−検証

 人間の記憶ははかないものである。「忘れない」という言葉が、度々持ち出される時期に、こんなことを思う。確かに、何かを覚えているのだが、それは時を経るに従い、徐々に変貌を繰り返す。その結果、あの時とは全く違ったものになったとしても、本人は忘れていないと思う。記憶の不確かさは、明らかなものだ。
 そこで持ち出されるのが、記録という行為である。あの時に記したものだったり、画像として残されたものは、人の記憶とは違い、その時点から変えられることは無い。だから、こちらは確かなものだとされる訳だ。だが、全てを残すことは困難で、ほんの一部を切り取ったことにしかなら無い。画像は、その場で見たものを残すが、そこに現れた場面は、一時のものであり、ある方向に限られたものとなる。全てを残そうとする試みは、徐々に広がり続けているから、そのうち、そんなことも可能となるのかもしれないが、それを検証する時間を考えると、こんな手法が確かなものとは思えない。一方、文字情報に関しても、同じように、様々な立場からのものが溢れているから、それを確かめれば、状況把握が可能となりそうにも思える。ただ、どれが真実なのかの検証は、容易では無い。何れにしても、歴史を記録することは、忘れない為に重要なことで、それを継続することで、自分とは関係の無い時代に関しても、何かしらの関わりを持つことができる。責任とか義務については、現時点のものを優先させるべきで、無関係なものにまで及ばせる必要は無い。それを強く感じるのも、この時期特有の問題となるからだが、どうしたものか。少し前にも書いたが、そろそろ、教科書の上での総括ができるくらいの時間が、過ぎたのだと思うのだが。

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8月7日(金)−不確実性

 昨日の朗報の話題には、当然の如く、反論があるものと思う。確かに、危険性はゼロではない。不安に苛まれる人々も、それを煽り続ける人々も、少しでも可能性があれば、心配の種になり、それが芽を出し、葉を茂らせて、心配の実をつけると思っている。だが、70年前の出来事でさえ、どの位の確率だったというのか。
 平和で安定した時代だから、ではないのだろうが、なぜ、これ程までに心配の元を探そうとするのか。能天気に過ごすことに、後ろめたさを感じている訳でもないだろうが、何かしらの気懸りを探し続ける人々の心理は、理解の範囲を超えているように思う。どこまで行けば、安心感が得られるのか、彼らに尋ねた所で、答えは返ってこないのだろう。心配の種は、幾らでも落ちているに違いない。だが、それが芽を出すことができるものかは、怪しいものだと思う。非論理的な言説に、無視にも似た対応しか思い当たらないが、相手にすることさえ無駄と思える。その中で、彼らの拠り所は一つだけだろう。危険性にゼロが無い、というものだ。だが、それこそは、当然の事実であり、彼らに言われずとも、論理性を保てている人々は、皆持っているのである。それをどう取り上げ、どう騒ぎ立てるかが、人それぞれの反応となる。そんな見方をすると、大した知識もなく、判断する手立ても持ち合わせていない人々が、騒ぎを盛り上げていることに、現代社会の病状の深刻さが表れている。更に、それを際立たせているのは、そちらに与する世論なる愚かな衆だろう。確率的な事象を相手にする限り、0も1もあり得ない。その間のどこに落ちるかも、その時次第ということとなり、更に、個別の事例では、確率ではものが言えないことも確かだ。これほど明白なことを、理解できない人々には、今の世の中は、実はとても生きにくいものとなっている。その中で、自らの正当性を主張し、賛同者が得られることは、安心の一つの材料となっている。

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8月6日(木)−朗報

 久しぶりで好感できる文字が並べられていた。大震災による事故から、悪いニュースばかりが並べられ、まるで国が滅んでしまうのでは、とさえ思える論調に、不安を募らせる人が続出していたが、それから既にかなりの時間が流れ、何も起きないことから、別の見方が出始めた所だ。始めの見立ては、どうにも杜撰だったようだ。
 煽ることを常とする姿勢に、大きな味方ついていた頃と違い、最近は、日々の生活に追われることで、汚染の危険性も、大したものではないとの解釈が、主体を占め始めているとも思える。だが、依然として、非論理的な論調から、被害が拡大すると叫ぶ人が居て、彼らの拠り所は、事故を起こした施設が、廃墟と化すという筋書きだろう。それが、徐々にとはいえ、何やら変化が起こり続け、好転しているかのように伝えられると、謀略との決め付けが、何の根拠もなく繰り返される。多くの人は、既に忘れ去ってしまったろうが、工程表なるものが提出され、ある意味、絵に描いた餅との酷評が、並べ立てられた時、冷静な人々は、一つ一つの可能性を検証し、変更はあり得るが、それなりの回復もあるとの見方を示していた。その後、人々の関心は薄れ、恐れだけが膨らみ続けてきたが、悪い点だけを取り上げる姿勢は、中々に崩れそうにもなかった。ところが、今回の報道では、最も大きな課題が片付いたことで、光が見えてきたとの論調が見られる。何しろ、思惑ばかりが満ち溢れる業界だけに、この程度のことで信用するのは、時期尚早と思えるが、それでも、姿勢の変化は評価すべきだろう。一方で、当事者達の努力も、こういう機会を捉えて、評価すべきなのではないか。不安という言葉で、当事者達を攻撃し続けてきた人々は、実は、私利私欲に走っている部分が、露呈し始めている。次は、こちらへの批判に目を向けるべき時期なのではないか。

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8月5日(水)−宣伝

 個人主義の台頭が、このような事態を招いたのか、それとも、主張する傾向が強まったから、個人に目が向けられるようになったのか。どちらが先にあったのかはわからないが、中身のない主張が目立つことだけは確かだ。まるで広告での主張のように、良い所ばかりのものは、上辺だけの訴えを蔓延らせてきた。
 広告の主張については、キャッチコピーなる表現で示される、興味を引く言葉が中心となる。多くは、広告の対象となる製品の特徴を、一言で表すものだが、時に、そちらだけが独り歩きを始め、どんな製品の話だったか、全くわからなくなることがある。この傾向が強まるに従い、特徴を表すより、人の気を引くことを優先させようとする考えが、先に立つようになってきた。こうなると、根拠は希薄となり、言葉遊びに似たことが起き始める。上辺だけを飾り立てた言葉で、魅力を主張しようとすることが多くなり、日常にもそんな傾向が強まり始めた。この時期と、個人主義の台頭の時期が、ほぼ一致していたからだろうが、主張の中身より、言葉での飾り立てに腐心する人が増え、それらしい言葉の羅列だけで、何を訴えたいのか、さっぱりわからないことが増えた。この傾向は、大人達の世界に限定されず、主張の機会が与えられた、子供達の世界にまで広がり、純粋無垢などとは無縁の、目立ちたがりの子供が、挙って使うようになる。だが、中身の無さは、大人が及ばぬほどの水準で、化粧と飾り立てによって、真の姿が見えぬほどとなった子供が、社会の要請に応えるが如く、様々な制度に乗っかることとなる。その結果は、既に明白なのだが、ゴミの山が築かれ、無駄遣いだけが記録として残る。ここでも、虚勢を張るかのような人々が居座り、分不相応な主張を繰り返す。もう、褒めてやる必要などありはしない。厳しく叱ってやれば良いだけのことだ。

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8月4日(火)−直感

 人の行動を眺めていて、何故と思ったことはないだろうか。最近の若者達が主張する、空気を読む力とは違うが、何をすべきかを見抜けず、間違いを繰り返す人々のことだ。状況を読めば、何かしらの答えが見出せる筈、と思うのは、そういった場面で正しく対応できる人だけで、多くの人は、それができないことに気付く。
 何が違うのか、と思うのは、できるのが当然だからであり、できない人の気持ちは理解できない。こんな差が歴然とする中で、役割分担を含め、協力体制を築かねばならない時、人は難しさを痛感する。指示をすれば、その通りの行動ができても、自分で考えさせると、全くの的外れに終わってしまう。こんな人々の方が、世の中では遥かに多数を占める訳だから、そんな場面に出会すことは頻繁にある。だから、対処は容易であるとはならない。指示を待つ人々に、声を掛け続けることは、手間も時間もかかることであり、できる限り避けたいと願うものだろう。だが、彼らに任せていては、何事も頓挫することとなれば、いい加減な対応で済ませる訳にもいかない。ということで、手間を掛けたとして、次は大丈夫かとなれば、同じことの繰り返しなのだ。勘の悪い人々を使うのは、難しさばかりが前に出てくる。特に、この手の人々は、社会のあらゆる階層に居て、技術を要するものから、単純な作業まで、あらゆる業種で居座っているようだ。となれば、接することなく済ませられる筈もなく、結局、何らかの形で関わらねばならない。その度に、腹が立つこともあり、時に、後始末を施すことさえある。何故、これほどに、判断が悪いのか。こんなことを考えても、答えに行き着く筈もなく、期待するのを止めるしかない。役立たずと断じれば、簡単に片付くように見えて、要員が足らなければ、選択の余地はない。どうしたものかと思いつつ、手際の悪い人を眺めるしかない。

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8月3日(月)−幻滅

 毎週月曜日、経済新聞では教育の特集が掲載される。人材育成に力を入れた過去と違い、今は、即戦力が求められる時代、その為に必要となるのは、教育の充実ということだろう。経済界からの期待は、膨らみ続けているが、紙面から感じられるのは、あの世界の迷走ぶりではないか。確実な方法が見つからないままの。
 経済成長期に屡々聞かれた話題の一つに、機会均等から始まる平等の考えがある。経済格差が広がるにつれ、そこから生まれる機会の差に、光が当てられ、その解消に繋がる手立てが、次々と講じられていった。人間の素質に差はなく、誰もが達成できる筈との考えは、教育に携わる人々が、共通に抱いていたもののようだが、一部には、運動能力の差を認める一方で、学習能力の差を認めぬ方針に、疑問を抱く人がいた。それでも、成長期には、夢を実現できるという考えが、社会全体に広がっていたから、一部の反論は無視されてきた。だが、経済の限界を迎え、縮小が明白となるに従い、夢は幻となり、努力は報われぬものとなりつつある。目標を見失った人々が、世に溢れてくると、そこでの格差は、様々な形で明らかとなってくる。依然として、経済格差が教育格差へと繋がる図式に、何らかの手立ての必要を訴える人が多く、今朝の新聞でもそんな意見が大きく扱われていたが、この手の人々は、いつまで、こんな幻想を追うのだろう。資質という意味では、単純に物事を覚えるだけでなく、その類の行為に興味を抱くかどうかについても、関係する部分が多い。優良な人々と劣悪な人々、という括りは忌み嫌われるようだが、それに似た状況は、現場では歴然とあるに違いない。にも拘らず、事ある毎に、機会均等を訴える人々は、多分、自分達の存在意義を訴えたいだけではないか。これまでも、これからも、こんなことに力を入れ続けるのは、無駄と見做すのも一つの考えと思う。

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