ある見方からすれば、個人主義の台頭とも言えるのだろうが、他人への関心が薄れたことが、一番の要因なのではないか。個人を尊重すると言えば、成る程聞こえがいいが、実際には、自分のことが一番大切であり、他人のことなどどうでもいい、という考えにも思える。その結果として、社会が崩壊し始めたのではないか。
事件が起こる度に、家庭の問題と片付ける意見が出る一方で、地域の問題を取り上げる人もいる。結局は、社会全体の問題であり、孤立した人間だけからなるものでない限り、何らかの関係を築かねばならないのだろう。だが、それを妨げる意見として、個人の権利の尊重が強調され、他人どころか、家族間でさえ、不介入の原則が存在する所もある。なぜ、こんな状況に陥ってしまったのか。意見は様々にあるだろうが、道徳や倫理というものも含め、社会として考えるべき事柄を、見失ってしまったことに、最大の原因がありそうだ。自信の無い人間達が、それを知られまいとして、色々な形で拒絶を繰り返す。これによって確かとなったのは、不介入の原則ばかりで、人を育てることも、相互扶助の原則も、何処かに放り出されてしまった。非常識としか思えない行動を、誰も戒められず、叱れる大人がいなくなったばかりか、見て見ぬ振りをしつつ、自分の生活を守ることに、汲々とする人間ばかりの社会が出来上がった。こうなると、家族だけが唯一の望みとなるが、それさえも、不確かな形でしかなく、一部の例外を除けば、健全性とは程遠い状況にある所ばかりだろう。事件を招いたのは何か、という問い掛けは、毎回出されるものの、返ってくる答えの的外れぶりや、それさえもすぐに忘れ去る社会では、何も変えられないのだろう。個人が集まって構成される社会だからこそ、個人の資質に左右されることが多く、現代の混迷に、大きな影響を及ぼしている。それでも、個人を大切にしたいのなら、他人の言動に口を出す必要は無い。そのまま、朽ちていく人々を、放置することこそ、原則に沿ったことなのだから。
これまでに決断を迫られたことは何度あるのか、そんな問い掛けをしたくなるほど、優柔不断としか思えない人が増えている。考えているという常套句に、頼りきっている人々には、決断という一線は、越えられないものと映っている。痛い所を突かれた時、人は戸惑いを覚え、救いを求める。決められない自分を棚にあげて。
こんな書き方をすれば、優柔不断な人々を、批判の対象にすべきと見える。しかし、現実社会では、彼らは保護の対象となり、被害者と見做されているのだ。本音を聞けば、他にもっといい所があるかもしれないとか、もしかしたら悪い所かもしれないとか、そんな身勝手な考えを、臆面もなく返してくる。決め手は何かという問い掛けも、殆ど効果を示さない。実際には、何も考えていないからで、決めることを避けているだけなのだ。無責任が横行する時代に育てば、それが当然と見るのだろうが、決める責任を逃れる為に、決めざるを得ない状況を作ろうとする。だが、それでは、精神的に追い込まれるからか、それさえも逃れようとすることが、今話題となっている「いじめ」の問題へと結びつく。これ程に下らない人間を、自分達の仲間として迎えようとする組織にとって、青天の霹靂のような扱われ様は、心外以外の何物でもないだろう。だが、正義の味方を自任する輩にとって、格好の材料を与えたことは間違いない。愚かな人々の、身勝手な発言を、まるで窮地に追い込まれた、不幸な生き物の悲鳴の様に捉え、権力者への批判として、実は別の被害者を作り出しているだけなのだ。始めてみなければ分からない、という事実は、それまでの人生においても、少ないとは言え、経験したものであるにも拘らず、まるでそれが当然の権利かのように、より良いものを探し続けようとする。お互い様との考えから見れば、相手が良いものを見つけることも、当然の権利だろうから、その為に決断を迫ることも当然だ。どこがどうおかしいのか、あの連中が説明することはない。
弱者保護は、安定する時代の標語の一つではないか。これまでに何度も書いてきたが、実際に被害に遭った人だけでなく、そんな不安を抱く人々に対して、手を差し伸べることが、社会の役割とする見方が、異常と思える程に強まっている。確かに、弱い者は保護すべき対象だが、問題は、本当に弱いのか、という点にある。
最近の問題は、弱者は保護の対象となる、という点にあるのではなく、誰が弱者なのか、という点にある。世論を操作しようとする輩は、現実を捻じ曲げてでも、強弱の立場の違いを際立たせ、その設定上で、保護の対象に的を絞り、害を及ぼす勢力を徹底的に糾弾しようとする。一見、正義の味方のような振る舞いに思えるが、現実には、自らの都合に合わせた、身勝手な分類と、それに基づく敵味方の区別だけに、下らないと断じるべきものと思う。弱いふりをする者、害を被ったと主張する者、そんな人々に、目を向ける必要はなく、その価値さえ見出せないのが現状だが、彼らに目を向けることで、真の問題から目を逸らそうとする動きが、情報伝達に携わる人々の中にあるようだ。あらゆる出来事に関して、どのようにすることが、煽りに繋がるのか、という点が、彼らが最も気にするものだが、世論を誤った方向に導くことに、なぜ、これほどまでに力を入れるのか、理解に苦しむ。歴史への反省を口にしても、実際には、何も理解できておらず、何の反省もしていないことが、こんな状況から窺えるが、彼らは大真面目で、的外れの弱者保護を、声高に訴えている。今回の話題は、就職に関する「いじめ」の問題だが、以前の面接上の圧力とは異なり、今度は、決断に対する圧力が話題である。本人達は大真面目に問題を指摘するが、これが問題とは思えぬ代物で、まるで、粗悪品を売り歩く押し売りのようなものだ。人間を商品と見做すことに、抵抗を覚える人もいるだろうが、求人求職の現場では、売出し品を捌くのと似た状況がある。今買うかどうか、の決断を迫ることに、「いじめ」の圧力を感じる人が、いるのだろうか?
楽をする、と聞いただけで、厳しい視線を向ける人が居る。確かに、他の人々が、一生懸命頑張っている中で、一人だけ、全く別の態度を示してるのに、違和感を覚えるのが当然だろう。しかし、どのようにして、「楽」をしているのか。批判的な視線を送る人々は、考えるつもりがないようだ。サボっていると思うだけで。
同じ作業を行うのであれば、より効率的に進めた方がいいに決まっている。これほどに明らかなのに、最近の状況からは、時間とか労力といったものを、如何に多く使うかが肝心に思う人が増えている。逆に言えば、努力こそが評価されるという見方だが、これも、消費時間と結びつけるだけで、効率化への努力が評価されることは殆どない。それより、同じ作業をしているにも拘らず、早く終えた人間は、何か悪いことをしているかのように見做される。なんとも、非合理的な考え方と思うが、合理化という言葉の使い方からすれば、人員削減とか、部署の消滅などといった、単純に数を減らすことにしか、合理化を結び付けられない人々からは、実は、効率化などといった感覚は出てこない。実際には、仕事の中身を吟味し、片付ける順番を見極め、やるべきことを取捨選択することで、少ない時間、人員で、作業を進めることこそ、合理的で効率的な取り組みと言える。この辺りの誤解は、社会全体に広がり、一種の病のように、人々の心を侵している。一度、この考え方に囚われると、全てをそれに嵌め込むから、より良い考えに気付く機会も失ってしまう。そんな人ばかりが居る中では、合理的な考えは否定され、効率的な作業は疑われる。ごく単純なことの積み重ねでも、効率化は実現できる筈だが、実は、こんな勢力によって、全てが阻止されている現実こそ、社会の停滞を招いているのだ。
税金の使い道について、庶民として考える所はどこだろう。以前なら、道路建設や土木工事をはじめとする、公共投資が主体となっていたが、一部業界への便宜のような見方が強まり、最近は、敬遠されているようだ。しかし、税収という形で入ってくるものには、多少の変動はあっても、ある程度の額が保証されている。
そこで、役人達は別の使い道を考える必要がある。それも、多くは国の運営そのものではなく、地方に分配されたものの行方に関するものの方が、遥かに大きな割合を占める。公務員の数の問題など、様々に批判されているが、それとは別の形で、これらの使途が問題とされる訳だ。巷で話題となっているものを、そんな気を持って眺めてみると、あれもこれもと、色々と浮かび上がってくるものがある。例えば、新しい納税制度として、様々に注目を浴びてきたものの、始めとは違う形で、改めて庶民達の関心を集めているのが、ふるさと納税と呼ばれるものだろう。始めは、故郷を思い描く気持ちを表すものとなっていたような気がするが、今や、景品目当ての銭集めといった感さえ出ている。地方の復権に関わるものとして、形振り構わずということかもしれないが、無駄としか思えない面もある。別の形式として、人口減少に歯止めをかける、という訴えを主体に、様々な政策が地方から提案されているが、これに対しても、地方交付税と呼ばれるものが使われている。ばらまき財政とまで批判されていたものと、何が違うのかと思えるが、目的が明白で、それが地域の為となれば、何でもありということか。ただ、これらに乗っかってくる輩の言動を見ると、こちらも無駄ばかりが目についてくる。困っている者同士の助け合いにも似ているが、どちらも私欲に走っているだけだろう。地域の利益とは何を指すか、考えているようにはとても見えない。
外食産業は、その国の経済状況を表すと言われる。海の向こうの先進国に渡った時、食堂と呼ぶより、あちらの言葉で呼びたくなる程、豪華な雰囲気と食事が供されているのに、半世紀前には、衝撃を受けていた人が殆どだった。値段もそれ相応に設定されており、饗膳に相応しく、日頃の食事とは大きな差があった。
それにより、第三次産業が盛んになったことが、あちらの特徴となっていたが、こちらは、それほどの余裕もなく、外で食べることは、年に数回の催事と見做されていた。普段は、精々、近くの食堂で食べるくらいで、豪華なものなど夢のまた夢といった感覚だったのだろう。それが、高度成長なる時期を経て、経済的な豊かさを手に入れた結果、人々は、普段から様々な形で外食を利用するようになる。ただ、経済状況の影響は、依然として強いままであり、悪化が懸念されていた時期には、安売り合戦が主流となっていた。あの飽食の時代からすれば、何という変化だろうか。だが、無い袖は振れず、いつまでも安いものを追いかける時期が続いた。その結果は、全体の停滞を招き、低迷を脱する気配は見えないままだった。経済回復を約束した政治家達の策によるものか、徐々に変化してきたものが表面化し始め、庶民にも自信回復が見られるようになった。と言うより、もしかしたら、不安を煽る人々だけが、心配を口にしていただけかもしれない。外食産業も、相応の価格設定が当然という考え方が戻り、良いものを手に入れたい人々は、それなりの出費を覚悟するようになった。更に言えば、労賃を考慮に入れれば、経済を支える為にも、相応の出費が当然となる。そこまで考えることができるようになったからか、はたまた、そんな状況が訪れただけなのか、実際のところは不明なままだが、外での食事が、豪華さを取り戻し始めたように思える。油断大敵との意見が、例の所から聞こえてきそうな気配だが。
謝るという行為に対して、古今東西、それぞれに受け取り方が違うと言われる。特に大きな違いとして取り上げられていたのは、半世紀程前の東西の違いで、欧米と呼ばれる地域の多くでは、謝るとは、自らの過ちを全面的に認める行為である、と見做されていた。最近は、随分と事情が変わったようだが、どんなものか。
それに対して、この国では、事が起きた時に、まずは謝っておくという考えが、主流を占めていた、島国とか村社会と呼ばれる、限られた地域を対象と見做す考えにおいては、何事も円滑に運ぶ為には、対人関係を良好に保とうとする動きが重要であり、その為に、言葉遣いが大切とされ、相手の気持ちを汲む姿勢が第一とされたからだ。ところが、最近では、島とか村とかとは無関係に、人間関係を保つ秘訣として、自己主張ばかりを前面に押し出すのではなく、対人関係を第一と見るべきという考え方が、欧米にさえ芽生え始めたようで、ちょっとした驚きを伴って、受け止められていると言われる。さて、そんな状況の中、過去の過ちをどう認識するべきかを、検討しようという時期がやってきた。以前から、どう見るかの検討が重ねられ、専門家の見解が紹介されたようだが、どう感じるかは、所詮個人によるものだろう。国による見解となれば、総体としての判断となるだけに、軽々なるものでは済まないのだが、元々にあった、謝るという習慣から、ある意味で深く考える事なく、謝罪の言葉を連ねた事もあったが、その後の流れを見る限り、国際情勢は、全く違った方に向かっているようだ。補償とセットになる謝罪には、どのような意味があるのか、と考えさせられるが、どうしたものだろう。