パンチの独り言

(10月19日〜10月25日)
(転落、向上心、野次、救済、基盤、知りたがり、失笑)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



10月25日(日)−失笑

 何にでも首を突っ込みたがる現代人、彼らの勘違いの一つに、人を裁く役割を自分が、という考えがある。知りたいという欲望が募った結果、知る術を手に入れることができるようになり、それによって、様々な情報を集めてしまうと、次には、それによって、何かを決めようとする欲望が、出てくるという訳だ。
 この弊害について、今更取り上げる必要もないだろう。画面や紙面で繰り広げられる、まるで、裁判沙汰の如くの展開には、その中心に自分を据えた、人々の思い込みと誤解が広がる。一言で言えば、傲慢となる筈の行為に、創造劇の中の主人公になりきった人々は、愉悦に浸っている様子となる。確かに、多くの不正が暴かれ、世の中の矛盾は強まるばかりで、それを是正するべき役割の人々の為体は、批判の対象とすべきである。だからといって、何も知らず、何も理解できない人々が、英雄気取りで裁きを下す姿には、恥知らずという印象しか残らない。何も知らないのは、誰も教えてくれないからと、責任転嫁を繰り返す一方で、そんな世の中の矛盾は、責任を負うべき人々の不正によるものと、一方的な批判を浴びせる。だが、自らも社会の一員であることを認識すれば、別の考えに至ることは簡単だろう。あくまでも、自分の存在を、外に置きたいと思うのなら、それはそれで構わないが、もしそうしたいのなら、社会への批判をする資格も失われる。何の関与もせず、何の寄与もできない人間が、自らの無知をさらけ出しながら、高い立場からの決断を下そうとすることに、失笑を買うのは、当然のことだろう。だが、それもこれほどに数が増えれば、怖いことなど何もない、のかもしれない。

* * * * * * * *

10月24日(土)−知りたがり

 知りたがりが嫌われた時代もあったが、今や、権利主張をする人々に、そんな視線を送ることは難しい。弱者を装う人々は、情報においても、知る権利の主張を繰り返し、まるで、それが生きる術のように振る舞う。何をどう知れば、何がどうできるのか、そんな疑問を抱くことなく、整理も理解もできぬものを追い求める。
 どうせ分からないのだから、黙っておけ、というつもりはないが、何を知ることで、何ができるのか、全く見えない状況に、苛立ちを覚えることは、一度や二度ではない。あれほどに切迫していた人々が、いつの間にか立ち去り、全てが忘れ去られてしまう。新たに登場した、知りたいことに対して、要求を叫び始めると、以前の興味はすっかり消え去り、知りたいことなど一つもなかったかのような、静寂が訪れる訳だ。だが、それまでの道程は、関係者にとっては、悪夢としか呼べない代物だろう。全体像が見えぬままに、情報を要求する人々は、その軽重にも、肝心なことにも気付かず、まるで収集家の初心者のように、何の繋がりもないことを手に入れて、満足感に浸る。彼らの悪癖は、出鱈目に集めたものを整理することなく、ただ我楽多箱に入れるだけで、要求を通すことへの欲を満たすことで、知ることの意味は、無いに等しい。問題が発覚した建物に住む人々にとって、何が重要かと言えば、安心できる住居を手に入れることだけであり、その原因がどうであれ、今巷を騒がせているような、誰の罪で、どこまで広がるか、という話題には、興味などある筈も無い。だが、知りたがりの根性は、こんな所にも首を突っ込みたくなる。早く教えろとの訴えも、実は、自分を救え、という意味であり、報道のような見方は、意味を成さない。他人事に首をつっこむ連中が、煽り始めているが、これもまた、無意味で、無駄な時間や労力を費やすだけだ。保証されたのなら、それで十分なのではないか。

* * * * * * * *

10月23日(金)−基盤

 今話題となっている、基礎工事の不正の問題ではなく、基盤整備の問題を取り上げてみたい。建物の工事と同じく、高みに到達しようとすれば、基礎が重要となるのは、世の中のあらゆる事柄に、通用する事実だろう。脆弱な基礎の上に、小さな煉瓦を積み上げても、すぐに崩れてしまう。人間が築くものには、基礎が大事なのだ。
 当然の考えだから、誰もが気付くことなのだが、そこでの誤解の甚だしさは、これまでの流れから判るように、尋常ではない。基礎を身に付けさせる為、と称して、内容を希薄にする手立てが講じられたのは、ついこの間のことであり、今は、それによって蔓延した害毒を、浄化しようと躍起になっている最中だ。地面を固めれば、それで十分であるという考えが、工事にさえ適用できないことは明らかで、杭を奥深くに差し込むことで、強固にする方法は、人間の基礎力に関しても、通用するに違いない。浅はかな人間の知恵は、上辺だけに目を奪われ、安物の鍍金のように、すぐに剥がれる知識をばら撒いた。結果として、劣悪な世代を育て上げ、甚大な被害を及ぼした。こんな環境では、将来に不安を抱く人もいて、受賞者の増加にも、陰りが見えるとの指摘をする。だが、彼らが主張する基盤整備は、薄っぺらな鍍金となり、一時の輝きは早晩失われ、剥がれてしまう運命にある。目的に応じた、的確な資金注入こそが、全ての鍵と信じる人々は、自らの愚かさに気付くことはない。受賞者が受けた基礎教育は、全般的に渡る、厚みを持たせたものであり、当時、詰め込みとか、役立たずとか、揶揄、批判の嵐となっていた。あの頃、批判の中心となっていた、報道の人々が、今や、別方向から、危惧を抱き、的外れの提案を繰り返す。所詮、自らの愚かさに気付かぬのだから、これが繰り返されるのも止む無し、ということか。

* * * * * * * *

10月22日(木)−救済

 勘違いばかりで、呆れてしまうのだが、これもまた、その一つだろうか。助言とは何か、改めて尋ねてみると、不思議な答えが返ってきそうだ。役に立つ言葉、という妥当な答えは当然として、珍答の中には、救いの言葉、といったものが目立つようだ。助けてくれる言葉なのだから、救いとなる筈だ、ということなのか。
 向上を目指すのではなく、現状維持や衰退へと繋がるような言葉に、飛び付く人がいることに、驚いていたのは昔のことのようだ。今の課題を切り抜ける為に、何をすべきかを指示する。そんな指導に努める人々は、目の前の迷える人々が、感謝の眼差しを送るのに、満足感を得ている。人々の可能性を伸ばす為の場所が、限界を知る為の場所と化し、とりあえずとの言葉と共に、できることしかしない人間を作り出す。その辺りの事情を知った上で、できる限りのことしかしない、と明言するのならまだいいが、限界を勝手に設定し、確実なことばかりを追いかける。努力という言葉は嫌われ、楽に生きることが選ばれる。一見、確実な人生を歩んでいるように思えるが、その実、身の丈にも及ばぬ程度に停まり、目指すところは、先にはなく、後ろにあるかのように見える。こんな人間を人材と呼ぶわけにはいかない。だが、その類の人々を、日々生産している場所があるとしたら、どうだろうか。こんなやり方が横行するから、弱者を装い、救いを求める人が、社会に溢れてくる。この国に限ったことでなく、世界の傾向だとすれば、何が悪いのかが見えなくなるのか。先を見通せると、勝手に判断する人々が、人々の可能性の芽を摘んでいる事態に、排除などの手立てが必要なのか。

* * * * * * * *

10月21日(水)−野次

 決め台詞なのか、例の如くに連呼される「不安」という一言に、人は何を思うのだろうか。発言者の意図は、苛まれている心境を吐露しただけだろうが、それを殊更に取り上げる人々の意図は、別の所にあるようだ。苛められている状態にあると訴えることは、当人にとって重要なことだが、傍観者達は、別の虐めの対象を求めている。
 何時からこんな連鎖が続けられているのか。被害者は次々に登場し、別の被害者を作り続ける。弱者になれば救われる、という考え方には、何の根拠もないと思うが、加害者を攻撃するあまり、結果的に、全てを弱者とする考えに、意味があるとは思えない。所詮、その場限りの欲求の捌け口に過ぎず、何も産まないことは確かだが、一度、解消の快感を覚えると、その優位性の実感は、止められない経験として、虜となってしまうようだ。考えることなく、「不安」を口にする人の味方となり、彼らの敵に矛先を向ける人々は、まさに、正義の味方を演じている気分なのだろう。その行為が、何も産み出さないことに気付いても、快感を求める欲望は、抑えられないものらしい。不正により、被害を受けた人々を、保護する必要はあるに違いないが、それを、社会全体が支えようとするのは、時と場合によることだ。個人の利益に関わる話の場合、一概に、社会として考えるべきとは限らず、個人間の問題として、片付けることも多い。だが、皆が挙ってしゃしゃり出る環境では、過度な反応が広がり、抑えの効かない言動は、極端な反応を繰り返す。明らかに責任がある場合にも、その解決に、社会の関与は必要なく、謝罪や賠償という形をとることが多い。そこに野次馬達が顔を突き出すことで、問題が拗れるだけなら、迷惑なだけだろう。いくら暇だからと言って、そんなことばかりでは、責任を問う資格もない。

* * * * * * * *

10月20日(火)−向上心

 無難な生き方に、憧れる人が多いようだ。彼らの多くは、実行可能なことに集中し、無理をしないという姿勢をとる。無難とは、書いて字の如く、難の無いことと見られるが、その意味には、非難すべきことは無いが、優れた点も無いとある。実行可能とは、まさにそこを突いたことで、正しい指摘と見るべきだろうか。
 何をするにしても、無理をしようとせず、できることだけをする。失敗を恐れる人々の典型だが、このやり方を全ての人が行うと、上を目指す人は出てこない。一人の人間の成長だけでなく、集団として考えても、それを妨げるような考え方に、前を行く人々は、懸念を抱いている。だが、確実な生き方を望む人に、冒険を促すことには、責任を感じるから、その類の助言を与えることはない。その一方で、冒険に明け暮れる人の多くは、地道な努力をする気がなく、一朝一夕の成果を求める。こんな二極化が、若者達の間で起こっている中では、身の程という表現も、少し違った解釈がなされるし、身の丈という考え方も、違った受け取られ方をする。これほどに固定化された考えが、世代全体に蔓延していることから、問題を解決する手段も、簡単には見出せないが、どうしたものだろうか。こんな問題も、一部の人間達は深刻に考えているが、安易な生き方を選ぶ人々は、どの世代においても、傍観を決め込んでいるように見える。安易な生き方が広がる要因は、安定した時代には、多く存在する訳で、それにより正当化するのだろうが、現実には、じわじわと破綻の瞬間が迫っている。成長を止めた人々にとって、安心できる場所は、堕落を伴う所であって、皆で進めば怖くない、といった感さえある。結局、外的要因に期待することは難しく、こういう時代だからこそ、自身の向上心に期待するしかないようだ。

* * * * * * * *

10月19日(月)−転落

 不正を働くのに、様々な環境要因が影響を及ぼすと言われる。当事者の保護という訳でもあるまいが、組織の関与を強調する姿勢から、生まれ出た考えのようだ。では、強盗や殺人などの犯罪一般では、どんな配慮がなされるのか。確かに、育った環境などの様々な事情が、情状酌量の対象として検討されるようだ。
 でも、と思うのは、不正を働いた人間の多くが、現実には恵まれた環境にあり、それを失わないように、との思いから、それを始めたという話が多くあるからだ。恵まれない環境から、犯罪に手を染める人間と、恵まれた環境から、不正を働く人間に、どんな共通点があるのか。どちらにしても、人間として守るべき規則に対して、事情さえあれば、破ってもいいとの考えに至った、という点ではないか。倫理や道徳と呼ばれる存在は、各人の頭や心の中にあるべきものだが、それを見失った結果として、悪事に手を出すこととなる。結局は、自分さえ良ければ、という身勝手な論理を展開したからであり、そこに至ったのは、ある状態に対する、不満や不安がきっかけとなったからだろう。でも、そんな事情は、全ての人間が抱えるものではないか。その中で、艱難辛苦を経験する人もいるだろうが、その全てが、不正を働く訳ではない。彼らの心が、ある基準を守ろうとすれば、たとえ、一時の不遇な状況でも、その先には、別の展開がある筈と思うことになる。それさえも実現されないことがあるが、それでも、別の考えを適用することで、打開を目指そうとする。こんな人間の動きは、ある見方からは、馬鹿げた行動に映るようだが、地道な努力を評価する向きからは、高い評価を受ける。真面目さだけでは、事は済まないものだが、それを見失った途端に、転落の憂き目に遭うものだ。

(since 2002/4/3)