何故、どうして、と思うことは数多あるが、この疑問は、理解不能と片付けるしかないようだ。個人の責任と組織の責任、責任という文字には何の違いもないが、社会での扱いに、何故、これほどの違いがあるのだろう。他の国の事情は分からないが、この国では、その違いは大きく、常識や論理が通用しない世界に見える。
罪を裁く時、個人に対しては、情状酌量という物差しが適用される。人間は、生まれながらにしての悪ではなく、何らかの事情で、暗い底に落ちてしまっただけで、改心の可能性があるとの考えから、出てきたもので、宗教の多くも、そんな考えに拠っている。一人一人の人間を相手にすると、このような考えに基づき、諭すことが第一と考えられている。だが、それが集団を相手となると、全く違う対応が取られる。複数の人間が関わる悪事には、改めるという行為は期待されず、厳罰に処することが殆どとなる。一人が悔い改めても、それが全てに広がることはなく、救いようがないとでも言うのだろうか。この考えが適用される社会では、個人の犯罪でも、組織の関与を疑う傾向が強く、強く大きなものに対する、強い偏見があるように思える。自身の心理を見れば、その行動様式は理解できる、というものかもしれないが、犯罪に手を染めたことのない人間が、単純に、自身の心を映し出しても、論理性が確かになるとは限らない。まして、弱い人間という思い込みから、力の強弱を、理由として引き出すのは、必ずしも、的を射ているとは言えないのだ。弱いからこそ、欲望に駆られて、という罪人の心理は、組織の関与とは無関係に動く。それを、何が何でも、組織の責任を、という思いに囚われ、その結論を導こうとするのは、無理筋に思える。個人の責任を明確にした上で、組織の関与を吟味するという考え方を、もっと強くしないと、歪みで社会が崩壊してしまいそうだ。
住む場所の異常に、不安を隠せぬ人々が居る。信頼が崩れる最中、人々は不安を訴えるが、この様子を何時か何処かで見たことを、思い出す人はどれ位居るだろう。あの時は、全く違う事情で、不十分な強度から、崩壊の可能性が懸念され、結果的に、住めないとの決定から、取り壊すことになった。揺れへの備えが無いからと。
当時、批判の的となったのは、実際に計算を行った人物だけでなく、その売買に関わった人も加えられていた。まるで、不正の中心人物かのような扱いが、暫く続いていたが、何時の間にか、騒ぎは収まっていた。犯罪の中心は、計算をした人間であり、他の人々はあれほどに疑われたのに、何の関与もなかったとされた。あの騒ぎは、あの疑いは、一体何処から出てきたのだろうか。そんな疑問を抱く人も居たのだろうが、すっかり忘れられてしまった。では、今度の事件についてはどうか。似た所は様々に転がっていて、批判の的は、例の如く、個人より組織に向けられているように見える。人は、厳しい圧力の下では、犯罪に手を染めることもある、という考えが、世の中に蔓延しているからか、この事件も組織的なものとの見方が、中心に据えられているようだ。あまりにも多くの事例があることから、すぐに全貌が明らかになるとは思えないが、それにしても、結論が始めから明らかかの如く、批判の矢は組織を的として放たれ続ける。組織を擁護するのではなく、ただ、客観的に、手に入った情報から、判断を下すのであれば、現時点では、中心人物の関与が、疑うべき対象となるのではないか。組織の関与を強く疑う動きからは、次々と同様の事例が掘り出されているが、それとて、表面的なデータの扱いに関するものであり、事実がどうであったかは、何も明らかになっていない。今回も、憶測を飛ばす性癖に、反省が加わえられず、同じことを繰り返しているのだろうか。
白と黒の違い、当事者だからこその意味もあるのだろうが、端から見る限り、身勝手な判断としか思えない。噂話に基づく解釈では、根拠を示せる筈もないし、自分中心の判断には、著しい偏りが目立つ。結局は、自らの不明を露呈させるだけのことで、止めておけば、と助言するくらいしか、思いつかない。
気に入らないもの、不満を抱かせるもの、心理的な感覚を中心とした評価には、確固たる根拠は伴わない。にも拘らず、これほどに取り沙汰されるのは、いい加減な発言さえ、憚ることなく発する気分になれる、そんな機会が与えられるようになったからだろう。匿名性という道具も、魅力的なものと映り、特定の危険性に気付くことなく、暴言を繰り返す。面と向かっては言えないことまで、指先の動き一つで繰り出せるとなれば、何か特別な力を得た気分になれるのだ。品格を論じるまでもなく、情けなくなる言動だが、それさえ、戒められることなく、放置される。無視の一種に過ぎないと、論じる人もいるようだが、対面する相手や、小さな集まりでの発言ならば、無益な言動もすぐに消滅するが、電子的な掲示は、本人でさえ消せない汚点として残る。その意味さえ理解できない、畜生のような存在に、便利な道具を与えることは、百害あって一利なし、ということではないか。その一方で、不確かな情報を、嬉々として弄び、都合よく解釈する人々が、大きな顔ができるのも、害ばかりが目立つ結果となっている。ブラックかホワイトか、その区別の根拠を定かにすると、何とも幼稚な心の動きが見えてくる。愚かさを晒すことを、恥とも思わぬ人々が、人前で一言も発せられない現状は、人を育てる力を失いつつあるのではないか。
勝ち負けや有る無しなど、二者の中から一つが選ばれることは、時に、白黒をつけると言われる。良いことと悪いことを対比させ、どちらを選択するか、あるいは、どちらに流れるか、それぞれに、決められていく過程を指す。挑む姿勢の強さを表す時にも、この表現が使われ、決意の表れと見做されることもある。
白と黒の区別は、その通りに、明確なものだけに、口にする人々にとって、明白な違いを示している。だからだろうが、主張の違いを示したい時に、好んで使われることが多い。だが、曖昧な表現を好む人々には、白と黒という表現より、カタカナ文字によるものが、使われているようだ。ホワイトとブラック、最近の風潮では、好ましいものと好ましくないもの、を指し示す際に、多用され始めた。だが、カタカナになったからといって、意味が和らげられる筈もない。白によって、好ましいものを指し、黒によって、好ましくないものを指す。だが、人間の感覚に過ぎない、好悪の表現が、これほどにあからさまに使われるのは、使用者自身が、カタカナの利用により、表現を柔らかくしたと思うからだろう。でも、実は、ここには、現代人が抱える、大きな問題が込められているのだ。使う側の都合ばかりに目が向き、その言葉を浴びせられた人間が受ける印象には、全く目がいっていない。配慮や気配りを、柔らかな表現に込めたつもりで、その実、言われた側の反応など、気にもかけていない。こんな表現は、世間知らずの若者達を中心に、多くの種類が使われており、無粋さに呆れることもあるが、無視すればいいわけではない。勘違いを含め、思慮の足りなさを、厳しく指摘してやらねば、何が悪いかさえ、理解せぬままにいい大人となる。こんな愚行を続けない為にも、苦言が必要なのだ。
騒ぎが大きくなり、被害を訴える人を前に、戸惑いを隠せぬ人がいる。そんなつもりじゃなかったとは、戸惑いから生まれた言葉かもしれないが、多くは、本当にその通りのことであり、被害者の説明は、常識的には、首を傾げざるを得ないものである。しかし、弱者保護の姿勢には、揺らぐ所は見えず、一方的な裁定が下される。
真意を伝えることの難しさは、その立場に就くと徐々に理解できる。現代社会においては、立場の強弱を基本として、加害と被害を区別することが多く、弱い側に立つ限り、極端な犯罪に走らなければ、害を加えたと見做されることは無い。だから、無茶苦茶な論理を展開したのではなく、単に、自らを被害者と見做すことで、何かを正当化しようとする心理が、働いただけなのかもしれない。被害者にとっては当然の成り行きとはいえ、加害者とされた人物にとっては、まさに青天の霹靂である。何をどう解釈すると、そのような受け止め方ができるのか、と疑念を抱いても、弱者の周囲を固める体制が相手では、勝ち目が無いこととなる。自信と責任を基盤として、立場に見合う言動を心掛けてきた人々は、心外としか受け止め用の無い展開に、戸惑うしかないのだろう。だからこそ、真意はとか、そんなつもりではとか、言い訳のような言葉を継ぐしか、対応を思いつかない。これまでの常識からは、考えられなかったやり方が、いつの間にか、社会に広がった結果、確かに、一部の被害者は、泣き寝入りせずとも、権利を取り戻すことができ、ある意味朗報となったのだろう。だが、それより遥かに多くの事件は、冤罪としか思えないものであり、被害妄想の極みとも思える。解決の糸口は見出せないが、現状を見るに、言い訳に走るより、関わり方を考える方が、良い結果に繋がりそうに思える。
不安を訴える人の全てが、不十分な知識しか持ち合わせていない、とは言えないものの、そんな言動を利用して、誤った方向に導こうと目論む人々には、便利な道具のように扱われている。発展途上国の多くでは、教育を受けることへの憧れを抱くことが多いが、知識を手に入れることが、成功への道筋と見られるからだろう。
それに対して、先進国では、知識を押し付けられることに反発し、努力を怠っても、ある程度の生活が保障される社会制度に、ぶら下がる人々の姿が目につく。折角手に入れた安心を、脅かす存在への不安を口にする人と違い、何の努力も無く、その権利を主張する人々が、不安を口にする場合には、状況が大きく違ってくるように思える。最大の不安材料は、命を脅かすものだろうが、これに対する認識も、知識不足と誤った判断に基づくものが多い。正しい知識に基づく判断を、目論見によるものと拒絶し、不安を煽るだけの判断を、信じ込む心理には、知識を身に付ける機会を、逃し続けてきた代償の表れが、見え隠れする。本人も、無知を意識するのだが、知ろうとする意欲に欠けた人間には、順序立てられた説明も、届くことがない。分かる気の無い人間から、分かるように教えろと言われても、為す術がない。積極性は、不安に関わる部分にしか現れず、残りは、拒絶反応を示すだけだ。先日読み終わった放射線に関する本は、世界的な権威によるものだが、真面目に取り上げる人はいない。科学的な知識をわかりやすく広めるという趣旨で、シリーズ化された書籍にも、その主張が述べられていたが、無知な人々から、攻撃を受けていた。それを更に詳しく述べた本も、話題にさえなっていないようだ。偲ぶ会で配られたようで、これを機会に、すこしでも正しい理解に結びつけば、と思うが、果たして、頑固な不安人間に、届く機会があるだろうか。
規則は制限を加える為にあり、それに沿った形で、様々な決定が下されるもの、と思う人が多いのではないか。ところが、世の中に蔓延する、ある雰囲気は、全く逆の結論を導き出す。中でも、極端さが際立つのは、規則を守れない人間に対して、罰を下すのではなく、規則を緩めるという動きだろう。何故、と思えるのだが。
守れない規則を作ることがおかしい、という暴論が罷り通る時代、なのかも知れない。だが、法律を始めとする規則は、社会の秩序を保つ為に、それを構成する人々の総意で、導き出されたものではないか。それを、一部の違反者への配慮から、守れる範囲に調整しようとする。これでは、総意とは何か、という問題が出てくる。確かに、一部の規則は、現状を無視する形で、到達目標の如くに定められ、それに向けて、各自が努力を重ねる、といった考えの中で、作り出される。総意等という考えは微塵もなく、一握りの人々の偏った考えに基づくものであることも多く、定められてから、問題が噴出する場合も多い。だから、緩和も致し方ない、との解釈が適用されるが、であれば、何故、そのような規則を通したのか、となる。決めるべき人々の無能ぶりは、こんなところにも表出しているが、迷走を続ける様子からは、何の根拠もなしに、思い付きを並べるだけの人が、多くの組織の中枢を成していることが、根源にあるように思える。中枢は、あくまでも、中心に居座り、動く気配さえ見せないものであり、責任を取ることだけが、務めとなっている。それに対して、規則で振り回される人々は、動き回らねばならないから、右や左に迷走されては、迷惑としか言えなくなる。ただ、この状況を煽り立てているのは、同じように、何の考えもなく、ただ批判し、煽るだけしか能のない人々であり、その存在にも、振り回されていることに、気付くことも大切に思う。