パンチの独り言

(9月14日〜9月20日)
(観光、要求、憂いなし、誤魔化し、配慮、相応しい、阻害)



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9月20日(日)−阻害

 優しい社会の問題が、次々と表面化しているが、渦中の人々は、気付く気配を見せない。外から見れば、何故と思うことが多いのに、気付かぬふりでもしているのだろうか。彼らの主張の多くが、問題を抱えた人を救うことに一生懸命で、外に居る人々の視線を意識することもない。一種の自己満足に陥っているらしい。
 その上、こんな状態を反省することなく、続けさせているのは、社会の態度にも、原因があるようだ。批判を嫌う姿勢は、誰しもが持つものだろうが、それによって、自らの行動を顧みる機会をも、奪うことになっている。自らの行動に満足する人々を、褒めちぎる意見では、反省が生まれる可能性は無く、改善が図られることも無いだろう。本来は、手を貸す必要もない人々に、手を差し伸べる人達が、満足を得ている姿には、現代社会の抱える歪みが現れているように思える。だが、批判という肝心な手段を失った社会に、自ら変わる姿勢は出てこない。与える側にも、救われる側にも、満足が得られているのだから、それで十分という考え方も、結局は、自己満足に過ぎず、社会全体を良くする方向には動けないという問題がある。では、放置しておくのが良いのか、と問われた際には、そうではないと答えるだろう。つまり、支援の要不要を、もっと厳密に区別すべきであり、安易な方に向かないことこそが、問題解決への道となる訳だ。それを妨げているのが、自己満足に陥る行為であり、外からだけでなく、内からも批判を繰り返す姿勢を排除する風潮にある。批判は厳しい行為であり、優しさを失わせると思う人がいるだろうが、その場を取り繕うばかりで、長い目で見た場合に、良い方に向かわせるとは限らないものでは、厳しい結果にしか繋がらず、一時の優しさは仇にしかならない。無駄なだけでなく、邪魔していることをもっと意識すべきではないか。

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9月19日(土)−相応しい

 成長の最中には目立たなかったが、翳りを見せ始めた頃から、注目を浴びていたのが、最先端を目指す為の英才教育ではないか。しっかりとした考えもなしに、単なる思い付きに過ぎないものだったが、頭打ちを意識する人々からは、大きな支援を受けていた。その結果は、ある意味悲惨で、誘われた人の多くは、道を見失った。
 その後、様々に検証が行われ、問題点を指摘すると共に、改善が図られたが、依然として、無駄な支援が目立つようだ。英才教育という言葉は、既に嫌われる存在だったから、当初から使われていなかったが、人材育成という名の下に、最先端の教育を施そうとする動きは、依然として強められていた。だが、無駄は所詮無駄に過ぎず、基礎が築かれていない所に、尖ったものを建てたとしても、すぐに倒れてしまう。所詮、与える方の自己満足に過ぎないものとなったが、まるで夢を追い続けるように、試みは様々に姿を変えながら、続けられている。しかし、世の中では、身の丈に合うとか、分相応とかいった言葉が、改めて引き出されるなど、段階を追って築き上げることの重要性を、指摘する意見が強まっている。その中で、新しい試みとして導入され、効果を上げられないままに古ぼけてきた手法は、殆ど改善されることなく、生き残り続けている。金の流れが重視される時代には、成果主義も取り沙汰されるが、適切な評価が為されることなく、ただ漫然と続けられている。懲りない人々は、そんな状況を顧みることなく、同じ考えに基づく新たな試みさえ始める始末、成果が上がらないことは、ある意味保証されているのではないか。地道な努力を勧める一方、こんな裏技を与えるようでは、まともな人間を育てることは無理だろう。愚かな人間が、この問題に気付くことはありそうにもない。

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9月18日(金)−配慮

 調査の手法は様々である。直接的なものがある一方、間接的なものが多く、紙媒体を介するものが主体だったものが、今では画面を介するものとなっている。直接的なものでも、電話を媒体とする場合、対面とは異なるから、面と向かったものと比べると、随分と違った印象を持つ。そこから、回答の質も変わるようだ。
 間接的なものに慣れた人々にとって、実は、尋ねられる側としての質の変化だけでなく、自らが尋ねる側に回った時の態度にも変化が現れる。回答の質において、紙や画面を相手にしている中では、思い切った選択をする場合があり、記述に関しても、配慮に欠けた言い回しが目立ってくる。相手の姿が見えず、自分の様子を見られることもないから、意識の持ちようが変わるのだろうが、極端なものが目立つ。その態度がそのままに反映されるのは、質問をする側に回った時ではないか。尋ねられた時に、不快な思いを抱けば、それ以降の答えに関わろうとする気持ちは乏しくなり、いい加減な答えが増えるだけでなく、時に、憤慨してしまい、答えることも止めてしまう場合もある。相手の気持ちを察することが、こういう遣り取りでは重要となるが、始めに書いたような事情から、間に媒体を挟むことで、配慮などを察することが無くなり、それに慣れた人々は、相手の気持ちを害する行為に、気付かぬ場合が多くなる。自己中心的な考え方は、そういった場面でも、自らの責任を意識することなく、相手の問題と片付ける訳だが、それでは、解決への道は遠くなるだけだ。対面が全てとは言わないが、人と人の間の関係だけに、相手の存在を常に意識する必要がある。自分が嫌だと思うことは、相手に押し付けないとの教えを、小さな頃から口酸っぱく与えるのは、こんな事情もあるのかもしれない。そんな人は、誰からも相手にされなくなるものだが。

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9月17日(木)−誤魔化し

 すぐにバレる嘘を吐く、と言われたら、心外と思うのかもしれない。自由な発想という呼び名にすり替え、能力の高さを表す指標のように主張する。確かに、嘘も方便という場面もあるには違いないが、彼らのそれには、あまりにも簡単に見破られる、という難点がある。これでは、すぐに鍍金が剥がれてしまう訳だ。
 だが、嘘はダメと言ってしまうと、一言も口が聞けなくなり、押し黙った表情からは、何も読み取れなくなる。そんな人は、昔から一杯居たとの意見もあるが、鵜呑みにはできない。それより、自由な発想という考え方が、今の歪みを増幅したとの見方を、すべきではないだろうか。特に、ゆとりを持たせようと、自由を強調することが、教えの場に広がった頃、海の向こうから運ばれてきた、褒めて育てるという手法と相俟って、奇想天外な考えさえも、着実な考えとともに評価され、そこに嘘が込められていても、自由な考えを評価することが、当然と見做されるようになった。一見、妥当な考えと受け取られたからか、間違いを指摘する批判の声は、誤ったものとして抑え付けられていた。それからふた昔ほど経過しただろうか。歪みを修正する手立ては、遅きに失したと言われている。嘘を吐いてでも、主張を続けるのは、設定された主張を訴え続け、議論に勝利を得るという試みで、大いに推奨されたものだが、結局、何の役にも立たず、ただの嘘吐きを増やしただけかもしれない。誤りを指摘し、厳しく叱る段階があってこそ、子供達の成長が保証されるのだが、当時のやり方がまだ残る社会では、勝手な連中が放置されている。と言うより、そちらの方が優遇されているのかもしれない。やはり、間違いは間違いと言える環境が必要で、その中で育ってこそ、まともな考えが芽生えるのだ。

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9月16日(水)−憂いなし

 杞憂という訳ではないだろうが、取り越し苦労の一つであったことは確かだろう。行方知れずになった人を、皆が心配して探し回る。今始まったことではないが、何かあってはいけないとの心配が、その主体となっている。だが、社会状況の変化に対し、様々なことが追いつかなくなっている中で、新たな心配が浮かんでくる。
 誰もが新たな道具を身につけ、移動中も確認が取れるようになると、その範囲から逸脱した人々は、まるで居ないかのような扱いを受ける。平時であれば、居ても居なくても、何の問題も起こらず、暫く時間が経過すれば、その姿を確認することもできる。だが、非常事態に陥ると、状況は一変する。皆が持つ筈の手段で、生存確認を取ることは、当然のこととして行われるが、未だに、そんな道具に触れたこともない人は、実は沢山居るに違いない。そういう人々を、平時に排除してきたからか、こんな事態でも同じように枠から外される。結果的に、行方の確認が取れず、本当に生存が確認できない人と、同等に扱われてしまう訳だ。便利な時代の不便に、多くの人が振り回されるのを眺めると、道具の使いようを知らぬ人々の、あまりの多さに呆れてしまう。だが、何から何までこんな具合なのである。非常事態だけでなく、平時でも、同じようなことが起きている。不正を減らす為との主張は、間違ってはいないと思うが、不正の温床となるものに目を向ける代わりに、様々な対策を講じた結果、真面目で正直な人々に、過度な負担を強いることになるのには、強い抵抗を覚える。真面目な奴が損をする、そんな世の中が平穏である筈はない。確かに、未然に防ぐことで、自分たちの生活を守ることができるが、その為に、膨大な無駄も仕方ないと目を瞑るのは、何かが間違っているように映る。

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9月15日(火)−要求

 傾向と対策の問題点について、これまでに何度も取り上げてきた。対象となる範囲が狭められ、一つ一つに関しては、確かなものになっているように見えて、実は、他への応用性がなく、役に立たぬ場合が多過ぎるなど、その手法を信じて努力を重ねる人々にとって、目標を失わせるようなものだ。
 だが、現実に、そんな場面に遭遇し、失敗を繰り返すと、個々の対応ではなく、そこから見出せるより大きな傾向を、抽出することにこそ、意味があることに気付かされる。これは、単純なことから複雑なことを導き出せば良いだけとも思えるが、実際には、それほど簡単なことではない。表に現れたものだけでなく、裏に潜んでいるものや、何かに隠されたものまで、つまり、見えないものにまで目を向け、それらを見える形にしなければならないのだ。では、何をすれば、こんな不可能にも思えることが、可能になるのだろうか。一対一対応を主体とする傾向と対策に縛られるのではなく、そこから多くの可能性を引き出すことで、分析力を高める必要がある。書くのは簡単だが、実行は難しく、確実な手法はないようだ。こんなことを思うのは、始めに書いたように、応用力の欠如が問題となっているからだが、それとは別に、ある状況において、何が求められているかの判断が、巧くできない人が増えているからでもある。自己主張は、確かにある程度の範囲で行われるが、その中身が、相手の要求に見合わないものであることが多く、ただ漫然と続けているだけに終わる。相手の立場から見れば、何が必要なのかは一目瞭然であるにも拘らず、それに目を向けることなく、自分自身の見地からしか、進められない。これもまた、一種の応用力の欠如であり、何らかの形でそれを補う手段を手に入れる必要がある。ところが、それができずに、立ち往生を続けることになる。機会を得られず、様々に苦しむ人々の多くは、実は、こんな原因を抱えているのではないだろうか。

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9月14日(月)−観光

 新幹線が開通したことで、人の流れが違った地域は、これまでにも数多くあった。今回もその一つに過ぎないのだろうが、それにしても、皆の口の端に上るところを見ると、かなりの話題となっているようだ。元々、観光を目玉として動いていた地方都市にとって、今回の誘致は渡りに船といったところなのだ。
 どんな騒ぎになっているかは、画面や紙面で眺めるだけでは、本当のところはわからない。そこに来てこそ、分かる部分もあるというものだ。だが、騒ぎが広がるばかりで、何やら統制がとれていないように見えるのは、何故だろう。いつものように、何も考えない人々が蠢いているからには違いないが、それにしても、あまりいただけない状況に思える。様々な再開発が進むとなれば、土木や不動産の関係が潤うのは当然だが、それが中身を伴うかどうかは別である。都の地方版の代表格として、これまでの地位を築いてきた街だけに、ここで道を誤っては、歴史は台無しとなる。さて、どんな方に向かうのか、暫く様子を伺うしかないのだが、折角築いてきた誇りだけは、失うことのないようにして貰いたい。自慢げに語る人々の顔には、あまりいい印象を抱かないのは事実だが、それを糧に生き抜いてきた伝統なのだろうから、それ自体を失ってしまっては、元も子も無くなってしまう。注意を要する部分に関しては、この地方都市に限ったことではなく、他の場所の存亡も、同じような要素に影響されるものだ。その一例として、多くの小さな街が、見守っているに違いないだろう。活かすべきを活かし、無駄を省いて、集中を繰り返す。ただそれだけのことだが、伝統を守るのも大変な仕事である。どうなることか。

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