愛玩動物の行動を、人のものに当てはめて受け取る。飼い主の愛情の表れ、とも評される行動だが、これとよく似たものが、研究の世界でも行われていた。動物記とか昆虫記とか、そんな書物の中には、子供向けに書かれたものが多く、動物や昆虫の本能に従った行動から、何かを学ばせようとの意図があったようだ。
子供の頃、教育学者と呼ばれた人が、司会を務める番組に、ちょっとしたきっかけから、出ることがあった。親子の愛情についての回だったが、自分が買っていた小鳥の話を引き合いに出し、人間のような親と子の愛は、彼らにはないと答えたと記憶している。ところが、出演していた専門家と称する人は、直接的ではなかったが、それを否定する正反対の論を広げ、口先だけで中身がない、といった印象を覚えた。心が幼く、生意気な子供ではなかったが、自分で見たものを信じ、大人の言うことを鵜呑みにはしない、そんな部分はあったのだと思う。それにしても、何故、あのように擬人化を優先させるのか、今思い出しても、不思議な考えだと思う。だが、当時の学界では、そんな論理も強く批判されることなく、分かり易いものと見做されていたようだ。大学に入る頃にも、まだ、そんな状況に大した変化はなく、特に、霊長類の研究では、人間の行動との比較や、人間に見做したような解釈が、重視されていたようだ。科学とはいえ、人間の営みの一部に過ぎず、その多くは、人間の手の届く範囲で行われる。分析の上での解釈でも、その根拠となるものが、自分達の考えが及ぶ範囲に留まるのは、ある意味、当然のことなのかもしれない。にしても、研究者の独自性は、何処へ行ってしまったのか。あるいは、西洋の考えが、全く違う観点に基づくから、そこに独自性があったというのか。目の前の猫や犬も、身勝手な人間と同じと見做されては、迷惑千万なのではないか。
統計を正しく使う、正しく理解する。こんな表現を屡々聞くようになったのは、それだけ、統計が重要な道具となり、様々な主張の場面で、度々使われるようになったからだろう。だが、ただそれだけなら、正しく、などと改めて言う必要はない。誤解を招くだけでなく、都合のいい処理で、出鱈目を述べることが多いからだ。
統計の基本となるデータ集めでも、意図的な処理を施し、不都合なものを排除することがある。そこから導かれる統計は、その後の処理がいかに正しいものでも、大元の数値に意図的な操作が加えられているから、正しく使ったことにはならず、改竄と断定されることとなる。数字だけが表に現れ、それらの比較に基づいて、展開された論理では、どんなに厳密な議論を施しても、意味を成さないものになる。正しく理解する為に必要なことは、単に統計操作についてのことや、その後の論理展開に関することだけでなく、実は、情報収集の段階から始めなければならない。ある大学病院での術後の死亡率の高さが、突出しているとの報道から、術前の説明や病院の体制の不備が指摘され、厳しい処分が下されたが、その際の、関係学会の振る舞いには、信頼を失いかねないものが多く見られた。おそらく、汚名返上とか名誉回復を目指したのだろうが、最近、指定病院の再検討を行ったとの報道があった。その基準が、術後の死亡率を精査した結果と伝えられたが、何倍という判断基準には、様々な疑問が浮かんでしまう。率を導き出す基本となる母数の違いはどうか、平均という統計の基本を用いる場合の、算出方法はいかなるものか、失われた信頼の下で、こんな疑いを向けられた時、学会という名の、利益追求集団が、どんな反応を見せるのだろうか。患者の為と称して、その実、自らの利益を追い求めるのでは、統計も便利な道具としか思われていないのだろう。
若い人々への不満は、いつの時代にも無くなることはない。押し付けに対する反発も、こんな状況だから、無くなる筈もない。だからどうした、という訳でもないのだが、これを改善する必要はあるのだろうか。それに対して、世は総じて、優しい社会の形成を目指しているので、ここでもその心を発揮しようとする。
その結果は、芳しいものではない。こうなって当然という状況を、単なる思い付きで、どうかしようとしても、何も良くなることはなく、却って悪化することの方が多い。思い付きを並べられ、それに振り回された結果、互いの印象は、自ずと悪化する方向に働く。相互理解を目指すとも言われるが、これもまた、簡単には達成できない。逆に言えば、理解する必要があるのか、という問題の方が、遥かに重要な筈なのだが、優しさを目指す人々からは、そんな見方が示されることはない。それより、その場しのぎにも似た形で、応急処置が繰り返され、迷走を招いた結果、関わりを持った人々は、彼方此方へと振り回される。理解も、自分の中から出たものならまだしも、結局、押し付けの結果に過ぎない場合、真のものが現れる筈もない。こんなことを繰り返せば、当然、理解は難しくなり、無理解が強まるだけとなる。だが、本来の目的が気になり、それに縛られているから、逆に、悪いことの方が目立つだけのことだ。こんなことなら、何の手当も無用に思えるが、手出しをしたい人々は、そんな状況を放置したくないらしい。結局は、拒絶することで解決を導くしかない。所詮、互いの立場は揺るがぬもので、理解などあり得ないだけだ。あれこれ、無駄なことを考えずに、互いの思いをぶつけておけばいい。
気配りができるかどうかが、人間の格を決めるかのように扱われる。人の上に立てば、他人の気持ちを慮ることが配慮と言われ、人徳を決める鍵となる。成る程と納得する人もいるだろうが、これらの考え方には、大きな欠陥があるように思う。気配りや配慮と称して、自分勝手な考えを押し付ける人が居るからだ。
如何にも、相手の気持ちを汲み取り、それに見合うような対応をしているように見せる人の、傍若無人ぶりを眺めていると、まさに、反吐が出るといった感覚を抱かされる。一見、気配りの人のように見せ、自己中心的な考えに拘る人は、結局、他人からの尊敬を受けることは無い。もし、近付く人間が居るとしたら、同類の思惑に満ちた心の持ち主であり、互いの利益を追求すると見せて、その実、自分のことしか考えない輩なのだろう。自分たちの間では、大いに盛り上がるものの、周囲からは冷ややかな目で見られる。ある意味、幸せなことには、彼らはそういう冷たさに気づくことなく、自己満足に浸っているのだ。こんな人々が近づいてきたら、やれることは多くはない。まず、最低限の関わりを維持した後で、距離を置くようにすることだろう。近づけば、私利私欲の犠牲となる可能性が増し、また、他人の目も気にせねばならなくなる。時に、悪い方に向かった場合には、責任を押し付けられ、あらぬ疑いをかけられることになる。身勝手な人との付き合いは、基本的に難しいと言われるのは、特に、責任問題となった時の豹変ぶりにある。それまでの主体的な言動と違い、突如として、全てを放棄するようなものには、無責任としか思えぬものがある。それでも、個人の問題としては、どんなことをするにしても、自由と見做される。だからこそ、そんな暴挙に巻き込まれぬように、距離を保つことが不可欠となる。人を見る目は、こんな所にも、役立つに違いない。
人参をぶら下げられ、目前の目標達成に精を出す。やる気を起こさせる為に、有用な方法の一つと言われるが、現実には、人参を口に入れることはできず、いつまでも、先へ先へと促される。下らない行動と言えば、その通りに違いないが、国中に蔓延した手法は、今も昔も、衰えることなく実行される。
そんな表現の一つに、山を越えれば楽になる、というものがある。これは基本形だから、時と場合に応じて、細かな表現は違ってくる。例えば、人生を決めると言われる、大学入試では、相変わらず、入れば遊べるとの誘惑が広げられる。一部の例外はあるものの、殆どの現実は、正反対の様相を呈しており、多くの学生は、騙されたことに気づかされる。人生の終焉であればまだしも、道半ばにも達していない人間にとって、次々に現れる目標は、人参に模されようが、必要なものに違いない。努力を続けることの意味は、当事者にとっては見えないものかもしれないが、怠ることで転落するのであれば、踏み外す訳にもいかない。その一方で、同じ努力では、節目で振り分けられた水準から、脱することは不可能だろう。となれば、振り分けられた後の努力は、前と同じ形で進めたとしても、打開策とはならない。大学で言えば、記憶力を主体に選別された訳で、同じように丸暗記する能力を伸ばそうにも、限界は明確に示されている。つまり、発想の転換を求められており、違う能力を発揮する必要がある訳だ。では、何をどうすればいいのか。単純には、自分なりの工夫を、となるのだが、何でもかんでも授けられる時代には、自己開発は無駄とされる。現場では、丸暗記ではなく、事項を関連付ける、所謂連想力を鍛える必要性が示される。ただ、言葉での説明は、理解を促すには不十分で、やはり、自分なりの試行錯誤が必要だろう。人参も、自分で下げるくらいの意欲で。
高齢化の問題が深刻になりつつある。そんな指摘がある一方で、若者への支援を充実させるべき、との意見も出される。相も変わらぬ状況だが、無い袖をどう繋ぐつもりなのか、舵取りの難しさは尋常ではない。だが、金の工面ばかりを取り上げ、根本的な問題を掘り下げようとしない態度には、期待が持てる筈もない。
弱い者は保護されるべき、という考え方が浸透した時代には、問題の本質よりも、弱者保護が優先され、表面的な施しばかりに目が奪われる。だが、高齢層にしても、若年層にしても、総じて弱い者として扱う必要はない。にも拘らず、十把一絡げに扱うことが、世論となっているように思う。高齢者に関しても、悲惨な事件が続くから、困窮問題が深刻になっているように思えるが、現実には、一握りの問題でしかない。団塊前の世代が、高齢者の大半を占めるようになると、権利主張がこれまでになく強まるから、社会全体の負担は膨らみかねない。だが、これまで同様に、思い通りに動かそうとする人々の口車に、いとも簡単に乗せられているに過ぎない。もっと、本質を見抜く姿勢を見せないと、また騙されることになるだけだ。年寄りの身勝手に、眉を顰めざるを得ないことは、度々起きているが、例えば、交通事故の被害者に関する話も、その一つだろう。高齢者が大半を占める状況に、対策が喫緊の課題のように扱われるが、実際には、交通法規を守ろうともせず、危険な道路横断をする高齢者の姿に、呆れるしかない状況もある。実は、被害は、こんな人々に出くわした運転者にあり、弱者保護を盾に、厳しく罰せられる。何事も、弱い側への権利が訴えられるが、我が物顔で闊歩する年寄りに、与える必要があるとは思えない。敬う心も、失せてしまう行状に、もっと厳しく対応すべきだろう。自己中心は、若者の専売特許ではないのだ。
働く目的は何か、こんな疑問を直接ぶつけられたことは、あるだろうか。毎日、何の疑問も抱かず、習慣のように出掛ける人から見ると、逆の何故、が頭に浮かんでくる。そんな当然に、疑問を浮かべるのは、それが当然でないからだが、社会で育っていく中で、自然に理解できる筈のことが、そうなっていないからだろうか。
この件に関しても、理屈を捏ねることはできるが、疑問を抱いた人間に、それが理解できるかは、怪しいものだろう。常識とか理屈といったものは、同じ感覚を持つ人だけに通用し、そこからはみ出した人には、理解できないものだからだ。では、何をどうすれば、その疑問に答えることができるのか。どうも、簡単なことではないらしい。同じような感覚を持つのは、最近話題になっている、労働環境の問題だろう。残業の多さや、その扱いの不法ぶり、様々な問題が取り上げられる中で、特に注目が集まるのは、バイトやパートと呼ばれる、正式な雇用形態ではなく、臨時雇いのような形のものに対してで、不安定な環境への不安や心配に加え、不当な扱いが的となっている。それも、以前なら、給与に関するものばかりだったのに、いつ頃からか、正式に雇用された社員がやるべき事まで、やらされていることに、集中しているように見える。支払いが滞る場合には、違法行為として認定し易くなるが、仕事の内容に関しては、どうだろうか。何故断らないのか、との疑問を持つ人も多いだろうが、当事者の心理は、すぐには理解できない。叱ることを避ける心理と同様に、断ることで、相手に不快な思いを抱かせるから、という説明もあるが、どうなのだろう。働く現場での人間関係は、何らかの形で形成されるが、そこに何か違ったものが出てきたのだろうか。冷静に見てみないと、問題の本質を見誤ることになりかねないが、困っている人を助けたい、と願う人には、目の前の問題だけが、問題なのだろう。