学者という存在に、以前は、尊敬の念とは別に、何処か馬鹿にする面があった。専門の学問にのめり込むことで、針の先のように尖った知識を身に付け、深くまで到達する反面、世事に疎く、通用する範囲の狭さが尋常ではない。そんな特質を持つ存在に、羨望の眼差しの一方で、自分の方がという優位を感じていた。
先端を走る為に必要なこと、との解釈も当てられたが、現実には、興味を惹かれるままに、行動し続けた結果であったのだろう。世渡りなどという技術とは、無縁な存在として、逆に、羨ましがられる人ともなっていた。それがいつの間にやら、全く別の資質を備えることが、社会からの要請として求められ、昔日のような存在は、無能な存在として、排除されることとなった。一見、無難な生き方に見えるものが、果たして、頂点を極める存在となりうるのか、今後、徐々に明らかになるだろうが、その前に、羨望の対象となるかの問題も、表面化し始めている。専門的なことばかりでなく、様々な事柄に通じた存在として、一部の業界で盛んに使われている人材に、所謂専門家と呼ばれる存在がある。その多くは、大学や研究所に身を置き、学者の範疇に属する人々であり、近年の傾向を映し出す存在となっている。専門的な事柄だけでなく、世事全般に渡って、見識の高さを示す存在として、情報伝達において不可欠となる解説に、活躍しているようだ。ただ、このような人々の多くは、実は、自らの専門分野と同じに、偏った解釈を、別の分野に対して施す。専門の中では、ある学説に拘り、それを推し進める必要があるが、その外では、そんな必要は起きない。様々に異なる見方を、巧く組み合わせて、解説することにこそ、見識の高さが現れるのだ。ところが、今登場している人の殆どが、著しい偏りを示し、それを持論として述べる。専門外にまで、偏りを持ち込むことは、風見鶏のような見識の無さを示すだけだ。
悪名高き公共事業、自らの責任を放棄しようとする政治家と官僚が、矛先を躱そうと捻り出した答えには、市民の一時の満足が得られたかもしれないが、その後噴出した問題は、厳しく指摘された事業の必要性を、改めて考えさせるものとなった。ただ、何とかの一つ覚えとなったことは、それを覆すことも難しい。
バラマキと揶揄された事業も、その多くは、様々な点から必要不可欠なものだった。にも拘らず、一つの掛け声が響き渡ると、愚かな人々は、全てが無用のものと受け取り、金を出し渋る態度がばれぬようにと、理論武装をした気になっていた。だが、整備事業だけでなく、耐用期間を過ぎたものの置き換えなどを含むものにまで、無駄の一言を浴びせては、市民生活の維持が困難となる。一様に考えることの弊害は、日常生活で嫌という程に感じている人間が、他人事となった途端に、こんな暴言を連ねる。いやはや、愚かとは、こんな状況を表すのかと、改めて考えさせられた。これは、何も、愚民に限った話ではない。彼らを扇動した政治家や官僚も、口先だけの理論を、さも真理の如くに宣い、問題が起きても、その原因さえ見極められぬ始末、情けない人々なのだ。研究費の話も、同じ過ちの一例に過ぎず、現場では、真面目に研究に勤しみたいと願う人々が、競争原理に基づくとして押し付けられた、馬鹿げた書類書きに貴重な時間を費やさねばならない。耳目を集める研究も、その始まりでは、誰の注目も浴びず、自己満足の域を出ないことが殆どだ。それを推進する資金は、競争原理からは拠出されない。人気取りしか興味のない人間共が、そんなことには興味を示さぬ人々に、こんな愚行を押し付けているが、改められる気配さえ見えない。受賞騒ぎが起こる度に、幾度となく繰り返される無知な暴言に、手の施しようはないのだろうか。
我が意を得たり、というつもりだったのだろう。滔々と述べる態度には、識者としての自信に溢れ、画面の前の人々が、共感を持って頷くと思っていただろう。だが、彼女の軽薄な意見には、思慮の欠片も見えず、他人の意見の請け売り、安売りとなっていた。他人事に口出しする人々の、品格の無さの表れでしかない。
守備範囲を外れた評論に、重みは感じられない。音楽の世界で生きてきた人間が、科学の世界の状況に、意見を持つこと自体を、間違いと言うつもりはないが、自分で研究費を稼いだ人を、殊更に評価する態度には、不見識だけが眺められた。ただ、これは、政策決定に携わる人々の意見でもあり、彼らの非常識が、地位の力により、常識に化けてしまう恐れが、取り沙汰されている。その中で、マスゴミの世界に巣食う人々は、非常識な他人の意見を、さも持論の如く述べている。視野の狭い人間の特徴として、目の前にあるものしか見えず、全体を見渡せないばかりか、その奥にある実像に迫ることさえできないことがある。こんな人間達が、国の行く末を決めていることに、重大な問題があるが、同じように、目の前の餌を貪り食う愚民達は、施しばかりを求め、何が肝心かを考えることさえない。科学の成果としても、企業の収益に繋がるだけと見られれば、その評価は低くなる。そんな対象が、貧しい人々の生活を守ると、解釈の方向を変換すると、突然、人類の繁栄を目指すという賞の目的にも、適うこととなる。まるで、平和についての話のようだが、真面目な解説は、そんな論旨を広げていた。青天の霹靂とも映った受賞騒ぎは、例の如くの展開を見せ、生きた偉人の扱いは止まるところを知らぬ。莫大な収益を上げた企業は、その権利をもたらした人物に、その分け前を与えてきた。賞金の額が霞むほどの金額に、耳を疑った人もいるだろうが、これが現実である。それが更なる研究への糧となったことへの、称賛の意見に、軽薄を感じるのは当然だろう。
透明性という言葉が、いつの間に入り込んできたのか、巷に溢れる時代となった。だが、この言葉の意味を理解する人の数は、使用頻度の増加の割に、増えていないように感じられる。そんなことはない、との反論が返ってくるかもしれないが、どうだろう。透明とはどんな意味か、何がその性質を備えねばならないか。
書いて字の如く、透けて明らかだから、何もかも見通せることを意味する。様々な組織で、複雑な出来事が重なり、それが事故に繋がったり、問題を起こす度に、方向を定めた過程が、見えてこないことが多い。その指摘において、見えないままに放置された、重要な決定過程を、見えるようにすることが、大切であるとの主張がなされる。これが透明性の言及へと結びつくわけだが、何をどうすることが、可視化に繋がるのかは、主張の強さの割に、不鮮明なままである。可視化という言葉も、この動きに伴って、頻繁に使われるようになっているが、こちらも、的外れに終わることが余りにも多い。見えるようにすることばかりに目が向かい、実際には、見抜くことや見破ることを忘れているからだ。その為の力を養うより、誰もが見える形にすることを優先させるのが、この動きの目的のようだが、片方だけではどうにもならないことに、気付く気配が見えない。まして、そんな問題が起きた組織においては、自らの行動が抱える問題に、気付きもしない人々がいて、問題発覚や事故を起こすこととなる。本来は、他人に見せることより、自分が見抜くことの方が、遥かに重要であるにも拘らず、こんなことに手間をかけるのは、馬鹿げたことに過ぎないのだ。吟味力を養うことなく、批判に終始する人間には、この手の人が矢鱈に多い。自らを律する姿勢のない組織が、透明になったからといって、何の意味があるのか、と思う。
褒められて育ってきたからだろうか。叱ることのできない人間が、目立っている。教わる立場から、教える立場に変わっても、この状態が変わらないとなれば、そこには大きな問題が生じる。褒めることの大切さを重視する余り、叱ることを忘れた人々に、集団を統率する力は期待できない。でも、始めに書いたことが原因なのか。
実は、彼らの多くが、何度も叱られた経験を持つ。褒められたことは、何度かあるに違いないが、滅多にないことであり、逆に、叱られた経験は、数え切れないほどある。その際に、嫌な思いをしたとの記憶が残り、叱られることを避けようとする。だが、そんな態度は萎縮にしか繋がらず、成果を上げることができないから、褒められることには結びつかない。ある意味の悪循環だが、心理的には、理解できないことではない。ただ、これも、叱れないこととは直接には結びつかない。では、何が原因なのか。一つ考えられるのは、良い人で居たい、という願望である。誰にも嫌われず、誰からも攻撃されない人間が、彼らの思い描く「良い人」と思われるが、その思いの表れが、叱らないという行動に繋がる。自分を叱った人間に対し、良い印象が残ることは少なく、恨みに思うことも多い。そんな心理が、自らの行動に映し出され、嫌われたくないことが叱らないこととなる。明らかな間違いと思っても、それを指摘することなく、放置するのだが、思ったことは確かなのだ。時に、不平不満へと繋がり、それが溜まり続ける。本人が我慢を続けるのであれば、致し方のないことだが、それが爆発へと繋がっては、元も子もない。この経過において、何が問題かに気づかなければ、解決の糸口もつかめない。一時の怒りに任せた叱責は、避けるべき対象なのだろうが、過ちを指摘する為に叱ること自体には、何の間違いもない。それを抑えることで、自らの心が穏やかでないのなら、少しは発散したほうが良い。
エリートという言葉は、最近耳にすることが少なくなった。あれほどに嫌われていたから、使うことが憚られるからか、とも思えるが、本当のところは判らない。eliteとは、選ばれし者とか精鋭とかの意味になるが、嫌っていた人々は、そういう意味には受け取っていなかった。それより、差別の象徴と捉えていた。
そこから、嘗て世界を席巻していた優生学を思い浮かべ、更なる差別を促す動き、と捉えていたのだろう。生まれながらの才能と、努力に基づく能力を、同じ尺度で捉える動きにこそ、大きな問題があると思えるが、当人達は、大真面目に論じていたようだ。だが、社会の要請は、全く違うところにある。精鋭は少数で無ければならない訳ではないが、一部の精鋭が、組織を動かしていることは事実であり、それを失うことは、衰退に繋がるからだ。そこから逃れる為には、選ばれし者達を、更に鍛えることで、優秀な人材に育て、社会に送り出す必要がある。高等教育機関で、そんな発言が出始めたのは、そんな危惧を抱く一部の識者が、毎年入ってくる人々の、意欲の減退を目の当たりにし、崖っぷちに立っているように感じたからだろう。競争の典型として見做される、入試制度において、選ばれし者は、確かにその資格を持つと思える。だが、競争に疲れた人々や、敗れた人を気遣う人々は、その後の更なる鍛錬に、挑む意欲を失っているように見えた。そこで、エリートなる言葉が、紹介されたのだが、反発を感じる人も多かった。自らの努力の結果に間違いないのに、そんな態度に出ることは、不可解にも思えるが、不安定な若者の心理には、そんな現れ方もあるのかもしれない。にしても、精鋭達を更に鍛えねばならない立場からは、彼らの頼りなさは、情けなく映ったのだろう。そこで、例の発言となった。ただ、結果は、芳しくないようだ。
人間の価値を決めることに、基準はあるのだろうか。殆どの人が、人生の節目節目で、様々な選別を受ける機会がある。その際に、なんらかの基準を当てはめられ、その結果によって、当落が決められるが、対象となる人々に、その基準が知らされることは少ない。相対的なものなら、競争の結果だからと、納得するようだが。
基準がなければ、その選別に臨む人達は、憶測を飛ばし、自分なりの判断を当てはめようとする。資格の有無を気にするのも、その表れのひとつだが、ここでも、誤解を含め、憶測が飛び交っている。例えば、免許と呼ばれる資格の多くは、ある業務に対して、それを備えることが従事の条件となり、無ければ始まらないものだ。しかし、皆の憶測の対象となるものは、有利不利の分かれ目となる資格であり、多くは、業務に関わってから取得するもの、と言われる。となれば、これが価値を決めるとは言えず、別の指標がそこにあると思える。では、と、当事者から尋ねられて、答えることはやはり難しい。そんなものを身につける手段を、指南する書物は、様々に世に溢れているが、その様子からしても、確かなものが無いことを示している。だが、不安に苛まれる人々にとっては、藁と見えても、掴みたくなるもののようだ。その中で、資格は話題の中心となるが、それを多くの人が取得することからして、頼りになるとは限らない。では、何を頼りとしたらいいのか。それが分かれば、苦労はしない。だが、何かしなければ、何が起きるか分からない、という不安が付き纏う。ということで、様々に努力を繰り返すが、さてどうなるか。こんなに息苦しく考えるより、もっと気楽に考えれば、と思う。成るようにしか成らないとも、成るように成るとも、言われるが、でも、成るのだから。