パンチの独り言

(11月9日〜11月15日)
(気乗り、選りすぐり、利便性、自己不信、展望、元凶、貧者)



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11月15日(日)−貧者

 借りるのは、何故いけないのか。その疑問に答える人は、画面には登場しなかった。権利主張が当然の時勢では、図書館の利用も、納税者の権利として認識される。平等の観点からは、権利についても同じことで、ただで手に入るものも、受け取って何が悪いのか、となるのだ。不文律では、理解される筈もないからか。
 裕福な家庭には、百科事典が揃っているのが、当然と言われた時代もあった。その反面、子供達の読み物を買う余裕もない、貧しい家庭においては、読書の機会を奪われていた。公的な施設としての図書館は、その役を負っており、巡回などの手立てで、自治体の津々浦々に、機会を広げていた。だが、現代の心の貧しい人々には、その意義など理解できる筈もない。権利を掲げ、機会を当然のものとするばかりか、要求を突きつけて、当然の顔をしている。無料に飛びつき、安物を追い求める、さもしい心の持ち主達は、どれほど穢い考え方をしても、それが当然の権利と、我が物顔で振る舞う。将来への不安が、全ての根源との指摘もあるが、今を正しく生きずに、将来を語る資格など無い。世の中は、持ちつ持たれつであり、様々なものが巡り巡って、自分の所に戻ってくる。購買という行為は、その一つと挙げられるが、金をせびるばかりで、出し惜しむ人々には、解る訳が無いのだ。何とも情けない情勢だが、これが現実とされている。だからこそ、大きな顔で権利を主張し、恥ずべき要求さえ押し通そうとする。御託を並べずに、欲しいものを手に入れるために、「買う」という行為をすればいい。勿体無いとか、試したいとか、そんなつもりならばいいが、買わずに済ます、という心持ちでは、社会の一員とはならない。新刊本を買い、それを読んだ後も、棚に並べるだけの人間には、金を貯めこむ為に、心を貧しくする人々の気持ちは、理解できない。

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11月14日(土)−元凶

 誰しも、自分が悪いとは思いたくない。ただ、様々な要素が絡み合う条件の中では、責任の一端を負わされる場合もある。そんな時、多くの人は、自らの行動を正当化し、過ちや誤りがないことを、結論づけようとする。当然の権利と、誰もが思うものだが、過剰なものが目立っている。時には、攻撃的なものさえあるのだ。
 正当化は、防衛の一種であり、自らの立場や権利を守る為とされる。ただ、過剰なものや、攻撃的なものに出合うと、何かが違うのでは、と思うことが屡々ある。当事者は、当然のこととして、説明を施し、意見を述べている。だが、その中身は、必ずしも正当なものとは思えず、偏見に基づくものが多い。活字離れが問題視されるようになってから久しいが、関係者の間から、新たな意見が出てきたと、報道は伝えている。ここでは既に何度も取り上げたことだから、何の違和感も持たなかったが、多くの人は、疑問を抱いたとも伝えられる。それは、図書館の存在が、出版界に悪影響を及ぼすというもので、読書好きの人々にとっては、寝耳に水と聞こえたようだ。出版社の社長の要望は、新刊本の貸し出しの猶予を訴えるもので、それが人気本の売れ行きを抑制するとの根拠からだった。権利を侵害するかのような意見に対し、多くは反対を唱える。だが、ここでの正当化には、多くの矛盾が見えている。古本を売る商売こそが元凶とか、電子媒体の導入が悪いとか、企業努力が足らないとか、他人のせいにする意見が並ぶが、何故、自分が買わずに借りるかの理由を述べる人はいない。新幹線の中で、図書館のシールの付いた本を読む人が、目立つようになったのは、随分昔の話題だが、これが問題と思うのは、金持ちと図書館の関係からだ。貧乏人にも学習の機会を、という点は、敢えて言わずとも、設置の目的に含まれるものだが、読書に耽る乗客達には、その意識はない。購買層の離脱こそが、原因に違いないのだから、その理由は何処に、といった考えからの要望だとしたら、この指摘こそが、正しいのではないか。

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11月13日(金)−展望

 積極的な動きが評価されるが、その基準は何処にあるのだろう。失敗を恐れずに、何事にも挑む姿勢は、確かに、評価の対象となりそうに思える。だが、それが、思惑によるものであり、始めから、何の見込みもなかったとしたら、評価できないのではないか。何かのふりをするとはよく言われることだが、そんな具合で。
 新たな展開を求めて、様々に働きかける。政治の世界では、同じ思いを抱く者達が、ある集団を形成することは、よくあることであり、それが党と呼ばれる組織となる。個人より集団が評価されるのは、それが権利を得るために必要だからで、そこには様々な思惑が蠢くと言われる。くっついたり離れたり、あの忙しい展開に、選んだ筈の人々も、何をしているのか解らない、と首を傾げる。安定の時代に、これほどの変化を追い求めるのには、何か理由があるに違いない。だが、それを理解する必要はなく、勝手な都合で動き回る人々を、冷めた目で眺めればいいだけのことだ。それに、騒ぎの渦の中心にいるのは、いつも同じ人々であることを考えると、彼らの目的が、実は全く違うところにあることが見える。権力を握るという願望は、この世界に乗り出す人々に共通のものであり、それに到達する為に、あらゆる努力を惜しまないと言われる。本来、政に携わるのは、国や自治体を本位に考える人々であるべきで、個人の願望は、二の次になる。だが、現状は、愚かな人々が、私利私欲に走る世界となっている。これでは、何かを根本的に変えることは、できないだろう。では、選ぶ側にいる一人一人は、何をしたらいいのだろう。ここでも、目の前の「甘い誘い」に、惑わされないことが第一なのではないか。当然のことが、当然でない時代、一世紀ほど前にも、そんなことがあったらしい。

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11月12日(木)−自己不信

 自分を信じると書いて、自信となる。自信に溢れる人間に憧れる人々は、どうすれば自らを信じられるようになるのか、と悩むとも聞くが、この考えは当たっているのだろうか。成功した人間の殆どは、当然の如く、自信に満ち溢れているのだが、その一方で、自分の言動を信じているかどうかは、別なのではないか。
 成功を続ける姿を見ていると、その過程で信念を持って突き進む姿勢が見え、これこそが自信なのだと思う人が居る。そんな時、当人に聞いてみたらいいのに、と思うのはおかしなことだろうか。時に、自信に満ち溢れた答えが返ってくることもあるが、実際には、不安な点や異常を指摘する場合が多いようだ。つまり、決断に関しては、ある程度の自信を持って下すものの、それが絶対に問題を生じないとは、思い込んでいないのだ。自信が持てない人の多くは、この点で、正反対の対応をする。つまり、決断に対して自信がないのに、一度始めたことに関しては、問題ないものと見做し、変更や改善を考えないのだ。成功を続ける人は、傍目には楽観的に見えるのだろうが、実際には、悲観的な取り組み姿勢を貫いていることが多い。転ばぬ先の杖ではないが、最悪の筋書きをも想定し、それを回避する手立てを、前もって講じておいたり、そこまででなくとも、いざという窮地に対して、素早く対応できる準備ができている訳だ。一見簡単に思えることも、心の準備が整っていないと、最善の対応ができず、無駄や失敗を繰り返す。この原因には、楽観視が当てはまる場合が多く、悲観的な見方は、軌道修正を含めて、成功への重要な道筋を、明確化してくれる。憧れるだけの人に目立つのは、この辺りの誤解であり、それが主たる原因だとは気付かぬことだろう。これでは、正しい選択をすることもできず、結果的には、何度も失敗を繰り返すことになる。悲観を持ち続けた後で、成功を手に入れた際に、一度きりの楽観を感じるということか。

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11月11日(水)−利便性

 便利かどうかが鍵となる、との指摘が聞こえる。新しい製品が出た時に、その使い勝手が問題とされ、それによって、何が手に入れられるかが議論される。確かに、より良い生活を求める為に、便利さは一つの要素となる訳だが、その一方で、失われるものに対して、目が向けられることは、あまりに少なくないか。
 失われるものに関しても、風情とか気分といった程度のものならば、感じ方一つで大きく異なってくるから、無視しても影響は少なく済む。だが、それが人間の能力に関することとなると、便利さを手に入れることで、能力減退を招くこととなり、生き物としての問題が起きてきそうにも思える。例えば、携帯電話を手にした頃から、人々が電話番号を覚える習慣から遠ざかり、記憶することが無くなった。記録媒体があるのだから、その必要はない、という意見には、何の間違いもないのだが、記憶しようとする習慣から離れることは、何かを覚えようとする頭の動きを、鈍くすることには繋がらないのだろうか。覚えることより、考えることが大切との意見もあるが、もともと、人間が生まれながらにして持つ記憶媒体を、衰えさせることに、意味があるようには思えない。基本能力の減退が、更に高度な能力の減退に繋がらないか、誰にも答えは見えないのだが、心配はない訳ではない。使わずに済むなら、他の目的に、という意見もあり、そういったことに力を入れる人もいるが、実際には、かなり少ないようだ。同じように、携帯電話が様々な機能を搭載し、画像や音声を記録する能力を獲得した頃から、使用者のメモ能力が、大きく減退したと指摘される。記録には間違いがない、との指摘がある一方で、メモは画像や音声をそのままに残すのではなく、肝心な部分のみを残すことから、その過程で内容をまとめる必要があり、その能力を伸ばす効用があったとも言われる。これも、今では失われつつあり、実際に問題視する意見もあるが、肝心の人々は、気付く気配さえない。

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11月10日(火)−選りすぐり

 すっかり忘れ去られた言葉だが、一芸入試という制度が持て囃された時代があった。全体的に平均的な能力を測る、一般の記述式の入試とは異なり、一つのことに秀でた人材を集めようとする動きだったが、徐々に萎み始め、ついには廃止されてしまったようだ。一部、模様替えといった形で、異なる指標のものが出てきていた。
 ただ、新しい形式も、好ましい結果が得られず、次々に消えていっているようだ。一芸と呼ばれるものの効用は、一つのことに打ち込む姿勢が、大学での勉学にも良い影響を及ぼすとの期待へと繋がり、これまでにない能力を持つ人材を、育成できると思われたからだ。だが、実際には、これまで以上に問題が噴出し、教えることの難しさを、痛感することとなった。そう思って眺めれば、高等教育機関は、元々、入学者が持つ潜在能力を、掘り出した上で伸ばす能力を持ち合わせておらず、単純に、これらの人々が、自分なりに成長するための時間を提供していたに過ぎない。その中に、別の種類の人々を招き入れたことは、混乱を来しただけであり、異種は単なる異端に終わっただけのことだろう。特に、一部の秀でた人に対して、多数の脱落者を出したことは、機会を与えることに対する、困難を実感させるものとなった。今、最高学府の頂点に立つ組織が、新たな制度を実施することが、話題となっているようだが、その一方で、要求される学力の高さを、批判する声が高まっている。その主たちは、これまでにも懲りない態度で、評判を落とし続けているが、今回もその一つに数え上げられそうだ。成果を要求される風潮の中では、確実な道を選ばざるを得ない。その中で、新しい試みとはいえ、確実な成果を得ようとすれば、伍するだけの能力を必要とするのは、当然のことだろう。とはいえ、彼らが国を支えるほどの能力を発揮できるかは、組織ではなく、個人に帰する問題となる。

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11月9日(月)−気乗り

 騙されてはいけないとは、何度も書いてきたが、現実には、人生の節目で、何度も騙されるのが、人間なのではないか。不確定な状況で、ある囁きが方向を決めることは、誰もが経験することだ。確実でもないことを、どこか確かなことのように、指し示されると、それまでの迷いは解消され、突き進むべき道が見えてくる。
 結果的に、良い方向に進めば、いい加減な言葉も、助言と扱われる。発言者がどんな心理で呟いたのかは、定かではないが、それを聞いた人物には、後押しをしてくれたものとして、強く印象付けられる。金銭の取引などに関わるものであれば、明らかな詐欺行為であり、騙されたことは確かだろうが、進むべき道を、岐路に立つ人間に対して、指し示す場合には、その発言は、必ずしも詐言とは言えないだろう。幾つかの可能性の内、実現の割合が高いものや、将来的に有用なものを、選び出す作業では、確実性を優先させることが、必ずしも良い結果を産む訳ではない。それより、自分自身が好ましいと思うものを選び、そこに力を注ぐことの方が、結果を良好にする場合が多いのだ。その際に、自分だけでは自信が持てないものでも、誰かが支えてくれるとなれば、様相が一変することがある。そんな時、騙されてみるのも、一つの方法となる。踏み固めた上で、確実な道を歩みたいのであれば、そうすれば良いのだろうが、ここは一つ勝負に出たい、と思った時には、誰かの後押しが大きな影響を及ぼす。実行するのは自分だから、押してくれた人が手を差し伸べるとは限らない。却って、厳しい意見を突きつけてくる場合も多く、期待が大きいからこその対応とも見える。そこまで考えながら、助言を受けて行動を決めるのであれば、騙されることも、悪影響は及ぼさない。逆の見方をすれば、そういう騙しを施し、後押ししてやることも、時には必要となる訳だ。こんな人の多くは、そんな意識を持っているから、気軽に騙すと口走るから、時に、誤解を産む訳だろうが。

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