冷静に眺めることを強調すると、必ずと言っていいほど、被害者の立場を無視していると指摘する。今の典型的な風潮だが、誰が被害者なのか、こう指摘する人の多くは、考えようともしない。そこに大きな問題があるのに、攻撃の矛先を向けられた途端に、押し黙るしかない。まるで総攻撃のような事態が起こるからだ。
何時からこんな状況に陥ったのか。そんなことを呟くと、こんな状況とは何か、という意見が出される。これを発する人々にとって、そこに矛盾はなく、ごく自然な疑問と、それに取り組む真摯な態度だけが、見えているからだ。何故、これほどまでの違いが出てくるのか。冷静に眺めることとの違いは、感情が先行していることだろうか。被害者に寄り添うとか、可哀想という感情とか、そんなものが先に立てられていることに、多くの人は気付かぬままだ。その中で、批判される側は、一見冷たい対応を取っていると見做され、糾弾される。だが、今一度、考えてみてはどうか、被害は誰に及んでいるのか、と。その区分こそが、何よりも優先されるべきだが、何時の間にか、それを眺める余裕が無くなり、まるで何かに追い立てられるかの如く、猪突猛進を続ける。責任感は大いにあるのだろうが、それを向けるべき方向は、明らかに見誤っている訳だ。こういう人々を説得する為には、もう一度、冷静になってみる必要がある。渦中の人々が相手では、多くの選択肢を並べることも難しい。冷たいと呼ばれる感情と、冷静と呼ばれる態度では、その印象に大きな違いがある。だが、そんなことは、この際どうでもいいのではないか。冷ややかで冷たいと冷笑されても、確かな分析に基づく、確かな意見を出し続けることが、何よりも優先される。今分からずとも、その内判る、で良いではないか。
十把一絡げ、何か事が起きると、あらゆるものをごた混ぜにして、取り扱う姿勢を指すが、良い印象を与えるものでは無い。細かな違いを無視して、全体を把握するのに役に立つ考え方だが、それが過ぎる場合に使われることが多いからだ。その結果、核心に迫ることができず、結局、全体が暈けることになる訳だ。
何事にも、こういった見方を適用する人々は、世の中に溢れている。だからこそ、事件が起こる度に、無駄としか思えない事柄が持ち込まれ、大混乱に陥る。その原因は、殆ど全てが、こういった考えにあり、整理よりも羅列を好む人々が、騒ぎに乗じている感が否めない。更に、事態を深刻にしているのは、駄賃を得ようとする心理であり、問題となっている事柄に、直接関係なくとも、関連を主張することで、仲間入りをしようとする考えだ。だが、当事者達が、欲に駆られて動くのと違い、最近目立つのは、何の関係もない人々が、しゃしゃり出てくる場合だ。批判の対象を探し求め、弱点を見出すと、一気呵成に攻め込んでくる。だが、その多くは、まともな考えなどなく、攻撃を好むだけの人々だから、論理の欠片もなく、ただ騒ぎ立てているだけになる。杭打ちの問題が出てきたのは、現実に建物の不具合が発覚したからであり、本来は、そこに焦点が当てられるべきだろう。ところが、その中で徐々に明らかになった、データ改竄の問題が、いつの間にか的の中心となり、それだけに目が集まる。手順として遵守しなければならないこととはいえ、本来の問題は、建物の安全性にあり、そこに抵触するかどうかが、肝心な事柄となる。だが、今の状況は、まさに十把一絡げであり、杭打ち自体に問題が無いのに、騒ぎを大きくしているだけで、批判の的は、いつの間にかすり替えられている。騒ぎに乗じる人と、それを煽る人、なんとも情けない状況だが、整理を怠る姿勢が、諸悪の根源となる。
楽観的に過ぎる、と言われるかもしれない。しかし、感情的な意見ばかりで、順序立てられていないものを、議論することには、全く意味がないと思う。場合によっては、戦争に加担する可能性が出てきたことに対して、議論は沸騰しているように見えるが、実際には、確かな根拠もなく、脆弱な論理ばかりが目立つ。
冷静な分析が、危機を回避するための唯一の手段、などと言うつもりはないが、興奮して、叫びにも似た主張を繰り返す人々が、画面に映し出される度に、少しは順序立てて考えてみたら、と思う。そんなことを言った途端に、その姿勢だからこそ、先の戦争を回避できなかったとの批判を浴びせられる。冷静に分析し、可能性が低いとの判断を下したのは、確かに事実なのだろうが、当時の戦争への道程と、今回想定されているものとは、余りにも違いすぎるのだ。懸念の的は、誰かの戦いに加担することより、その中心となることだが、法律の一部に新たな解釈を施したとしても、基本となる部分を書き換えない限り、何の状況変化も起こせない。なのに心配の声が絶えないのは、何故なのか。悲観的な筋書きを好む人々は、挙って叫びを上げているが、狼少年のそれと変わらず、何も起きないのが当然だろう。確かに、一欠片の懸念もない、とは言えないものの、あの宰相が目指すと指摘される動きの為には、さらに、数段の大きな障害を越える必要がある。これに気付かぬままに騒ぎ立てるのは、まるで、この国全体が闘争に包まれた、あの時代にも似た雰囲気を感じさせる。あれも、一部の扇動者に煽られた結果だったが、今回も、当時活躍した人々の姿が、見え隠れする。懲りない人々が、こんな所にも蠢いている訳だ。一方で、若者たちの好戦性を、不安に思う人もいるが、面と向かっての発言でもなく、匿名性に隠れた卑怯な言動だけに、いざとなったら、蜘蛛の子を散らすが如くの状況となるしかない。いずれにしても、このまま突き進む為には、更なる批判に晒される必要があり、搦め手から攻めようとする姿勢では、宰相の夢が、実現する可能性は、殆ど無いに等しいのだ。
感情に訴えることが、何よりも重要だと考える人がいる。元々は、喜びや悲しみといった感覚から、同情を促す動きだったようだが、いつの間にか、安心とか不安といった感覚を、前面に押し出す形へと変貌した。心を揺さぶるような言葉や映像を使い、まるで映画か小説のような雰囲気が漂う。論理は、捨てられたのだ。
操作に動かされる人々の多くは、落ち着いて吟味する習慣は持たず、直感に頼る生活に耽る。それでも、大禍なく過ごせるのは、平和で安定した社会だからだ。こんな人々が、安全な社会の理由を考える筈もなく、ただ、施されたものを貪り食うが如く、先人が築いた虎の子の財産を、減らし続けている。彼らを勇気づけているのは、感情を主体とした生活であり、それを保証する言動に、大きな期待を寄せている。だが、吟味や考えることを忘れた人々が、主体となる社会には、明るい未来は約束されない。熱意を持つことばかりで、冷静さを失った人々には、的確な判断ができる筈もないからだ。そんな事例は腐るほどあり、賞味期限はあっという間に過ぎて、殆ど全てが忘却の彼方へと、送り届けられる。次々に繰り出される話題の多くは、操作を目論む人々の創作に過ぎず、少しの時間で、その矛盾は簡単に暴くことができる。操作においては、その気を起こさせないことが重要で、目を逸らさせることに、かなりの時間を費やす。感情論が主体となるのは、当然のことだが、もう一つ大切なことは、論理の矛盾を指摘することだろう。だが、これとて、矛盾に思えるように操作を施し、単純化したものを見せているに過ぎない。そんな思いを抱きながら、今一度、周囲を見渡してほしい。脆弱な論理性どころか、既に破綻したものまで、ちょっとした化粧が施されたものが、並んでいることがすぐに解るだろう。
昔、オフ会に出た時に、誰かが、パンチさんと議論したくない、と言った。勝つまで止めないように見えたからで、理屈をこねていると思えたのだろう。確かに、論理的にものを考える習慣が身につき、相手が誰であっても、同じように振舞うから、相手をしにくいと映るようだ。実生活でも、同じことのようだ。
屁理屈でもないのに、理屈を並べるだけで嫌われる。そんな経験をしたことのある人も多いだろう。逆に、そんな人を前に、困った顔をした人も居るに違いない。でも、論理的に考えることを毛嫌いしていては、賢く生きることはできない。そういうことを抜きで、賢く生きたいと思うことほど、馬鹿げたことはないと思うが、今は、そちらが大勢を占めている。思いつきで、何事も片付けようとするから、後になって往生する。だが、考えることを嫌うから、解決策など見出せる筈もない。何度失敗しても、懲りない連中にしかなれないのだ。周囲から見れば、何度も騙されるとか、何度も失敗するとか、そんな風に見られる人の多くは、実は、物事を論理的に考えず、直感に頼った思いつきで、多くの決断を下す。それでも何となく流れていくのが、安定した時代の特徴だろう。若者達が、安易な道に走るのも、同じ心理が働いているようだ。だが、優しい社会では、そんな思いつきに過ぎない、不安や不満に対して、親身になっているかのような扱いを施す。これが、無駄を産み出し、混乱を招いても、当事者達は、自分の問題とは思わない。何とも困った状況だが、それが許されるのが、平和である証座なのかもしれない。だからといって、この状況を放置していい筈もない。論理を尊重する考え方を、主流にしていかねば、組織も社会も成り立たなくなる。原発への考えも、自衛権の話も、どこにも論理のないままに、不安を口にする人々は、一体、何を考えているのだろう。彼らの拠り所はどこにあるのだろう。こんな疑問を抱いても、おそらく無駄に終わるだけだ。それらの心配は、何の成果も生じない。簡単なことをわからない人が、多すぎる。
専門とは異なる分野に関して、意見を求められるのは、それだけ信頼されているから、なのだろうか。折角築いた信頼を、失いたくないと思うのは、ごく普通の心情であり、その為に世の趨勢に沿った形の、如何にも無難な意見を並べるのは、止むを得ないことかもしれない。だが、無難さに問題があることも多い。
世の流れに沿った意見に、ある世界で築いた地位の、重みは感じられない。知らないことだから、皆が使う意見を、という考えに過ぎないが、聞いている側は、全く異なる見方を示す。信頼できる人間であり、あれほどの成果を上げた人間なのだから、あの意見にも、当然の重みがあると見做すのだ。これが繰り返される度に、ある思惑が歴然となる。そういった意見を求めた人々は、世に流れる意見に重みを持たせる為に、専門外の人々に、その役を頼んでいる訳だ。専門家と呼ばれる人々は、自分の守備範囲に関しては、自分独自の主張を持っている。しかし、範囲外となれば、その重しが外せて、責任を感じることなく、意見を述べることができる訳だ。本来ならば、自由は多種多様な意見へと繋がる筈だが、そこで違った判断が下される。いくら気楽だからといって、間違った意見を述べれば、批判の的となり、本来の立場まで、危うくされかねない、という心配である。まさにそんな状況だと思えるのは、不安に関する話題であり、この所長く続いている、発電様式の問題は、その典型に思える。確かに、今の危険だけでなく、未来への負債と言われる中では、将来への不安を取り除けず、反対の立場を取るのが、如何にも無難に思える。だが、人間の営みに関わることは、その殆どが、様々な危険を孕み、安全安心が保障できるものなど、あり得ないのではないか。ある事柄だけを殊更に取り上げ、反対の立場を貫く姿勢には、実は、理解の上のことでなく、単に流れに乗る為だとしたら、都合よく使われるだけの、軽い存在でしかないこととなる。
一山当てる人生と無難な人生、どちらを選ぶかは、人それぞれの自由なのだが、確率を考えれば、どちらが妥当なのかは明確だろう。大多数は後者を選び、それを維持することに努める。では、まだ選択していない人にとって、何をどうすればいいのだろうか。これもまた、多くの人の教えでは、流れに乗ることとなるようだ。
皆と同じ方に向かえば、無難な道を歩むことができる。簡単なことのように見えるが、本当にこれだけでは、無難どころか、大きな難を背負い込むことになりかねない。皆と同じことを同じようにするだけでは、よほどの才能がない限り、他との差をつけることは難しい。場合によっては、比較対象とした集団により、却って全体からは劣ったものとなりかねない。無難と思って行ったことが、難ありとなる所以だ。これから選ぼうとする場合には、そんな観点ではなく、まずは自分を確固たる存在とする為の努力を怠らないことが重要だろう。こんな簡単なことを、なぜ、多くの人が見誤るのか、と思いつつ、見回してみると、意外なことに気付かされる。成長の過程では、様々な努力を積み重ね、独自の道を見出してきた人々が、栄光を手に入れ、ある安定に到達すると、途端に、無難さに目覚めるという傾向だ。地位を守る為に、最も重要な手法も、無難さにあると言われるが、これが、世間で目立つものとなっている。それぞれの分野で、ある程度の成果を上げたことで、識者として取り上げられる機会を得る。そうなると、専門外のことにまで、意見を求められ、考えを披露せねばならない。それまで独自の考えで生きてきた人が、妥当な範囲に落ち着くのは、仕方のないことかもしれない。だが、その姿を見聞きする側からすれば、まるで、その生き方が今の地位を築いたものかのように映る訳だ。結果、無難さが第一と見做される。冷静な分析ができる頃には、騙されたことに気付くけれど、当時は、まんまと騙されてしまう。演じる側の責任も、あるように思うが。