パンチの独り言

(9月7日〜9月13日)
(当て外れ、難儀、意志、我振り、妥当、データ復旧、急務)



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9月13日(日)−急務

 早朝、グラグラときた。初期微動から本震までに暫く時間があったから、少し離れた所かと思えたが、遠くではなかったようだ。テレビでは天気予報を早々に切り上げ、その情報伝達へと移っていったが、それなりの大きさだったらしく、案の定、その報道一辺倒となっていく。本来なら、もっと大きな災害の報道に専念する筈だったのに。
 優先順位がどのように決められるかは、余所者に分かる筈もない。だが、結果だけは、はっきりと見えている。その中で、どちらが肝心かは、人それぞれの判断となるだろう。だから、一辺倒の方式には、かなりの抵抗を感じる人もいるのではないか。たとえ、どちらかの渦に巻き込まれていても、同じ地域に起きた災害であれば、両方が気になる存在となる。そのつもりで眺めていても、中々始まらない状況に、苛立ちを覚えた人もいるだろう。独自の尺度での判断に対し、公共放送の役目は、と思う人は多い。公共性とは、あらゆる意味で、中立であり、偏りを持たぬ必要がある。そんな思いを抱きつつ、流される情報を眺めていると、まるで自分達が渦に巻き込まれてしまったかの如くの、慌てふためいた様子には、最も大切である筈の、冷静さが失われてしまっている。一段高い所から眺めた様子こそが、皆の落ち着きを取り戻す為に、重要な役割を果たすだろうに、この騒ぎでは、とても望めない状況にしか思えない。いつからこんなことになったのか。たぶん、分かりやすい報道を心がけるようになり、身近な存在と言われるようになった頃から、一緒に騒ぎ立てることこそが、肝心と思う人が増えたのだろう。それにより、全体を見渡す力は失われ、地べたで走り回る、まるで野次馬のような報道だけになってしまった。

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9月12日(土)−データ復旧

 参った。職場のパソコンが動かなくなった。すぐに思ったのは、仕事上のデータについてである。特に、一部のデータは、そこにしか保存してなく、もし復旧できなかったら、と背筋が寒くなった。事故に備えて、様々に準備をしておくように、という使い古された注意が浮かぶが、後の祭りである。さて、どうしたものか。
 それでも、以前の自宅のパソコンの症状とは、大きく異なっていた。あの時、うんともすんとも言わなくなった機械を前に、途方に暮れていたが、製造会社の窓口では、記憶媒体であるハードディスクと呼ばれるものの不具合を指摘され、結局、そこにあったデータは全て失われた。新品同様となって戻ってきたパソコンは、全く新しいものとして扱い、写真のデータなどは、職場のものから転送することで、何とか救い出した。だが、今度は、その時とは比べようのない程のデータ量だけでなく、多くが、そこにしか保存されていないものだったから、深刻な問題となる。窓口では、バックアップの話となり、してこなかったことを悔いることとなった。ただ、正常に起動しないとはいえ、不具合の画面を表示することから、ハードディスクが完全に壊れたとは言えない状態らしい。聞いたことのない用語を並べられ、様々に試した結果、データは殆どが生きており、引き出せるかが鍵となった。外付けハードディスクを購入し、転送を試みたが、認識しない為に諦めざるを得ず、次の手段は、外付け側にパソコンを動かす為のOSを入れ、そちらから同じ作業を試みることになった。これもまた、すんなりとは行かず、専門家と思しき人々の、助言を受けながらの作業はほぼ半日を要した。結果、何とかデータを転送でき、一つの問題は解決した。他のパソコンで作業を続ければ、データは生き返る。だが、本体は、依然として異常なままである。全データを消去し、OSを入れ直したが、正常には戻らなかった。古い機械で、修理不能だから、後は細かなことを試すのみである。どうなるか。

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9月11日(金)−妥当

 自分の考えが受け入れられるか、心配になる人は多いだろう。独自の考えばかりに目が集まる中、皆に納得して貰えるか、総意となるべき考えについて、何が肝心かが伝えられず、危ない考えが林立するだけで、何をどうすれば、他の人に受け入れられるか、伝授されることがない。何とも、不安定な状況だろう。
 独自の考えを追い続ける人は、人との違いに目を奪われ、妥当性を考えることがない。だが、人に受け入れられるための条件には、妥当かどうかが大きな割合であり、それを克服しない限り、変な考えと片づけられるだけで、同意が得られることはない。そんな経験をすればするほど、妥当性から離れていく傾向が強まり、結果として、変わった人との扱いを受ける。これも一種の独自性なのだろうが、これでは、ただおかしいというだけで、自分の考えから何かが生まれることはない。こんな経過を辿っていくと、論理性とは何か、という疑問が浮かんでくるようだ。独自かどうかに無関係に、皆が受け入れるのは、そこに辿ることのできる論理があるからであり、それが妥当性に繋がることとなる。その確認には、自分の力だけでは不十分であり、他人との関わりを使って、自らの考えの妥当性を点検する必要がある。論理の飛躍があれば、受け入れられることなく、そこに疑問が広がる。その結果として、考え自体も受け入れられることがない訳だ。このような試行を繰り返し、その度に考え直すことを繰り返せば、徐々に妥当性を高めることができる。始めが突拍子もない考えであればあるほど、そこから妥当な点に到達する為の道程は、長くなるのが当然だろう。その途上で、あっさりと諦め、新たな考えに飛び移るようでは、論理の破綻を避ける手立てが身につくことはない。その意味では、時間をかけることが必要なのだろう。

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9月10日(木)−我振り

 こうして欲しい、ああして欲しいと、次々に要望を出す人々に、歩み寄りの気持ちはないようだ。兎に角、権利を主張し、それを満たすことを第一とする。望みが叶わなければ、相手の無能を罵ることさえある。自分に戻ってくることのない状況は、自らを安全地帯に置き、対照的に、相手を窮地に追い込むことに精を出す。
 何故そんな行動をするのか、常識的な人には理解ができない。だが、権利主張が認められる社会では、理解に苦しむことに対して、批判が投げられることはなく、そのままに放置される。となれば、非常識が常識と化し、主張の価値は高まる。平穏な時代には、失敗が忌み嫌われるが、この状況であれば、その心配は無用となる。異常に目を向けなくなると、他人の行動から学ぶという作業が忘れ去られ、自らを高める手段が失われてしまう。だが、彼らにとって、他人のことなどどうでもよく、自分の主張さえ受け入れられればいいのだ。こんな時代には、他山の石などという教えは、誤解を生むことはあっても、理解へと繋がることは少ない。個人主義も、この考え方を増長する。他人との比較を嫌い、独自性を強調する風潮には、底の浅さばかりが目につく。この傾向は、特に教育現場において顕著であり、資質を見出し、それらを伸ばすという目的は、果たされないままとなる。将来を案じる意見もあるが、平穏無事を優先させる中では、大した波風は立たない。そろそろ、根本的な問題を掘り出し、その解決に向けての方策を講じるべきだろう。その気がない人を相手にして、自己満足に浸るようでは、何の解決も起きないのだから。

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9月9日(水)−意志

 第一印象は何事においても重要と言われる。あれこれ考えることなく、多くの人は、初めの印象で決断するらしい。だからという訳でもあるまいが、情報を伝える時に、受け手の印象を操作しようとする動きは絶えない。それぞれの思惑が入り乱れる中で、少しでも有利な地位を保つ為に、こんなやり方が横行しているようだ。
 ただ、情報操作を施すと、その後の展開において、多くの矛盾が生じ始める。特に、情報量が制限されているうちは、限られた中での理解に限定されるから、少しくらいの間違った情報があったとしても、それを検証する手立ては握られていない。だから、したい放題といった感がする程に、皆が推測に基づいた話を展開し、そこでは、思惑に満ち溢れた筋道が作られる。だが、徐々に情報量が増してくると、その内容に広がりが加わり、視野もそれに従って広がるから、誘導に使われた情報の真偽にまで、その範囲が広がる場合もある。当然、嘘を承知の上で、持論を展開してきた場合には、その修正を施さねば、立場が危うくなる。ただ、始めに与えた影響は、強い印象を残すから、その線に沿った話を続ける場合が多くなる。困り果てた姿や顔を示し、彼らを窮地から救う為の手立てを、様々に伝えた報道でも、難民と呼ぶべきものかの検討はなく、当然のように、その言葉を用いていたが、現実には、生活に困窮するだけで、政治的な困難とは異なる事情であり、移民としての行動と見るべきだったようだ。その結果、数日後には、二つの表現が併記されるようになり、誤りが正されたが、依然として、その事情を勘案して考えを変える気はなく、如何に救うかに話が集中する。何も改める気がないのだろうが、悪質としか言いようがない。ただ、この流れにおいても、国連と呼ばれる機関は、意味不明な態度を示しているようだ。改めて、彼らの役目は何なのだろう、と思う。

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9月8日(火)−難儀

 借金を踏み倒そうとする国の人々に対して、冷徹な表情を崩さなかった女性宰相は、血も涙もない人物と見られていたのだろう。それが、戸惑う人々を受け入れるとの決定がなされた途端に、愛情溢れる母親のような存在とされる。何と身勝手な見方かと思うが、人の心は所詮そんなものであり、勝手な都合でコロコロと変わる。
 ここでも、違った見方が出されることはない。かの宰相は、赤を象徴とする主義が、脆くも崩れ去った時に、そちらの体制にいた人物であることを、多くの人は忘れてしまったらしい。敵対する体制が崩壊すれば、遂に、安全安心が訪れるとの歓迎の声の一方で、あまりにも異なる経済情勢から、大きな混乱が巻き起こるとの予想もなされた。結果として、直後の混乱でかなりの痛手は負ったものの、その後の急速な発展は、国民性の表れと評価されたようだ。だが、相対的に貧しい側から加わった人々は、それまでの社会保障が解消されることで、別の貧しさを感じたらしく、生活が豊かにならぬことを嘆く声は、止まる所を知らぬままだった。そこに、南の方からやってくる移民の群れが、職を奪いかねない状況を招き、不安が徐々に広がってくる。この波は、一時的には落ち着いたようで、国情の安定は、更なる発展へと繋がっている。だが、そこに現れたのは、本来の事情とは異なる問題を抱えた「難民」で、応急手当にも似た措置が必要となる。そこでの決断に、称賛の声が上がった訳だが、あの国民が70年前に抱えた問題も、関係しているだろうけれど、それに加えて、ほんの少し前の混乱が、大きな影響を及ぼしているのではないか。ただ、そうだとすると、また不安に苛まれる可能性もあり、すぐに安心できる訳ではない。金銭的なものも含め、心理的な余裕は、意外な程に脆弱なものなのだから。

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9月7日(月)−当て外れ

 自然の変化を楽しむことが、この国に住む人々の特権のように扱われる。ただ、快適なものばかりを追い求めると、厳しいしっぺ返しに遭うことも多く、自然の脅威に晒されることとなる。愚かな人間達にとって、意に沿わぬ成り行きは、自らを窮地に陥れるものに見え、それが、自然の営みの一つには見えないようだ。
 余計な知恵ばかりが身についた、頭でっかちの人々にとって、本能として括られる、野生の生き物がもつ能力は、優れたものと映るらしい。自然は、人間が意図的に操作できるものではなく、望まぬ方へと移る中で、その流れに任せるように生きるのは、何か特別な能力に思えるのだろうが、元々身についていたものだからこそ、意識をしたとしても、何も変えられないところに、その効力がある。一見、流れに任せているように思えるが、実際には、そこから動くことができず、何も変えられないと見るべきかもしれない。その一方、少しの変化に応じることなく、決められた規則通りに動くことが、野生の特徴のように扱われることがある。月の満ち欠けに合わせた生殖行動は、その一つとして、様々に取り上げられる。これ以外にも、多くの自然の営みが、摂理に従って動いているように見える。この季節の話題の一つで、以前にも取り上げたものに、彼岸花の開花がある。その名の通り、秋の彼岸に合わせて咲くもので、春の桜と比べると、その正確さに驚かされていたが、今年は、別の意味で驚かされた。一週間のズレもないほどに正確、と以前書いたような記憶があるが、何と二週間以上前に咲き始めていた。これを異常気象へと結びつけるつもりはないが、果たして、原因はなんだろう。長雨、低温、日照、要素は多すぎるくらいにある。

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