育った土地の四季の移り変わりは、何となくだが、決まっているような気がしていた。例えば、夏はセミの鳴き声で、その違いが現れ、ニイニイゼミから始まった夏は、アブラゼミが主体となる中で、クマゼミの声が聞こえ、盛りを過ぎた頃には、ツクツクボウシが盛んに声を上げるようになる。そんな図式があったのだ。
ところが、土地が変わるとセミの生態も変化するのか、今居る場所では、ニイニイゼミの声は殆ど聞こえず、その代わりに、ミンミンゼミが緒を切り、続くのはアブラゼミで、流石に南方系のクマゼミは、温暖化の影響で北進しているとはいうものの、ここまでは響かない。もう一つの驚きは、ヒグラシの声が早朝と夕方遅くに聞こえることだろう。幼少の頃なら、山に出かけた時だけに聞いた声も、今では普通に聞こえる訳で、ここでも土地の違いが出ているということか。更には、他のセミが盛んに鳴いている最中に、ツクツクボウシの声が聞こえ始めることで、随分季節がずれているな、と思える。そんなことを思いつつ、ふと空を見上げてみると、そこにはトンボが飛び交っている。まだ、アカトンボといったものにはなっていないが、それでも、秋の訪れを感じさせるもので、セミの大合唱があろうとも、暦通りの秋といった風情が感じられる。ただ、気温は相変わらずの調子で、暦に従えば、残暑と呼ぶべきものがある訳だ。猛暑は一服したものの、依然として高温が続くから、予報などでは警戒を呼びかけ続ける。暑さに疲れた体には、少しの暑さも堪えるということなのだろうが、それにしても、猛暑日が続くようでは敵わない。気候の変化を主張したい人々には、格好の状況なのだろうが、そんなことはどうでもいい庶民達には、ただ迷惑な代物なのだ。
何故いけないのか、子供の頃に、沢山のいけないことが大人達から示された。だが、いけない理由を示されることは、少なかったのではないか。おそらく、大人になった今でも、その理由に思い当たることなく、そのままに子供達に伝えている人が、大部分なのではないかと思う。果たして、理由は必要なのか、と思いつつ。
あらゆることに理由を求める風潮は、ごく最近に強まったものではないか。確かに、理由を示せるものなら、それを的確に提示すれば、相手も理解し易くなるだろう。しかし、明確な理由も無しに、いけないと言わねばならぬことも、沢山あるのではないか。それに、無理矢理の理由を付け足し、相手を納得させようとする動きには、やはり無理としか思えぬものがあり、論理破綻を来す場合も多い。その欠陥を補修しようと、数々の事柄を積み重ねることは、更なる破綻を招くことにしかならず、結果的には、納得よりも、疑念が残ることとなる。だが、この風潮に慣れた人々には、理由のない話は、信用に値せず、耳を貸す価値もないこととなる。確かに、あらゆることには何らかの理由があるのだろうが、それが万人に通用するものかは、確実なものではない。相手の心情を汲むべきとか、客観的な解釈に基づくようにとか、そんな形で、あらゆることを読み解こうとする人々にとって、理由や意味付けのない指示には、守る価値さえないと思えるのだろう。だが、それでも守らねばならないことが、人間の世界にもあるに違いない。毎年、この季節になると話題になる事柄も、そんな風に扱ってみたら、どんな形に解釈されるのだろう。
皆がそうだという訳ではないが、写真機をぶらさげた人の中に、規則破りの行動が見られるのは、何故だろうか。他人への迷惑を考えず、レンズを向ける無礼も、眉を顰めたくなるものだし、最近の話題から言えば、鉄道写真への拘りの中には、公序良俗に反するものが、当然の権利のように行われている。自分しか見えないようだ。
自然保護の考え方は、既に庶民の頭にも沁み入っているように思える。確かに、多くの公園で、柵に囲まれた場所に、足を踏み入れる人は殆ど見られず、人の手の入ったものも、そうでないものも、自然がそのままに保たれている。ただ、暫く眺め続けていると、周囲に目を配りつつ、写真機を構えて踏み込む人の姿を目にすることがある。彼らにとっては、良い写真を撮る為なら、柵を踏み越えることなど、問題にならないということだろうが、非常識の例と思う。以前も、ミズバショウの写真を撮ろうと、その群生地に踏み込んだ初老の男性を目にしたことを書いたが、今回は、チャツボミゴケという名の苔の群生地に、堂々と入り込んで撮影する、やはり初老の男性の姿を見かけた。こんな人々に限って、若者達の非常識を口にするのではないか、というのは単なる想像でしかないが、それにしても、何がしたいのか、と思ってしまう。写真好きの人には、一部に過ぎないとは思うが、撮影することばかりに気を取られ、実際にその景色がどうだったのかを、後で思い出すことさえできない人が居る。だから、写真で記録を、という意見もあるが、画面からわかるのは、写された景色のみで、その脇に何があったかは、分かる筈もない。それでも、何もないよりは、という考えもあろうが、撮影するにしろ、まずはじっくり景色を眺めてはどうか。楽しむ意味を取り違えている人には、こんな言葉も響かないとは思うけれど。
古くからの習慣を、忌み嫌う人がいる。古臭いとか、馬鹿らしいとか、そんな表現で批判して、無駄なことと断じる場合が多いようだが、実際に、無駄かどうかは、人によることだろう。伝統という言葉で括られる行事も、その多くには、何かしらの意味が込められ、人の心に強い印象を残す。それを無意味と言っても、仕方ないか。
夏のこの時期、全国的に休暇を取る所が多い。休むことが少ないと、世界的に批判が集中する中で、盆と正月は、例外と捉えられるが、その一つに関して言えば、以前のように、墓参りなどの先祖との関わりを深めることは、少なくなったようだ。それより、少ない休みを楽しもうと、皆が挙って何処かに出かける。その結果、交通機関は異常と思えるほどに混雑し、満員の電車や交通渋滞に悩まされる人ばかりとなる。こんなことなら、他の日に休みを取ればいい、との意見もあろうが、それが簡単にはできないからこそ、世界的な批判の目が向けられるのだろう。これを解決する手段は、簡単には見つからないだろうが、それでも、徐々に状況は変わりつつあるようだ。何しろ、仕事を最優先にする風潮は、殆ど見られなくなり、自分を中心に置く考えが、多くを占めるようになっている。この中で、楽しみを優先させれば、何も無理やり混雑に加わるより、別のやり方が出てくるような気もする。まあ、そんなことを言っても、他人の目が気になるうちは、何も起きないのかもしれないが。
事故の思い出が流される。亡くなった人の残された家族たちの、それぞれの人生が紹介されるが、ほんの一握りにしか触れられない。史上最大の被害者数と、事故直後に伝えられたことを思い起こせば、それぞれを紹介するにしても、膨大な数となり、全てを取り上げることなど、不可能と思われているのだろう。
個人情報の保護が、当然のこととして扱われるようになり、この話題の取材は、更に難しさが増したことだろう。悲しい思い出を忘れたいと願う人も、中には居るに違いない。そんな人々から、話を引き出すことの難しさに、諦めた結果という場合もある。よく考えれば、生き残った人だけでなく、事故とは無関係の人々にとって、遺族の人生がどう関係するのかは、はっきりしないし、何の意味も持たないのかもしれない。それでも、知る権利を前面に出し、様々な形で接触を試みれば、理不尽を感じる人もいるだろう。語り継ぐことを、ここ数日に渡って取り上げたが、それがどんな影響を及ぼすかは、それぞれに違い、確かな答えなどは見つからない。それでも、歴史として扱う場合には、何らかの記録を残すことが、要求される。ただ、それが個人の権利を侵害すると、どんな形の記録でも、困難が伴うこととなる。事故直後、報じられた被害者の名簿の中に、知人の名前を見つけた人も居るだろう。彼らにとって、遺族のその後は、心のどこかに引っかかってきた話題なのかもしれない。だが、本人達が望まぬ中では、知る術もない。今流されている話題より、遥かに多くの物語がそこにあるのだろうが、それを知る権利はどれほどのものなのだろう。無事に過ごしていてくれれば、それで良いとするのも、一つの態度であるに違いない。
世の中には、経験者の話には、不確かな部分は無いと思っている人が多いようだ。これが語り部の重視という考えに繋がるが、確かな筈だから、検証の必要は無いとすることで、実は、事実誤認を招いていることも多く、極端な考えが、歪曲も含めた根も葉も無い話を成立させていることが多い。では、その責任は、誰にあるのか。
語り部となった人の全てが、嘘を語るとは言わない。意図的かどうかも含め、嘘を吐きたくなるのには、理由があると言われる。それまで、注目されなかった人の多くが、語り部という役を得た途端に、人の注目を浴びることができ、その立場を維持しようと努力することとなる。そこでも、事実のみに拘る姿勢が貫かれれば、何の問題も生じない。ところが、こういう人の多くが、何故かは分からないが、人の関心を引こうとして、興味深い話へと、重心を移していくようだ。その結果が、虚飾へと繋がり、嘘も方便のようになる。戦時中の事件に関して、ある新聞社の報道が、こういった背景から生まれた、捏造記事であったことは、語った本人の死後に明らかとなった。この国の事情として、恥ずべき行為に関して、非論理的な反応が生まれることがある。明らかな虚偽としても、語った本人が反論する限りは、それ以上の責めを負わせようとしないことだ。恥をかかせてはいけないとの配慮が、実は事実誤認を放置することとなり、時に国際関係さえをも崩壊させることに繋がる。だからと言って、個人の記憶に頼ることは、無意味というつもりは無い。歓心を呼ぼうと嘘を吐く行為が、全ての人によるものとは限らず、冷静な判断と論理から、確かな記憶が蘇ることも多いからだ。大量虐殺の現場についても、当事国の主張は尊重すべきだろうが、そこでの個人の経験には、全く異なる内容もある。この場合も、個人の見解は不確か、と決めつけてはいけない。個人には無関係でも、国の事情から出てくる、捏造の可能性は、政治的な面も含め、十分にあるのだから。
ヒトという生き物が、人類という括りを持ち得たのは、文字という媒体を手に入れたからに違いない。言葉を操るだけならば、他の生き物が理解できずとも、何かしらの意思伝達を手に入れた生物は、少なくないと思う。ただ、研究者と雖も、内容を理解するに至っておらず、確認する手立てがないままなのだが。
自分達が使うものだから、何を意味するのかは、長い時を経ても、読み解くことができる。それによって、先祖達が何を考え、何を遺してきたかを、知ることができたことが、知識の積み重ねを可能とし、ここまでの繁栄を築く礎となってきたのだろう。誰もが認めることと思うが、その一方で、最近の論調で誤解を招き、的外れの議論を導こうとするものがあり、無知な人々の身勝手な考えに、呆れ果てている。それは、語り継ぐという言葉で括られる、歴史を忘れないことの重要性に関する話題のことだ。語り部を重視するのは、経験をそのままに伝えることの重要性が、尊重されるからなのだろうが、人間の命には限りがあり、経験を語り継ぐだけでは、ヒトの寿命を超えて、大事を伝えることはできない。それが可能となったのが、文字として残すことだったのだが、まるでそれを全面的に否定するが如くの、語り部重視の論調に、人は何を思うのだろう。どれもが大切なことであり、それらを全て揃えることで、経験を活かすのが、人類の知恵であることは確かだが、それらを全体として捉えず、一点のみを強調する風潮には、強い違和感を覚える。ある本を著すきっかけとなったのは、語り部では不完全な情報が残され、偉業が歪曲される恐れがあったからで、自分の言葉を、文字として残すことの意味は、正しい伝承にこそある。同じことが、経験を語る人々にも、当てはまるに違いない。それを、語ることばかりを強調するのは、まさに、騙りを許すことにならないか。