本人は気づきもしないから、当然の如く、気にする気配もない。そんなことが社会全体に満ち溢れ、憂国の士たちは、様々に問題を指摘する。だが、対象となるべき人には、そんな意見が聞こえない。そればかりか、自らの問題を、他人事のように受け取り、解決には、手が差し伸べられる筈との態度をとり続ける。
これでは、問題がどこにあったかさえ、はっきりとしなくなる。何しろ、全てが他人事であり、気付くことさえない人々である。その原因はどこにあるのだろうか。それらの人々を眺めていると、不安を口にするものの、現実には、あらゆることに能天気ぶりが目立つ。気にせずとも、問題を指摘してくれるばかりか、その解決法まで示してくれる。そんな社会に育まれ、微温湯に浸かった人々に、意欲が感じられることはない。だから、肝心の解決法は、役立たずのものとなり、結局、何の変化も起きない。対策法は、様々に工夫されるようだが、それを編み出す人々は、自分で動いた結果、その立場にある訳で、その指示を受ける人々の、動く気もない気分を、理解できる筈もない。それにしても、やる気のない人間に、その気を起こさせる為の手立てが、世の中に溢れているのは、初めてのことなのだろうか。でも、と思うのは、昔読んだ本のことである。今も多くの読者を惹きつける、漱石の小説には、宝の持ち腐れとも思える若者達が、次々と登場する。やる気のない若者に、作家は何を思ったのか、光を当てていたようだ。こう書くと、明治の後半にはそんなことがあり、今もそれと似た時代と思われそうだが、実は、大きな違いがある。立身出世の機会が、訪れ始めた時代の若者の戸惑いと、何もかも与えられる中で、何もする気のない若者が抱える問題には、明らかな違いがある。それも、肝心となるべき能力の違いなのだから、似ても似つかぬものなのだ。
力不足と謙遜する人は多いけれど、現実に、そんな人材を目の当たりにして、茫然自失となった経験も、あるのではないか。如何なる選別を繰り返そうとも、力足らずの人を除くことは難しい。それは方法の問題だけでなく、対象となる人々の実力の問題とも言われる。ここでも、無い袖は振れず、あるもので我慢となる訳だ。
即戦力を望む声がある中で、この実情を憂う声が強まっている。何が足らないのかは、殆ど明らかになっていて、それへの対策を講じる所もある。例えば、それまでの過程で築かれる筈の基礎力は、その不足があまりにも深刻で、様々な指摘がなされるが、根本解決には程遠い状況にある。各過程で、一つ一つを解決するしか手段は無いが、生れてから育つ過程も含め、あらゆる段階で、不足が重なるようでは、解決の糸口さえ見出せない。それが蓄積したものを、目の当たりにする訳だから、何とか打開策を講じようと模索が繰り返されるが、長年溜め込んだものを、一気に解決するなど、夢のまた夢でしか無い。就職後に関しては、自身の責任を問うことで、採用した側の責任放棄が起きた。学校では教わらない作法だけを、授ければ十分だった時代とは異なり、読み書き算盤のような、基礎力が足らない反面、派手な飾りのような技術ばかりを自慢する人材に、将来は感じられない。同じ状況は学校教育でも問題視され、特に、積み重なりが極まる最高学府で、その問題は深刻と言われる。ここでも、実力を測り、選別した筈だが、相対的な選抜でしかなく、力不足は明白となる。それを補う為の手立ては、様々に講じられるが、無い物が有るようになる筈もなく、自己責任としたい所だろう。ただ、働く場所とは違い、依然として教える場所だけに、責任放棄は禁じ手となる。では、どんな方策があるのか。商売人も含め、誰も答えを見つけていない。結局、力の無い人間が、どうすればいいのかを考えない限り、何も変らないのだろう。
現実世界と仮想世界、その区別が不鮮明になっていると言われる。画像の処理技術が向上し、違いが見破りにくくなったという話もあるが、それより大きな問題は、自分の目で直に見たものと、画像という媒体を通して見たものの、違いを感じなくなっていることにある。若い世代の中には、何が違うのか、と思う人が多いようだ。
情報収集の方法が、一点に集中することで、人々は利益を得ていると言われる。だが、インターネットと呼ばれる媒体を通すことは、モニターという機械を通して、画像を眺めることで確かめねばならない。元々、音声や文字を媒体として、情報に触れていた時代とは異なり、画像を主な媒体として、情報を目にするようになり、編集という作業を経ても、画像自体に細工は施されていないから、信用する価値があると見做されていた。だが、その肝心な画像が、そのままのように見せる形で、事実とは異なるものになり、情報操作が氾濫することとなった。これ自体、重要な問題なのだが、注目されていないが、実は深刻な問題と見るべきことが、別にあるのではないか。それは、自分が直に見たものよりも、画像を通して見たものを、信頼に値すると見做す傾向だ。観察という行為は、理系に限られたものと見る向きもあるが、人間観察を始めとして、文理に関わりなく、情報収集の手段の代表格である。ただ漫然と眺めるのではなく、視点を変え、視野を変えることで、様々な情報を集めれば、多種多様な知識に触れることができる。本来、個人として、最も信じられるのは、自分の目で見たことであり、それに勝るものはない筈だが、若者達の見解は、違っているらしい。画面を通して見たものを、事実と受け取る傾向は、いつの間にか、そちらの方が、正しい見方を示すものとの見解となり、真偽の区別さえ、それを基準として判断することとなる。おかしくないか、これ。
憂いを無くす為か、備えを整える人が多い。それ自体が悪いとは思わないが、口にする程には備えておらず、計画倒れとなってしまうことの方が多い。やっているように見せて、実際には、何もしていないことばかりで、成果が上がらないのも当然となる。それでも、本人は、必死の形相を見せ、真剣さを主張する。
危機回避の為に、準備をすること自体、何も悪いことは無い。だが、表面を整えるだけで、中身が無いのでは、全く意味がないと言うしかない。それでも、何もしないよりはまし、とする意見もあるが、果たしてどうだろうか。成果を求められる風潮の中では、ふりだけを続ける態度では、評価が上がる筈もなく、評判が落ち続けるだけだろう。危機のように、差し迫る問題を扱う場合には、確かな整備が求められるが、確率的に低い事象を対象とした場合には、逆に、掛け声だけで終わるものの方が多い。一方、日常の出来事を相手にする場合も、様々な備えが考えられるが、多くは、何も為されないままに終わっているようだ。他人への要求を高め、その必要性を訴える人の多くが、いざ、自分の順番が来た時には、何もできないままに終わることが多いのも、備えのことばかりに意識が向き、実際に為すべきことに目が向かず、当然ながら、その整理さえ済んでいないこととなる。こういう人が増えてきたのは、時代の流れによるものだろうが、ここでも、傾向と対策という考え方が、主流となっているようだ。ただ、他人から与えられたものと違い、自身で考えを決めねばならないから、解析や提案の一つ一つが重要となる。それに対して、その手の能力を磨くことなく、受け身の姿勢を続けてきた人々は、ただ漫然と、備えを口にするだけに終わるのだ。
難しい言葉を並べ、複雑な内容を説明する。高度な知識と深い理解力に基づいたもの、と多くの人々が受け取り、尊敬の眼差しを向けるようだが、当人の頭の中は空っぽ、ということが多い。話し終わった後で、解らなかった基本的な事柄を質してみると、彼らの無能ぶりが露呈する。何も理解していない、という事実が。
難解な言葉を並べることとて、演劇をした経験のある人なら、大した困難を感じないだろう。台詞を覚え、それを口にするだけのことで、それらしく、抑揚さえつけられれば、自信に溢れた話術をひけらかすことに、何の困難も感じずに済む。だが、話の内容については、珍紛漢紛であり、話す側も聴く側も、どちらも何も解っていないのだ。にも拘らず、流暢な話ぶりに、簡単に騙される人は多い。読む時も、同じことが当てはまる。漢字ばかりの文章は、難しいものと思われるが、だからと言って、内容が的確に表現できているとは限らない。全ての単語を辞書で調べ、簡明な表現に変換しても、結局、何を書いてあるのか解らない、という場合が沢山あるのも、最近の傾向ではないか。難しい内容を、難しく話すには、台詞を覚えさえすればよい。だが、同じ内容を、誰もが理解できるように説明するには、誰もが知る言葉を使う必要がある。しかし、それでは、難しい内容を的確に表現することができない。ここに最も大きな困難があるが、内容を正確に理解している人間は、不十分な点を補いつつ、解りやすく説明することができる。そこに大きな違いがあるのだが、始めに書いたことをやっている人間は、それだけの能力を備えていない。更に言えば、自分の無能が露呈しないように、難解な言葉を並べようとする訳だ。だが、それを見破るのに、難しいことは一つもない。話の始めの頃に出てきた、難しい言葉について、聞き質してみれば、すぐに判る。
文理の分離は、この国独特の区分と言われる。厳格な区分が通用した時代には、自分の立ち位置を定めることが、教育を受ける時ばかりか、社会に出た後にまで影響を及ぼしていた。だが、様々な分野が複雑化するに従い、それぞれの間に築かれた垣根は、徐々に取り除かれてきた。複雑になれば、要素の数も増え、その出処も多様化したからだ。
今の状況を眺めると、そんな区分も不鮮明となり、互いの違いを明確に示す手立ては、殆ど失われている。その中で、自らの適性に合わせて、進路を選択することは難しくなり、どちらかと言えば、単なる好悪を根拠として、行き先を決めることが多くなった。だが、その一方で、世の中全体に、役に立つか立たないかという基準を、あらゆることに当てはめる風潮が広がり、それが価値を決めるかのような論調が、様々な場面で大勢を占めるようになっている。将来という視点を採り入れることで、その正当性を高めようとしているが、現実には、不確定な要素が多過ぎて、確実なことは何もない状態にある。にも拘らず、役に立つという言葉は、実しやかに使われ、それが全てを決めるかのように扱われる。そんな話を好んでする人の多くは、有用かどうかの指標が、決定要因であると信じきっているが、果たしてどれ程のものか、当人も含め、誰にも判らないと言うべきだろう。ただ、不確実なままで議論は進められ、重大な決定が行われることも多い。始めに取り上げた文理の分離を、選別の根拠として、不用なものを取り除こうとする。今の風潮では、当然の措置とも見做せるが、どこにも確かな証拠はない。その中での決断を促しているのは、様々な圧力のようだ。だが、確証のないままに、こんなことが罷り通るのは、知恵の無い者たちが、大事を決める立場にあるからだ。彼らが学んできたモノは、結局役立たずだったのだろう。
経済を含め、色々なものを安定化する為に、様々に手を施す。国単位で言えば、政策と呼ばれるものが、これに当たる訳だが、確率で話をすることはできても、そこに確実なものは無い。人々の心は、一面貧しさを示し、自分の将来を含め、周囲の出来事に確実を求めるが、そう簡単に事は運ば無い。思いもよらぬ変化もあるのだ。
政策の多くは、即効性のものより、長い目で見た変化を促そうとする。だから、一時的には、逆方向の変化が起き、時には、それに対する反応が、大きく出ることもある。それが雪崩現象を招き、政策が目指した変化とは、全く違った結果を生じる。策を講じる立場からすれば、そこで更なる方策を、という声もあろうが、現実には、対症療法に過ぎず、結果的には悪化の一途を辿ることになりかねない。予想外の展開については、様々に思いを巡らせていても、思いもよらないこととなり、結果的に、的外れとなることもある。だからと言って、根本的な解決を目指したものを、さっさと引っ込めることには、注意を要するのではないか。対症療法の連続で、解決を目指すのは、海の向こうの二つ前の議長のやり方だったようだが、その時うまくいったからと言って、今度も、という具合にはならない。まして、政策を含め、多くの不安要素を抱える国が、今回の原因だとすれば、彼らの極端な方策に、期待し過ぎる訳にもいかないだろう。所詮、経済は予想通りには進まないもの、山あり谷ありを想定しておかねば、なけなしのものを失うことになる。