古い町並みで、朝夕の決まった時間に、狭い道に止められた車に、行き来する車が避けて通り、事故や渋滞が起きそうな気配となる。一時的な駐車とはいえ、人の乗り降りにかかる時間は、思ったよりも長く、先を急ぐ人々は、待つよりも抜かすことを選ぶからだ。更に、車椅子の積み下ろしとなると、時間がかかる。
新興住宅地では見られないが、古い町並みが続く場所でよく見られるのは、何だろうか。様々に意見が出るだろうが、一つ確実なのは高齢者の姿だろう。朝夕の散歩に出る人は、まだまだ元気を保っているが、多くはそんな面倒を避け、一部は寝たきりに近い状態で、一人で外に出ることなど、できる筈もない。だが、社会福祉の整備のおかげだろう。そんな人々をも、外に引き出す仕組みが整備され、施設の車が送迎してくれることで、家族の負担も殆どなくなった。これが始めに書いた光景の原因となる。空き家が目立ち始めた古い町では、高齢者の住む家々が並んでいる。時には、若い世代と同居するところもあろうが、多くは、年寄りが二人きりで住むところだろう。そこから、朝のうちに迎えが来て、半日施設で過ごし、夕方戻ってくることになる。介護の一環として進められる仕組みに、家族からは歓迎の声が届くから、定着した地域では、これからもこんな光景が眺められるだろう。座って賭け事をする施設に、年寄りを送る家族もあるようだが、それと比べれば、はるかに健全なものに違いない。しかし、近所付き合いのなくなった地域に、次に何が起きるかを考えると、これでいいとも思えない気がする。
小さな頃から、嘘を吐いてはいけない、人を騙してはいけない、と言われ続けてきた人が多いと思う。悪いことをしないようにとの、大人達の戒めだろうが、逆の見方をすれば、それだけ、嘘吐きや詐欺師が、世に溢れている証左だろう。だが、大人になると、別の考えが芽生え始める。騙されてはいけない、と。
悪いことをさせないように、という考えから、子供達への教えが始まる。素直なうちに、という意図なのだろうが、嘘を吐くという点からすると、子供ほど、その傾向は高いのではないか。すぐに発覚するような嘘を、平気な顔で発する子供もいれば、落ち着かない表情になる子もいる。何れにしても、そういう段階に、大人達から諭されるのは、嘘はいけない、ということだ。功を奏した結果、正直な大人になるのならいいが、事はそれほど簡単ではないらしい。何度も繰り返されることで、効果のほどは確かではないが、それ以外の方法は見当たらない。そんな社会の中で、騙す話は続出する。こうなれば、騙されないように備えるしか方法はなく、子供騙しのようなことだけでは、十分とは言えないだろう。ただ、人を欺く行為には、その主体がどんな立場にあるかによって、社会的な制裁が変えられることに、疑問を抱くことが少ないように思う。組織的な行為に対して、厳しい措置をとるべきと考える人々が、個人の行為に関しては、情状酌量という考えを適用する。組織は認識した上で行うのに対し、個人にはやむを得ぬ理由があるとの見方からだ。だが、これほど的外れな考えはないだろう。個人の欲が集まることで、集団での欲が形成されるとすれば、その大きさに違いはあっても、質の違いなどはある筈もなく、事情などという見方は、軽々に当てはめるべきではない。大企業の不正と難民を騙った個人の不正、どちらも騙そうとしたことに、変わりはないのだから。
人の心を捕える言葉、様々な使い道があるものとして、手に入れようと躍起になる人達がいる。確かに、それを商売の糧とする人にとって、どんな形でも、手に入れてしまえばこちらのもの、となる。だが、誰もが追い求める言葉が、そんなに簡単に手に入る筈もなく、皆、血眼で探すけれど、見つかることは殆どないようだ。
切り札のように扱われるものが、これほどに身近な存在となると、挙って追いかける訳だが、どうにも不思議な表現の陳列となる。興味を引く言葉は、それまでに聞いたことのないものでなければならないが、そんなものが簡単に作れる訳がない。だから、考えの浅い人ほど、その辺に落ちている言葉を拾い集め、それでよしとするようだ。確かに、志は高かったのかもしれない。しかし、現実はそれほどに甘くはなく、自身の実力の無さも加わって、安易な言葉遊びが並んでくる。意図は明確だが、内容が伴わないから、聞くに堪えないものが並び、逆効果が高まるだけになる。したり顔の大人達であれば、問い掛けに答える術もあろうが、無知な子供達は、何処かで拾った言葉を並べるだけで、その意味さえ理解していないから、答えが引き出されることはない。小生意気な存在と言われれば、まだましであり、無知を曝け出すだけに終わっては、掴んだ心には、悪い印象しか残らず、まさに逆効果となる。ただ、最近の悪い風潮は、そんな愚かな発言さえ、褒める対象にせよとの縛りがかけられ、悪行を正す機会は失われている。世の中全体で、悪化の一途を辿っているのだから、若い世代もその道を進むしかないのか。こうなると、各人が、自分の中に持ち合わせている信条に、期待するしかないようだ。
不正を働く時の心理は、どんなものなのだろうか。罪の意識を持ちつつ、決断をした結果なのか、それとも、そんな意識は全くなく、ただ単に、組織の為と考えるのだろうか。経理操作をすることで、収益を上げていたとか、制御機構を操作して、検査を逃れていたとか、大企業が犯した過ちは、影響の範囲も大きい。
犯した罪の大きさを、強調する姿勢を批判するつもりはない。だが、そこに目を向けるばかりで、その温床となった事柄について、考えようともしないことには、もっと厳しい意見があってもいいのではないか。収益が上がらぬ中で、厚化粧を施そうと進められた操作は、一時のものと思われたのかもしれない。しかし、上がらない理由に当たらぬばかりか、そこから目を逸らしてしまった組織には、不正を正す空気など、無かったに違いない。まずは原因を突き止め、その改善に努めるのが、誰もが行なう手法だが、それを投げ出した所から、腐敗は徐々に広がり始める。同じことが、巨大な自動車会社にも起きたようだ。不正を働くことで、収益を上げようとしたとの見方が、おそらく大勢を占めているのだろうが、問題は、そこにあるのだろうか。規制値に到達しないと、売ることさえできないという状況で、重要なことは、収益ではないだろう。様々な汚染が、人間の生活に影響を及ぼす中で、車を汚染源とするものは、かなり大きな割合を占める。だからこそ、規制をする必要がある訳だが、そこに達成の可能性を吟味する見方は殆ど存在しない。その為に、こんな事態に陥ったのだということではないが、きっかけを与えたのかもしれない。国ごとに異なる規制で、最高水準のものへの対応をすればいい、という考え方は間違ってはいないが、収益を考えると、違う考えが頭を過る。これが違う方向に働けば、温床は出来上がりそうな気配だ。
市場原理という言葉が、一時期、絶対的存在のように扱われ、そこから逸脱することは、市場から追い出されることを意味していた。特に、この言葉を好んで使い、学者としてではなく、政治に携わる人間として、頂点を極めた人物は、自らの言葉の浅はかさに気付かぬままに、得々と持論を展開していた、道化師宛らに。
それにしても、何事も市場が決めるという論法は、如何にも、論理的に映っていたようだが、一方的な導出の仕組みには、破綻を予期させるものがあった。需要と供給の均衡と言われる一方で、需要だけが何事も決めるという論理には、客が神様だと呼んだ人々の考えが、反映されていると言われた。だが、実際には、能無しの客の相手に、無駄な時間を費やさされる人々の悲劇を招くのみで、互いの均衡を図ることのない市場には、一時の成長は期待できても、長い期間に渡る繁栄を、約束できるほどの力量は備わっていない。そんな中で、身勝手な論理を展開する人々が、舞台を降りたとしても、一度勢いがついた愚者達は、自らの将来を考えることなく、ただ一時の欲望を満たす為に、均衡を破る行為にも、何の疑いも抱かずに耽り続ける。品質を保つ為の努力は、蔑ろにされ、価格を下げることだけが、肝心とばかりに、安売り合戦が盛んとなる。その勢いも、そろそろ翳りを見せ始めて、品質に目が向けられるようになってきたが、まだまだ、歪んだ社会を矯めるには程遠い。対価という言葉は、依然として忘れられ、施しを追い求める風潮は、強いままだ。公のことでも、それが施されるには、原資が必要となり、それは誰かが納めたものである。この均衡にさえ気付かぬ愚集は、納めるのを嫌い、施されるのを好むだけで、そこには均衡など感じられる筈もない。そろそろ、愚か者を追い出して、賢者の智慧で均衡を図る時ではないか。
安全安心が当然と受け取られることに、何の違和感も抱かぬ人々が暮らす国では、様々な軋轢が生じている。要求する人々にとっては、当然としか思えぬことが、それを突きつけられる側からは、無理難題としか受け取れない。この矛盾に気付く人は少なく、どちらかに与することで、問題解決への道程は霞んだままとなる。
人間は、安全を好み、安心に浸りたいと願う。だからと言って、安全安心が保障されるわけではなく、様々な障害が目の前に立ちはだかる。それらの壁に向かった時、人々は、誰かがそれを取り除いてくれるものと考える。平和な時代に繁栄を続けてきた国においては、当然の考え方と受け止められたものだが、世界を見渡してみると、そんなことを権利の如く考えられる場所は、殆ど無いことに気付かされる。だが、外に向けていた視線を、内側に戻した途端に、また、元の考えが当然と思えるようで、安全安心を声高に訴える輪の中に、何の躊躇いもなく入っていく。冷静に考えれば、身勝手な行動であり、不思議な心情としか思えないが、渦中の人々は、当然を当然としか見ないから、何の疑いも抱かないようだ。こんなことの繰り返しは、物事の重さを比べることを忘れさせ、絶対的な存在を追い求めさせる。その結果、手に入れられないものまで、手に入れようと躍起になった人達は、過度な要求さえも、当然と考えるようになる。そのまま行くと、歪みが蓄積した社会は、崩壊の時を迎えるしかない。こんなことを書けば、縁起でもないと言われるのだが、国と国の戦いは、そんなことを端緒として始まることがあるのだ。事故を防ぐ為の方策を講じることに、何の誤りもないと考える人が多いが、それに費やす労力との比較を忘れては、とんでもないことが起きる。だが、今の時代は、その道を突き進んでいるように見える。
人々の要求は止まる所を知らないかの如く、次々と繰り出され、その量も質も増すばかりとなっている。それが当然かのように振る舞う人々は、一方的な要求を突きつけることに夢中で、自分に返ってくるかもしれないことに、目を向けることさえない。こんな不均衡が起き始めたのは、長く続いた成長が途絶えた頃だろうか。
当時を知る人々は、苦もなく手に入る権利に、幸福の絶頂といった感覚を抱いていて、その挙げ句の果てが、悲惨な時代の始まりへと移ったことを思い出す。だが、これさえも、一部に限られていたことだろう。その範囲から漏れた人々にとって、権利はあくまでも遠くのものであり、悲惨さは、その前から実感していたものだ。だから、欲しがるよりも、現状を受け入れ、その中で幸福を追い求めることが、より良い生き方と見做されていた。とすれば、今、過剰な要求を訴える人々は、どんな連中なのだろう。おそらく、当時、降ってくる権利を受け止め、恰も、それが自らの力によるものと、信じ込んでいた人達が、その権利を奪われ、突然、奈落の底へと落とされたと考え、それを取り戻そうと躍起になった結果なのだろう。しかし、元々、泡のようなものであり、中身のないものだけに、求めても手に入れられる筈もない。そこで諦めてくれれば、混乱も起きずに済んだろうが、現状は、混乱の極みとも見做せる程ではないか。手に入れる為の努力は、ある人々には当然と思えるが、逆の立場の人にとっては、不要なものと映る。こんな状況がいつまで続くのか、破綻を来すまではずっと、というのは、あの泡が弾け飛んだ時代から学んだことだろう。学んでも、何も変わらないのは、明白なことのようだ。