民主主義とか平等とか、本来の意味とは違う意味に使われる言葉は、数多ある。これらの言葉においては、その上に、弱者保護の観点が加わり、歪曲の程度が強められている。確かに、独裁者や強大な力を持つ人々の存在は、格差を実感させ、弱い立場に居る感覚を抱かせる。その中に、一条の光が射すように見えるのだ。
弱い立場にある人々にも、人間として、同じ権利があるとの考えに、反論することは難しい。理論としての間違いがある訳ではないからだ。だが、その要求が過度に高まってくると、社会の一部から、権利の主張に対して、義務の問題を突きつける風潮が高まる。弱くなった原因についても、自業自得という考えを突きつけ、努力不足を指摘する。これが更なる混乱を招くが、権利を手に入れ始めた人々は、その恩恵を浴し続けたいと願う。社会の均衡が崩れ始めてから、この状況が更に極まっているように思えるが、矯める手立ては見出せそうにもない。こうなると、民主主義も、全ての人々の意見を反映させるのではなく、一部の人の提案を、多数の人に認めさせる仕組みが必要となる。それが統率力となる訳だが、前にも書いたように、それを担うべき人材の枯渇が、深刻な問題となっている。多勢に無勢の中で、提案を貫くことは、確かに難しいだろうが、それを可能にする為には、大衆を説得する力であり、提案を実現する力が必要である。実は、大したことではないが、近年の傾向では、反対を基本姿勢とし、要求を当然と考える人々の存在が、大きな妨げとなっている、と言われる。だが、本当にそうなのか。多くの組織で、統率力の欠如が問題となった時、実は、一人の指導者だけでなく、その周囲の中枢を担うべき人々の決断力の欠如が、最大の問題に思えてきた。例として適切ではないが、大学が法人となり、経営が肝心となった時、教授会の存在を問題視する意見が出てきた。決定権の主体を、教授会から役員会に移す必要性を論じたものだが、この議論の無意味さに気づく人が余りに少ない。既に、必然として、決定権は移されていることに。
統率力の欠如が問題視されている。組織を動かす上で、その力は不可欠なものだが、その不足が取り沙汰されているのだ。ただ力不足なだけなら、頭の挿げ替えという方法もあるだろうが、統率と思い込んで、違法行為や犯罪とも見做せる行動に出るに至っては、組織の腐敗が極まり、修復不能に陥ることさえある。
これではいけないとばかりに、教育現場で、統率力を身に付けさせようとする動きが、起こったこともあるが、付け焼き刃の手法では、的を外すばかりとなっただけでなく、平等の考えでは、その力の持ち主を排除するだけとなることにさえ、気付いていなかった。人間の才能には差が無いとする一部の考えは、人々の鍛錬の場で、始めは功を奏するものの、ある時点を境に、停滞や崩壊といった事象が起き始め、全般に渡って通用する訳ではないことを明らかにする。こんなことを、何度も経験した筈の人々は、懲りない姿勢も手伝って、持論に固執し、相も変わらぬことを繰り返す。統率力を備える人物は、組織にほんの少数いればよく、多すぎる船頭は、船の行方を定められない。混乱していた頃は、こんなことも起きていたが、安定する時代は、逆の問題が表面化している。現状維持を基本とし、安定を目指す体制の中では、組織を牽引する力は、さほど必要とならない。皆が進むべき方向を理解し、そのまま前進すればいいだけなら、先頭を行く人間は要らないのだ。そんな時代が長く続いたことで、新たな弊害が表に出てきた。安定は永遠のものではなく、現状維持にも変化が必要となれば、それに向かって牽引する人間の存在は、当然必要となる。停滞や衰退が起きたからではなく、安定期間にも必要だったものを、失っても問題視しなかったことが、現在の混乱を招いたのだろう。あらゆる組織で、統率力の欠如が問題とされ、それを備える人材の発掘が、急務とされている。しかし、発掘の方法もわからぬままでは、それが容易でないことは明らかである。
私利私欲に走り、その為なら、どんなことでもする。そんな人々を目の当たりにすると、多くの人は、卑しい心に気付くものだ。しかし、欲に走る人々の言動に、振り回される人が減らないのは何故か。卑しいとかさもしいとか、そんな心を蔑む一方で、欲望を掻き立てられる話に、自分自身が乗ってしまうからだ。
冷静に考えれば、あり得ないと思える話も、ごく小さな確率で起きることを示されると、乗ってしまう場合がある。それより大きなものは、経済停滞が続く中で、少しでも大きな儲けを追い求める人は、冷静さを失うことで、虎の子さえも失ってしまう。結局は、軽蔑していた筈の私利私欲を、自分が追い求めていたことに気づかぬ訳だ。その論理には、将来への不安という常套句が使われるが、これほどに、身勝手な感覚もないと思う。人間は、所詮、自分中心にしか考えられず、他人の考えも、相手の気持ちを汲んで理解することはなく、単純に、自分の話として理解しようとする。これが、卑しい人間のやることとなると、とんでもない解釈の羅列となるから、困ったものである。普段から、目論見や思惑に満ち溢れた言動を続ける人ほど、他人もそうに違いないとの誤解に固執し、どんな正論をも、何らかの目的を伴う筈との見方に縛られる。自分の中だけにしまっておけば、こんな考えも害を及ぼさないものだが、卑しさは別の面でも発揮され、歪曲した解釈を、さも発言者の真意の如くに喧伝する。こんな輩が、様々な組織に蠢き、混乱を引き起こす。排除すれば済むとの意見もあるが、その存在を利益と考える人もいて、どうにもならない状況に陥っている。目論見は、似たものを持てば、仲間同士、互いの利益を手に入れられる。卑しさは、そんな仲間を手に入れられる、特別な才能かもしれない。
攻撃は最大の防御と言われる。戦略の一つとして紹介されるが、一部の人々は、まるで先の大戦のように、何の勝算もなく、攻撃に出てくる。心の中が見えるのは、彼らの多くが、自信の無さの表れとして、こういう行動に出るからだ。弱い犬ほどよく吠える、とはよく言われたことだが、畜生だけでなく、人間にも当てはまる。
正論を貫く立場から見れば、自分の都合でどうにでも変わる論理を、平気の平左で展開する人々は、実は、拠り所を持たず、何かに依存して生きているのだと思える。そういう中で、弱い立場に追い込まれれば、窮鼠猫を噛むではないが、玉砕確実の攻撃へと転じる。興味深いのは、彼らの多くが、追い込まれたと考える窮地は、殆どが自ら招いたものであり、その結果を責任転嫁しているだけのことにある。運命と言われるものは、自分の力でどうにもならぬと受け取られるが、そこまでの経過を検証してみると、その多くは、自分自身で招いた結果に過ぎない。それを、他人のせいにし、運命などと称する人に、権利を主張する権利はないと思う。こういう人々が、社会に巣食う時代に、彼らが蔓延させる害悪は、無視できないほどになりつつあり、倫理や道徳が、改めて取り上げられるようになったのも、そういう人間が、碌でもないことをし続けているという背景があるからだ。本来なら、害悪を排除するためと称し、件の人物を排除することが、行われるべきことだが、そんな輩を利用し、私利私欲に走る人々は、陰に隠れて、悪事を働き続ける。しかし、表舞台に現れていない悪人は、たとえ、表の人間が罰せられ、排除されたとしても、居なくなることはない。となれば、真相を暴く以外には、蜥蜴の尻尾を切ったとしても、何の解決にもならないこととなる。巨悪と呼ばれた人々も、その多くは、舞台裏で活躍していた。それほどの大きさでないにしても、こんな連中を放置することに、良いことなど何もない。
他人と違う見方をする。特に、感情的になるわけではなく、冷静な判断を下した結果として、異なる見解を書き記している。ここを読んだ人からは、そんな印象を持たれているのではないか。実際には、感情の動物であることには変わりがなく、一時的に、それを抑えることで、様々な方向から眺めているだけなのだ。
所詮そんなもの、という分析は、謙遜でも何でもない。現実に、自らの行動を顧みれば、そういう動きが見えてくるのだ。一時の興奮状態から、少し落ち着きを取り戻した頃に、そんなことを考えてみる。反省頻りとなることも多いが、こういった経験を積み重ねることで、冷静な判断を徐々に身に付けていく訳だ。誰もが経験することだと思うが、抑えきれぬ感情に、力を伸ばすことができない人が多い。そこに違いが現れているのではないか。こんなことを書いているのも、少し腹立たしいことがあり、寝付きが悪いことがあったからだ。身勝手な言動を繰り返す人間の多くは、自らの間違いや愚かさに気づくことが少ない。というより、自信がないのを隠し通そうとばかり、虚勢を張ることが多いのではないか。それが、他人からは、勝手な言動と映り、引っ込みがつかなくなった人は、更に、無理難題を押し通そうとする。全体から見れば、無駄の一言で片付けられることも、彼らの攻撃対象となった人間にとっては、心穏やかには居られぬ事態となる。そんなことが起き、普段の冷静な発言からは、想像もつかないほどに揺さぶられた結果、いつも通りに目を閉じても、眠りに落ちることのない時間が続いた。こんな時は無理をせず、酒の力を頼って、少し興奮した神経を宥める必要がある。功を奏したからか、いつの間にか落ちていたが、多分浅い眠りしか得られなかった。迷惑千万な出来事である。
行く末は見えているのだから、先に手をつければいい、との考え方は、いつ頃から現れたのだろう。一つ先のことを、予め始めておけば、先んじることが出来る、という考えは、妥当なものと見做されるだけでなく、それによって、まるで人生が見通せるかのような、画期的な手法として、持て囃されることになった。
だが、実態が明らかになるにつれ、先走ることの弊害が、様々に表に現れてきた。親心の犠牲となった人々は、一時の賞賛を勝ち得ても、その後の停滞から、話題の中心から外され、忘れ去られてしまった。先手を打つことで、天才と呼ばれた人々は、ただの人に成り下がった訳だ。親達の目論見からすれば、宛てが外れたこととなり、落胆に包まれたのだろうが、犠牲となった人々のその後は、どうなったのだろうか。一時持て囃された人々のその後を、追いかける企画があるけれど、こういう類の人々は、対象とはなり難い。持て囃した者共が、その後を調べることに、当人達は反発を抱くに違いないからだ。それに反して、一部の人々は、分相応とか、身の丈に合ったとか、自分の力に即したものを対象にすべきと、正反対の考えを見せはじめた。誰もが、育っていく過程で、それぞれに必要な手立てを身につける。時に、早熟と呼ばれる人々が、先走って手をつけることがあるが、それも、本来の過程を経た上でのことで、それらを飛ばして、与えられるものではない。器が整っていないのに、豪華な中身を広げてしまっては、肝心の宴も成り立たない。そんなことの弊害が、様々に取り上げられるにも拘らず、依然として、先駆けの話を取り上げる。懲りない人々の無能ぶりは、こんなところにも現れている。安定した時代に、他人を出し抜くことに精を出す人々は、所詮、大した器を持ち合わせてはいない。
母語の重要性を説く機会が増えたようだ。大した知識も判断力もないのに、重要な施策を決める立場にあることから、国の行く末を誤ろうとする動きが強まる中で、道具としての言語ではなく、人を形作るものとして考えた時に、何が重要なのかを問うている話だ。無い連中が考える、あるべき姿とは、危ういものとなるからだ。
自信の無い人々は、当然のことだが、人は自信を失った時に、その判断を誤ることが多い。母語の問題も、維新以来の負け知らずが、一度の負けを喫したことで、自信を失った人々が、その拠り所を投げ出そうとした結果、と言えるのだろう。顧みれば、希薄な根拠が失われた自信の穴に嵌め込まれ、暴言へと繋がった結果とも思えるが、識者と目される人々の乱心は、国としての尊厳を失わせることになりかけた。小さなきっかけから、その窮地を脱したことで、今の状況がある訳だが、それとて、脆弱な基盤の上に立っており、亡国の輩たちは、愚かな先人達の跡をとるが如く、母語を捨てようとする施策を、押し付けようとする。拠り所を失った人間が、どんな行動に走るかは、世界で起き続けている内戦や混乱を見れば、誰にも判るはずだが、大震災後の平静の報道から、行動規範の違いを示した人々は、まるで違う結末を思い描くのだろう。今出来ないことが、出来るようにさえなれば、今とは違う生活を送ることができる、とでも信じているとしか思えない。手に入る話ばかりで、手放すことを考えない人々は、権利主張ばかりで、義務を果たさぬ人々と、同じ考え方を持つようだ。何をしたいのか、何が欲しいのか、などという陳腐な質問にも、全てと答えてしまう人々は、何も解っていないのだろう。