パンチの独り言

(9月28日〜10月4日)
(清め、創出、御門違い、上塗り、時期外れ、翳り、貧者)



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10月4日(日)−貧者

 権利と言えば聞こえがいいが、何の権利と言うのか、と思える事が増えてきた。社会全体に、そういう風潮が強まっているけれども、中でも、特に極端に思えるのは、教育現場で起きていることだろう。教え育む場では、それに応える為の努力が必要となる。自らの努力を棚に上げて、分からせろという主張は、何様のつもりか。
 言うまでもなく、この国の初等教育には、義務という括りがかけられている。ただ、この義務は、本来、親達の義務であり、今とは違う理由で、学校に通わせようとしない親に、課されたものなのだ。だが、最近の傾向では、その恩恵に浴している筈の子供達に、義務を課そうとする考えがある。折角与えられた権利に、何の動きも伴わず、自らの努力を忘れて、他人への責任転嫁を繰り返す。こんな子供達に、国の将来が任せられる筈もなく、国民としての責任を果たさぬ輩に、厳しい批判を浴びせるべきだ。そんな雰囲気の中で、更なる権利を主張し、時間や手間の無駄にしかならないものを要求する人々は、増え続けている。権利という言葉で括られるものだが、始めに書いたように、何の権利かと疑問を抱くのも、施しを求める人々の、身勝手な論理が目立つからだ。公には使えなくなった言葉は、色々とあるけれど、その中の「乞食」という存在は、人から施しを受ける人々を表し、様々な事情があるにせよ、その呼び名をつけられぬように、と親から言われた時代もあった。その言葉が使えなくなったのは、ずっと昔のことだが、皆の記憶が薄れてくるに従い、そんな存在とは違う、施しを求める人々が目立ち始めた。今では、ごく当たり前の存在となり、当然の権利を主張するだけと見做す考えもあるが、間違っていると思う。教育が義務となった時、反対した人々は、それによって失われる労力に、目が向いていた。しかし、子供を持つ権利のように見做されたものは、義務を果たしてこそのものであり、均衡が必要となった。今は事情が違うが、権利にも対価となるものがあり、それを考えない人々は、施しを求める「乞食」のようなものと思える。貧しい心には、豊かな人格など、備わる筈がない。

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10月3日(土)−翳り

 悲観的な話を好んで取り上げる。それだけならまだしも、的はずれな指摘を繰り返し、悲観さを膨らませるなど、彼らの筋書きには、好悪に満ちた姿勢が現れ、持論に都合のいい歪曲を、平気で繰り返すものだ。自衛の為には、悲観的な考え方は、確かに役立つものなのだが、彼らは、その結末への責任を感じることがない。
 悲観的な筋書きを作り上げ、視聴者や読者をそれに巻き込むが、その後の成り行きがどうなろうとも、結論が出る頃には、その場に居ない訳だ。騙されたと気づいた人々が、首謀者を見つけようと探し出す頃には、煽り立てていた人々は、何処かに逃げ去っている。もっと酷い場合には、素知らぬ顔で、別の批判をし始めて、前言などすっかり忘れた素振りとなる。言いたい放題どころか、その責任も取らないとなれば、そこから何も生まれないだけでなく、害悪を撒き散らすだけとなる。こんな人々が、論壇なる場を占拠し、自らの権利主張に、躍起となる。発言への責任は、その場では、あるかの如くに振舞うが、その後の展開が劣勢となると、一転、全ての発言を無かったこととする。いくら、ヒトという生物が、忘れることで生存してきたとはいえ、朝令暮改の最たるものでは、信頼など得られる筈もない。だが、それにも拘らず、論壇に居座るのだから、厚顔無恥ぶりは、かなりのものだろう。この国に翳りが見えるとの意見も、あの成長の時代には、一言も発しなかったのに、下り坂に入ってから、専ら使われるようになったものだが、今では、好ましい表現として、多用するようになっている。発展途上国とて、先進国並みの整備を望み、その導入に、国を挙げて取り組むのは、権利の一種かもしれないが、如何せん、先立つものがない。その矛盾は、通常は諦めへと繋がるが、権利ばかりに目が向く時代には、彼らとて、諦める気は毛頭ない。そこで登場するのが、施しの要求であり、その現れとなったのが、高速鉄道の競争入札だろう。収益に繋がらない事業に、何の魅力があるのか、全く解らないが、例の人々は、この結果に翳りを当てはめる。愚かとしか表現できない。

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10月2日(金)−時期外れ

 十年以上も続けていると、話題の選び方にも変化が起きる。年寄りでなくても、同じ話を繰り返すことが多くなり、書く方も、前に書いたような気がしてくるものだ。そんな影響からか、徐々に、時事的な話題を取り上げるようになる。更に、直接的な表現を使えば、検索にもかかるのだが、それは依然として避けている。
 話題になる最中に論じれば、巷に流される馬鹿げた見方を批判し、違う見方を紹介することもできる。煽動や誘導など、情報操作に精をあげる人々は、様々な手練手管を弄して、人々の洗脳を目指している。考えることに慣れない人々は、疑うことを忘れ、鵜呑みを繰り返すが、皆でやれば怖くないかのような、様子しか見られず、騙されているなどとは思わないようだ。この手の人々は、ある意味、幸せなのであり、波風立てられることを、嫌っているのだろう。だからこそ、正論を掲げる人々は、活躍の場を失い、甘い話を魅力的に掲げる人々の、活躍の機会が増える。迎合を基本とする話の内容は、基本的に無いに等しく、繰り返される過ちに、厳しく対処すべきと思うが、気分の良さを優先すれば、この状況はやむを得ないのかもしれない。だが、形の悪い煉瓦を積み上げれば、何時かは崩れ始めるのと同じで、こんな曲論を展開すれば、正しい判断などできる筈も無い。一方、時事的な話題では、その内容を客観的に捉えたとしても、別の機会に使えるような論理を使えるとは限らない。その場限りの話では、忘れやすい大衆にとって、意味のある内容を残すことは難しいのだ。先日読んだ本も、四半世紀ほど前の話題に基づき、持論を展開していたが、如何せん、何の話か思い出せない。常識という題をつけるのなら、何時でも通用する内容にして欲しいが、この世に居ない人に、注文を出す訳にもいかない。時宜に適う話を使う悪い点を見た気がした。

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10月1日(木)−上塗り

 懲りない人々の愚かさを、見る思いがした。人間が持つ知恵は、本来、自らの愚かさを自覚し、それを少しでも改めようと、努めるところにあると言われる。だが、最近の人の皮を被った生き物は、信じる所に縋り、過ちを認めることなく、他への批判に精を出す。自己満足は、成長を妨げ、崩壊を招くだけのことだ。
 事故から何年も経過することで、様々な状況を、客観的に捉える姿勢も出来てきた。その中で、様々に編集された番組が流され、当時の思いも含めて、考えさせられることが多くなる。先日流されていたものは、原発近くの町で英語を教えていた外国人が、震災と事故の最中、どのような状況に追い込まれたかと、その後の混乱に、どう巻き込まれていったかを、記憶を辿る形で映していた。言葉が通じぬもどかしさは、異国で暮らした経験があれば、すぐに理解できる。しかし、視聴者の多くは、そんな経験はなく、ただ可哀相という同情の念が起きただけだろう。また、当時の政府への反発や原発反対を掲げる人々にとって、迷走を繰り返したかのような番組構成は、我が意を得たりとの思いを抱かせたようだ。自分が信じる所と似た部分には、強い共感を覚え、自らの正しさを再認識する。だが、内容は、そんな都合の良いことばかりでなく、不都合なことも並んでいた。直後に正気を失い、主人公たちの助けを借りて、帰国した外国人は、SNSで流される流言飛語に振り回され、正しい判断ができなかったことを、恥じることなく語っていた。当時、国外の情報こそが、正しいものとの意見があったが、これを見れば、何方も玉石混淆であったことが解る。専門知識がないから、理解できないと思った彼らも、情報不足と内容への不信から、自らの判断を信じるようになる。基準を持たぬままの判断に、どれほどの価値があるかは判らぬが、それしか選択肢がないとなれば、不確かなものを、確かなもののように扱うのだ。その姿勢を賞賛する人々には、結局、肝心なことなど見える筈もない。こんな連中を相手にする必要は、無い。

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9月30日(水)−御門違い

 愈々導入である。非人間的な扱いのように受け取り、その意味を考えようともしなかった愚民たちも、遂に諦めたのだろうか。半世紀ほど前に導入が検討され始めた制度に、反対意見が押し寄せ、これまでに何度も頓挫してきた。だからこそ、遂に、との表現が似合うように思える。だが、議論はこれからなのかも。
 人間性が失われるとは、よくもまあそこまで捻じ曲げられるものだと、当時も批判の声があった。だが、社会の中で力を持つ人々により、舞台裏で潰され続けてきたのが、本当のことと言われることも多い。実力者の多くは、その力を蓄財の結果として得てきたと言われる。正当なやり方では、実現できなかったことを、様々な裏技で達成してきた人々にとって、それが成り立たなくなる制度の導入は、何としてでも阻止せねばならないことだったのだろう。その為に、無知蒙昧な人々を煽動し、人間の尊厳を無視するものかのように、思い込ませることで、世論を操作していた。同じ論調が、何度も繰り返されることで、一部の人々は、徐々に疑いを膨らませてきたが、それでも、愚かさが多数の特徴であることに変わりはなく、理由を人間性の喪失から、私生活の侵害へと移しながら、反対の旗印を掲げ続けていた。しかし、情報社会の発達は、井の中の蛙にとって、良いことも悪いことも増やしたようで、諸外国が既にその仕組みを採り入れ、個人の権利が保障されていることも、事実として捉えられると、自らの無知を恥じる人も増えてきた。更に、裏での操作までもが、同じ情報経路で指摘されるに至って、騙されたとの反応も広がっている。だが、それでも、マスゴミたちは、依然として、弱者保護に名を借りた、非論理的な論調を続ける。副業に精を出す人々が、被害を受けるとの指摘は、国民の義務たる納税制度を、蔑ろにするだけであり、怪しい仕事をしているのが、職場にバレるとの指摘も、実は、的外れであることにさえ気付かぬ始末だ。相変わらずの無能ぶり、なのだ。

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9月29日(火)−創出

 欲望の表れに過ぎないとの見方もあるが、それが人を騙したり、不当な利益を得ることに繋がると、人々は、それを暴くことを第一と見るようだ。悪質なものであれば、罰するのが当然と見るし、それを未然に防ぐ手立てを講じようとする。一見、正しい道を歩む為と思えるが、本当に、そうなのだろうか。
 何次の産業なのかは不明だが、こういう場面で生まれる産業がある。検査を強化する為に必要となる人材を、確保する仕事や、その育成を図る仕事は、それに属するものと思えるが、影も形もないところから、突然発生することで、驚かされる。だが、関係者たちは真剣で、その必要性を強く訴える。ただ、無かったものが、突然必要となる理由には、何とも言えないこじつけが溢れている。規制とか、基準とかいった言葉も、当然のこととして扱われるが、それまで無かったものが突然出現した理由については、説明が加えられることは殆ど無い。それが何故に、と疑問を抱くより、迫り来る危機への備えとしての扱いに、目を向けさせようとする訳だ。だが、この手の話には、いつも、怪しげな雰囲気が漂う。問題を発生させた場所と、問題を解決させようとする場所が、ごく近くにあることや、問題を発覚させた場所が、近くにある場合が多いからだろう。まるで、消防士が火付けを働くような印象を覚えることも少なくなく、仕事を作り出すという雰囲気が漂うことさえある。となれば、その必要性を論じねばならず、創作された危機に目を奪われてはいけない。しかし、愚集は目の前の問題に目を奪われ、騒ぎ立ててしまう。結果として、創出された新産業に、なけなしの金を注ぎ込むことになる。伝統工芸をはじめとした、長く続いてきた仕事を投げ出し、無用としか言いようのない怪しげな仕事を始める。そんなことの繰り返しに、何の疑問も抱かないのか。

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9月28日(月)−清め

 不正が発覚する度に、その被害の範囲の広がりに、目を向けようとする動きが強まる。確かに、検証は大切なことの一つだが、被害の度合いを調べたとしても、不正を防ぐことはできない。時に、被害者救済の為との目的が、強調されることもあるが、これも大切なことの一つと思えても、根本解決には繋がらないのだ。
 では、不正を防ぐ為の手立てには、何があるのだろうか。検査を逃れる為とか、経費削減の為とか、その思惑には、様々なものがある。それに対して、より厳しい審査を実施するとか、不正を暴く為に、人と手間をかけるとか、そんな議論が始められるが、如何なものか、と思う。これらの殆どが、経費を増す方向に働く訳で、不正を防ぐことに目を奪われるだけで、その負担は誰がすべきか、という議論は無いままの場合が多い。不正を許さぬ姿勢が重要なことは当然だが、その為に、限りある予算を無視しても良い訳ではない。一見、正しい道を歩んでいるように思えて、実は、悪い方に向かうことになるのは、こんなきっかけによるものではないか。正義を貫くとは、よく使われる言い回しだが、経済観念が、社会全体に強まる中では、金のかかる正義は、早晩、嫌われる存在となり、別の問題を生じることとなる。肝心なこととして、人々の心の中にあるものの、こういう時に触れられることのない事柄に、倫理とか道徳とか呼ばれる、心の道筋というものがある。今更、と指摘する声もあるが、今すぐにでも、考えておかないと、自制の仕組みは働かなくなる。遅すぎたと反省する前に、考えておくべきことだろう。外からの力に頼るばかりで、信頼という内の力を蓄えなければ、自己崩壊への道を進むしかなくなるのだ。

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