学びの現場で、よく聞かれる表現に、役に立つかどうか、がある。今学ばねばならないのは、それが将来役に立つことだから、という説明は、納得できると思えるからだが、これは、正しいのだろうか。今更そんなこと、と思われるかもしれないが、将来、何が起きるかわからないのに、役に立つと言えるのは何故か。
素直な子供達は、こんな疑問を抱かず、役に立つから大切と理解する。これが、将来、邪魔になる考えであることに、子供が気付く筈もない。大人の一言が、大きな影響を及ぼすことは、沢山あるけれども、それが学びの場であるだけに、問題は大きい。識者が、数学の役立たなさを取り上げ、無駄かのように主張したのは、本人の不見識を表し、彼女が属する世界からも、厳しい意見が続いた。役に立たないという考えからは、小説はその代表と言われていて、何を今更とも糾弾された。ここまでの無理解はないものの、毎日、各地の学校で呟かれる、「役に立つ」という言葉は、兎に角、誤解を根付かせる役にしか、立っていないようだ。知りたいとの欲の有る無しは、人の成長にとって、大きな意味を持つけれど、学校では、人それぞれに扱うことは、許されていない。ここでも、平等という名の下に、おかしな指導が行われており、幼い心の中の歪みは、溜められていく。知りたい者だけが、知る機会を与えられた時代には、何も問題が起きなかったのに、いつの間にやら、自分達の力を誇示したい人々が、ありもしない話をでっち上げ、教育の力を過大評価してきた結果、歪みが強まり、それを正当化するために、役立つという表現が持ち込まれたらしい。結果は悲惨なものであり、無用の長物を与えられた子供達は、戸惑う暇も与えられず、勉強を強いられる。好きにさせれば、と思うのは、いけないらしい。
仲間意識が強すぎることが、島国根性の表れと見る人が居る。その根性を嫌うことから、仲間を大切にする気持ちを、蔑ろにする意見が出るが、歪んだ考え方としか見えない。この手の輩の中には、自分が属する社会を、好ましいと思うことさえ、危険思想と見る人が居て、何かにつけて批判の矢を浴びせ続ける。
そんな人は居ないのでは、と思う人も多いだろうが、例えば、昔の宰相が、愛国心の話題を持ち出した時に、厳しい批判を浴びせていた人は、どんな根拠を持っていたのか、思い出して欲しい。まるで、戦争に突き進んでいった、あの頃を想起させるような論理に、違和感を覚えた人は、少なくないと思う。羹に懲りたことから、あらゆるものを同じように扱うことは、無知の表れなのだが、この輩の多くは、口数だけは多いから、持論を押し付ける為に、あらゆる努力を惜しまず、反論下手な人々を誘導しようとする。愛するという行為には、幾らかの誤解があるから、気恥ずかしさが先に立つ人々は、国を愛するとか、郷土を愛するといった表現に、戸惑いを覚えるかもしれないが、愛は盲目という意味ではなく、自分が属するものへの愛着を、誰もが持つべきという考えは、ごく当然のものとして、世界に通用するものに違いない。自分しか信じられず、私利私欲に走る人々には、ある重要な感覚が失われている。人間として、当然備えられているはずの感覚が、徐々に失われた結果、自分しか残らなかったのだが、家族や社会の一員として、必要となる感覚は、互いを信頼しあうことであり、別の見方からは、信頼される存在となることで、その為に必要なのは、互いに共有できる、道徳や倫理というものなのだ。そこに、愛着が不可欠となるが、それが邪魔との扱いを、ある時代、ある人々が施し、今の歪みを招いていった。そう思うと、小学生が郷土の偉人の功績を、道徳の資料から学んだのも、そんな意図があったのかと納得できる。
潔さに憧れる人は多い。女々しさや煮え切れなさが、厳しく批判されるのに対し、きっぱりと断言する姿は、如何にも自信に溢れたものに映るからだろう。だが、そう思えた人々の、その後の行動を眺め、彼らの潔さが招いたその後の動向を見ると、それらの多くが、深慮遠謀によるものではなく、見得を切っただけのこととわかる。
時勢を読み取り、流れに乗ることで、人々の歓心を買う。このように芝居がかった行動を、最近の人々は、好ましく受け取るようだ。自分にはできないこととの評価も、その内容の吟味ではなく、表面的なものに目が奪われた結果であり、結局、何も見抜くことができない、愚かさを露呈したに過ぎない。独自の判断を下せる人間であれば、世間体を気にする必要は認めず、評判よりも自分なりの評価を優先する。逆の行動を示す人々は、流れに乗ることばかりに心が奪われ、本質を見抜くことを忘れている。この手の人々の多くは、実はその為に必要となる能力を持たず、ただ、雰囲気に流されることで、乗り遅れていないことだけを確認する。現代社会が抱える問題の多くは、こんなことしかできない無能な人々が、組織の中枢に居座っていることから起き、愚民政治が、愚かな人々によって行われていることを、強く感じさせる。国にしても、企業にしても、愚かさに気付かぬ人々が、舵を握っているから、迷走は避けきれない。それが、更に小さな組織となれば、潔さに酔う愚かな人々が、重要な決断を誤ることとなる。洗練されていない、田舎の感覚と、揶揄されることが多いが、実際には、国を挙げての愚行の連続だけに、島国根性とでも言わねば、いけないのかもしれない。
権利を掲げる人々の頭の中は、平等という考え方で満たされているのだろう。誰もが同じ権利を得られる、とする考え方は、あらゆる面で魅力的に映り、可能性を広げているように見えるからだ。能力に関しても、同じ考えが適用され、誰もが、教育機会を得さえすれば、無限の可能性を手に入れられると言われる。
可能性を否定することは難しく、上に書いたことも否定することは困難となる。それに乗じたとすると、激しい反対がある業界から出てくるだろうが、現実には、機会だけで済むものではなく、努力が満たされなければ、何事も実現しないものだ。評価を高める為に、できそうにもないことまで、可能性として示してきた人々は、依然として、夢を追い続けている。それと同じように、権利主張の中心は、平等の考えを前に押し出し、あらゆるものを手に入れようとする。だが、社会の中での多様性は、皆が同じという考えとは合わず、それぞれに、異なる役割を果たしてこそ、複雑な構造を保つことができる。そこでは、権利の履行についても、皆が同じである筈もなく、各人が異なる権利を手に入れる。その上、権利の付与に関しても、条件付きのものが当然となり、望む側からすれば、時に厳しい制限がかけられる。平等とは程遠い状況だが、これこそが、平べったく単純な構造ではなく、複雑に積み重なった構造の核となるべきものであり、人それぞれに、その階層のどこに属するかが、何かしらの要素によって、決まってくる。士農工商や華族制度のように、生まれながらに決められたものでなく、努力の積み重ねによって手に入れた地位に対して、階層が決められる訳だが、そこから、役割が導き出せる。富裕層と貧困層の違いも、その一つであり、果たすべき役割は、自ずと違ってくる筈だ。それを無視し、相変わらずの権利主張をするようでは、別の階層に移した方が、いいのではないか。
昔、小さな町には貸本屋があった。漫画から純文学まで、その範囲が広かったのは、客の年齢層の幅によったのだろう。小さな子供から大人まで、多くの人が利用していたと記憶している。しかし、いつの間にか姿を消し、その存在意義を思い出すことも難しくなった。古本屋も図書館も、あった筈なのだが。
本を読むことに飢えた人々が、殺到したと伝えられる、敗戦直後の状況も、今と比べてどうだったのか、うまく説明できない。と言うより、おそらく、現代人の感覚で、そういった心理を理解することは、困難なのだろうと思う。そんな時代を経て、書籍や雑誌の流通が整備された頃から、貸本という商売が成立するようになった。整備されたとはいえ、毎日の小遣いでは、手に入れられない子供達が、店先に群がったが、彼らの多くは、普通の本屋の店先に並んだ、新刊の漫画雑誌を、手にとって夢中になるうちに、店番の叩きの犠牲となっていた。当時、立ち読みも、本好きの人々の行動となっていたが、今では、椅子まで用意され、座り読みができる書店までがある。活字離れが深刻となり、売行きが芳しくない状況に、様々な工夫がなされるが、効果の程は定かではない。その中で、図書館の貸出に関して、先日の指摘が話題となっているが、何がどう変化したのか。こういう時代の流れを思い出してみても、その答えを見出すことは難しい。古本屋ばかりか、貸本屋が存在した時代でさえ、本の流通には何の問題もなく、売行きへの影響も大したことはなかった。それが大規模となることで、悪影響が顕在化したとの指摘も、果たしてそうなのかと思う。一人一人の意識の問題は、こういう社会制度を思い出しても、解き明かすことは難しい。違う感覚の人間の、考えを理解することも、殆ど不可能なのだ。多文化共生などと、異なるものへの理解を促す動きは、様々に進められているが、そんなことより、あるべき姿を確かめる方が、遥かに大切なのではないか。
何度も書いてきたことを、繰り返したくなるような話だ。権利に目を奪われ、社会の崩壊に目を向けようとしない人々に、何を言っても始まらない。だが、一部の非常識が、社会全体に広がることは、道徳や倫理を説くことで、防げるように思う。恥の文化と呼ばれたものが、依然として、奥の方に眠っているからだ。
図書館の存在意義を、自分中心にしか考えられない人々には、出版社が提案した規制を、実施するしか対応法は無い。活字から離れていないことを、ある意味、誇りのように振る舞う人々は、良識を備えた人間との自覚があるのだろう。だが、勝手に築き上げた論理による、良識などというものに、何の意味も無いのではないか。理屈を捏ねるにしても、すぐに破綻するようなものに、価値がある筈もないが、自己中心の人間達にとっては、主張をすることに意味があり、その中身には深い考えは無い。興味を抱いたことを、満たす為の手立てには、様々あるに違いないが、安易で安価なものに手を出すことに、恥ずかしさが伴われなくなったことが、現代社会の病状の深刻さを、表しているように感じる。市民の要求に応えるのが、公僕たる人々の役割とは、当然に思えることだが、これが、愚民からのものとなると、話は違ってくる。持ちつ持たれつの社会において、自分をどの立場に置くかは、各人の感覚に委ねられている。だからこそ、権利主張は当然のものとなるが、それぞれの立場に与えられたものは、異なっていて当たり前のことだ。にも拘らず、平等の二文字を掲げて、何もかも手に入れようとする。さもしさとか、貧しい心とか、揶揄する言葉は数多浮かぶが、どこ吹く風の人々には、届きそうにもない。複数冊を準備したり、予約制度を採り入れたりと、要望に応えようとする動きは、整えられているけれど、それを利用するかは、市民の判断にかかる。どうすべきかは、明らかなのでは。
分相応とか身の丈とか、そんな言葉で戒められるのは、実力に似合わぬ行動や、度の過ぎた要求などが、主となるのだが、最近の問題は、全く別の集団から出ている。ある程度の地位を得て、確かな収入を得ているにも拘らず、大衆の要望に便乗しようとする人々は、権利を念頭に置いているのだろうか。
分不相応とか身の丈に合わないという言葉は、何も背伸びをする人だけに当てはまる訳ではない。ぶかぶかの上着を羽織ることによる不似合いではなく、パンパンに膨らんだ小さな上着を無理矢理に着込むことによる不似合いも、その範疇に入れられる。生活に余裕のある人々が、安売りを求めて、市内を走り回る姿は、情けなく映るし、その為に、豪華な自家用車を走らせていては、何が節約なのか、訳が分からなくなる。人は、それぞれに地位に見合った態度が求められ、権威を失わぬように諌められる。それこそが、希望の星のとるべき姿勢であり、憧れの対象というものだろう。まるで成金の如く、金に煩く振る舞う人々は、心の地位がついていけていないのではないか。さもしいとか、金に穢いとか、そんな目で見られる人の一部には、こんな姿が目立つものだ。以前なら、恥ずかしいという感覚や、見栄を張るという心理が、様々な形で効果を上げていたものだが、最近は、権利とか平等といった感覚が、全ての判断の基準となり、明らかに不要な筈の人々までもが、施しを受けて当然という顔をする。それを情けないと思うのも、ほんの一握りの人間に過ぎず、権利主張を当然と見る人々には、どこが悪いのかと思えるようだ。本当に読みたい本であれば、身銭を切ってでも手に入れるべきが、何ヶ月待たされてもよしとする。更には、人より早く借りられたら、まるで勝ち誇ったように振る舞う。情けないと思わないのか、と愚問をぶつけても、どこ吹く風なのだろう。