パンチの独り言

(8月31日〜9月6日)
(権利、盲打ち、恥知らず、餓鬼、権威主義、艱難辛苦、隠蔽)



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9月6日(日)−隠蔽

 前面に出ているのは、確かに、人道の問題なのだが、その裏に隠された事柄に、気付かぬ人々には、国際問題を論じる資格は無いと思う。表面的なことばかりに目を奪われ、如何に見栄えを良くするかに腐心する人は、実は、問題を掘り下げ、本質に迫ろうとする気迫が感じられない。世間体が気になるだけではないか。
 困っている人々を救いたい、という純粋な気持ちを、無駄なものと片付けることには、賛成はしない。だが、始めに取り上げた人々は、純粋とは程遠い心の持ち主であり、自らの利益を最優先させながら、それを隠し通そうとする思惑に満ちている。人の道に外れた行為を、それと分からぬ形にして、正当化するのがそのやり方だが、これとて、大きな顔をしてやれば、気付かれずに済むと思い込んでいる。確かに、貧しいという環境では、様々に困り果てる。金銭的な困窮だけでなく、心理的な貧しさが加わり、そこからの脱却を望む人がいる。これについては、国の豊かさや不安定は関係なく、個人の問題として扱われるが、国自体が厳しい状況にあると、それに加えられる圧力は、かなり増すと考えられている。だから、難民として逃げ出す人がいる、という図式だが、その過程で、見逃されていることがあるのではないか。情報社会では、身近な話題だけでなく、見たことのない所からの話題も流れてくる。この国も、そんな憧れに包まれていた時代があったが、それはこちらの事情によるものであり、憧れの対象からの働きかけは、あったにしても、それほど甚だしいものではなかった。ところが、難民の話題では、違った事情が隠れているようだ。内戦という国情不安の中で、関わりを持つ国々は、ある方向に人心を導こうとして、その転換が如何に希望に満ちたものかを見せようとする。その結果、戦いが終結し、不安が解消されれば、問題ないが、現状は、解決には程遠く、人心はそこから離れることとなる。結果、憧れの対象に向かう意欲が増し、放浪の旅へと向かう訳だ。問題はどこにあるか、これほど明白なことにも、彼らは覆いを被せているようだ。

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9月5日(土)−艱難辛苦

 人道を論じる人々が増えている。豊かで安定する時代の特徴と見做すのは、偏った見方なのかも知れないが、自分達の生活に追われる人々に、その余裕などある筈も無いことから、こんな見方もあり得ると思える。だが、余裕があるからといって、客観的で正しい見方をするとは限らない。人の道とは何か、解っていないようだ。
 人道が論じられる場面の多くは、他人と比べて劣った環境にある人々が、議論の的に据えられた時である。如何に不幸な人達かを論じた上で、彼らに救いの手を差し伸べるのは、人間として当たり前の行為と訴える。これ自体に間違いは無いように見えるが、問題はその前提となる「不幸」の範囲にある。劣るという比較では、確かに、歴然とした違いが見える。多くの人道主義者は、その時点で、違いを埋める為の手立てを講じるべきと主張し、平等への道を歩もうとする。一つの町、一つの都市、一つの国といった単位で考えた時に、違いを無くそうと苦心することには、間違いは無いように思える。だが、それが国を跨ぐ形のものへと変貌すると、状況は一変するのでは無いか。ここでも、国による違いを乗り越えようと、様々な働きかけが進められるが、思い描いたものにはならず、多くの失敗が残されてきた。国内の問題でなく、国際的な問題との見方が出るに従い、人道的見地から、援助の手が差し伸べられると、不幸な人々は難民であるとの解釈から、国による受け入れが、解決への道とされた。その活動への消極性から、自分達の国の狭量さを嘆く声が聞こえるが、論理的な考えとして認め難い気がする。本来、政治体制に背いたことから、犯罪者と扱われたことが、受け入れの条件となっていたが、あらゆる厄難に遭った人々が対象となる、難民という括りが、適用されるようになると、内戦や国情不安を発端とし、他国に避難する人々を呼ぶようになり、受け入れの対象とされ始めた。だが、彼らの多くが、先進国での豊かな生活を望むと伝えられると、何か間違っているのでは、という思いが過る。この手の人々は、何を難としているのか。

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9月4日(金)−権威主義

 ケチがつくと、何から何までダメであるとされる。客観的な評価は影を潜め、決まった結論が並べられ、時に、全否定が続くことになる。興奮する人々が現れると、それを押さえつける力は消し飛び、彼らに反対する意見は、冷静な判断に基づくものさえ、攻撃対象とされ、徹底糾弾が続く。何とも極端な反応だ。
 その中で、応募の基準が改められると伝えられ、そんなものがあったのか、と思った人も多いのではないか。受賞経験者に限るとしたのは、応募数を減らそうとの思惑からだが、その結果として、模倣が問題となるとしたら、世間の評判などというものの信頼性は、無いに等しいということになる。あの業界は、自己主張の塊のような人々が棲む世界だから、そんな恥知らずはあり得ない、との解釈も、事実の前には、虚しいものとなってしまった。その反省があるからではなく、単に目先を変える為だけだろうが、基準の再検討が行われるとある。だが、そんなことで、この手の欺瞞が防げる筈も無い。信頼関係が成立しなければ、脆弱な基盤の上での競争など、意味を成さないのだから。また、世間で持て囃されている自己主張も、虚飾に満ちたものでは、評価に値しないとなる。こんな賞を貰っているのだから、自分は偉いと主張する人は、以前は、嘲笑の的となっていた。だが、今や、その状況は変わりつつあるようだ。自己評価を正当に展開できる人は少なくなり、権力の威を借りる人ばかりでは、客観的な評価を期待することもできない。何しろ、主観的なものさえ、示せないのだから、それを集めた客観が、出てくる筈も無いからだ。個人主義の台頭と言われてから久しいが、その基準となるべき自己主張が、この為体では、このやり方への期待は持てない。

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9月3日(木)−餓鬼

 目立ちたがり屋の人間に、冷たい視線を送る。自分もあんなことができたら、と思いつつ、そんな行動をすることに、僅かながらも矛盾を感じていただろうが、それはそれとして、全体としては、そんな風潮だったのではないか。いつ頃からか、目立ちたがりを羨み、憧れるまでに至っては、別の矛盾が確かとなってしまった。
 自己主張ができる人間に、という育てられ方をした人々にとって、それによって目立つことに、何も悪い点は感じられないだろう。だが、明らかな間違いも含め、主張することだけが目的となると、本末転倒の景色が広がり、ただの自己顕示に過ぎないものに終わる。だからこそ、始めに書いたような反応が広がっていたのだが、今の人々は、年齢に関係なく、また性別にも関係なく、憧れだけで行動を決め、彼らの主張の正誤、善悪に目を向けることがない。というより、おそらく、そのために必要となる見識が身についていないのだ。盲目的に服従することで、自分も仲間になれると思い込み、誤った道を歩むことにさえ、気付くことはない。あの宰相も、人の気を引く言葉を並べ、最終的に絶大なる人気を誇ったが、その施策によって、乱された仕組みは復原することはない。一部の利を得た人々だけが、恩恵に浴したのだろう。更にそれに輪をかけたような言動で、人気を誇る首長は、好き勝手な行動と言説により、羨望の的となっていると言われる。だが、そんな目を向ける人々の能無しぶりは、振り回され具合からも歴然としており、後々、被害者を装い始めるに違いない。都になることを望み、それが夢破れると、別の話題へと誘う。流石に、法廷での誘導で鍛えた弁舌は、浅慮の人々には、見破れない。前言撤回など気にもせず、首尾一貫を強調する。ああ言えば誰か、と呼ばれた宗教家と、何が違うのかと思える。それにしても、放言を許す人々に、明るい未来はあり得ない。

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9月2日(水)−恥知らず

 意匠に関して、これほどに盛り上がったのは、何故だろう。模倣とか盗作とか、そんな批判を浴びて、当事者は反論に努めてきたが、結局、身を引くことを決めたと報じられた。単純な図形の組み合わせで、人の目を引く効果を狙うのだから、無限の組み合わせはないのだろう。その中で、混乱が生じたが、結論は出ないままとなる。
 混乱が起きた原因として、最大のものは、有限の組み合わせにあると言われるが、それにしても、混乱に付随する形で、軽々に模倣したり、無断借用したりと、芸術家としての矜持を感じさせない行動が続き、自ら袋小路に迷い込んだようにさえ映る。これで、一度急上昇した評価は、凋落することとなり、話題性のみがそこに残り、商売は成立しなくなるだろう。自業自得と言えばそれまでで、本来固執せねばならず、越えてはならない線を跨いだ結果と言える。大人数を抱え、盛んに進めていた商売は、座礁したということか。ただ、何故、これほど簡単に真似をしたのか、という点に関しては、世相の関わりがあるように思う。何事にも、人の気を引くことが第一と、老若男女全てが、宣伝文句を並べるような、言動を繰り返す。気を引けば十分で、中身の吟味はないとなれば、好き勝手なものでしかなく、何の価値もないものにしかならない。職業としての矜持を考えれば、あり得ないとも思えるが、それほどに気楽なものなのだ。一方で、選ぶ側の問題は、建物にしても、この意匠にしても、かなり深刻と思える。全く関係ない話だが、筆を口にして描いた絵と文で、人々の関心を集めた人物の美術館が、建て替えをした時、例の如く、公募の形が取られ、新たな意匠の建物がお目見えした。円柱を基本とした意匠には、斬新さが感じられたのだろうが、入館者は、異様な雰囲気に包まれた。数ヶ月後、その異様さを除く配置がなされたのは、その影響の大きさを示すものだ。その業界の人に言わせれば、意匠だけを追い、何も建てたことのない人物による提案の結果、だそうだ。

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9月1日(火)−盲打ち

 同じようにしたいのに、それができない。というのが、彼らの主張だと思う。だが、やればできるという言い訳が、多くの人の口から出てくるようになると、やらなきゃできないとか、やる気も無いのにとか、そんな批判の声も聞こえ始める。やりたくてもできないから、と言い放つ人々に、手を差し伸べる必要は、あるのか。
 家庭の経済状況を含め、人々が育つ環境には、様々に違いがある。その中で、どれだけ努力するかが問題、と教えられてきたが、最近の風潮は、全く違うようだ。努力は当然のものと見做したからか、それを問うことはせず、全てに機会を与えることに、話題が集中している。貧しい家庭でも、高度な教育を受ける機会を奪わぬように、という話が、必ずと言っていいほど、引き合いに出され、それを実現するための手立てが、様々に編み出されている。だが、当然との判断は、果たして正しかったのか。一部の人は、確かに、努力が無駄になる経験を持つが、ほんの一握りに過ぎず、大多数は、当然との前提が成立しないままに、望みを叶えようと声を上げている。だとしたら、豊かな時代の余裕の中で、身勝手な要求ばかりが注目され、無駄を増やしているだけになるのではないか。その一方で、当然の権利として、機会を手に入れた人々が、実は、それに見合うほどの努力をする気さえない、という状況が、現場で問題になっているという。機会の有無を論じるより、適格者の問題に目を向けたほうが、本質的なのではないか。次代を担う人材を育成する為、という目的において、何が重要となるかを考えないままに、見栄えを整えようとする勢力には、何も見えてはいない。努力ばかりが評価される中で、実際には、実力こそが肝心ということも、彼らには見えないのだ。

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8月31日(月)−権利

 差があることの是非が論じられる。その論点に、違和感を覚える人も多いだろう。平等主義であれば、何事にも差が無いとする考えは、果たして正しいのだろうか。本来、もっと厳密に定義しなければならないのに、いい加減なままで、話を進めてきた結果、こんな事態を招いている。定義なしの批判は、的を射ることは無いのに。
 定義とは、何とも大袈裟な印象を与えるが、それ程大層なことではなく、ただ単に、その出処を明確にせよ、ということだ。差として取り上げられるものには、内在性のものと外来性のものがある。資質などと呼ばれるものは、各人が生まれながらに持ち、そこに差があったとしても、どうにもならぬものと受け取られる。運動能力は、その最たるものとして、あまり抵抗なく受け入れられているが、他の能力にも、資質が影響を及ぼす。ただ、育ち方により、変化が生じる余地もあり、これが、差を強調しにくい環境を作り出す。一方、外から来るものは、更に環境の影響を強め、その対象となる人にとっては、強い圧力を感じる場合がある。格差とは、そんなものを一括りにしたものらしく、一部の人々は、それを排除しようと躍起になる。確かに、障害を乗り越え、目標を達成しようと努力する人にとって、それを妨げようとする勢力は、まるで立ちはだかる壁のようであり、理不尽な存在でしかない。努力しても報われない状況は、確かに、平等主義に反することに思えるから、そこに批判が集中するのは当然だろう。だが、巧くいかない人々の多くは、実際には、努力を怠ったり、その方向を誤ったりしており、当然の帰結として、差が出てくる。だとしたら、そこで格差と呼ばれるものには、十分な理由がある。それを知りつつ、排除を主張するのは、虫が良すぎるだろう。また、そういう人々を支える、人権派と呼ばれる人達も、本質を理解していないことになる。

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