収入をどうするかの算段をしている筈なのに、何故だか、財源の問題が取り沙汰される。何の疑問も抱かない人も居るだろうが、すぐには納得できない人も多いのではないか。何故なら、収入は財源を指すものであり、それが増えるか減るかは、財源の多少を示すだけで、支出の問題が論じられるべきと思えるからだ。
一見、矛盾に思える報道に、的確な説明は無い。それより、注目の的に据えられたのは、区分の難しさであり、処理の煩雑さであった。問題の本質ではなく、瑣末な問題に議論を導く傾向は、現代社会が抱える大きな病に思えるが、瑣末なものを論じる人々は、さも大きなものの如く扱い、持論を展開させている。だが、所詮、瑣末は瑣末であり、小さなものは、どんなに大きく見せようとも、大した姿には変えられない。日常生活に必須のものなら、そこからむしり取ることなど、始めから止めてしまえばいいのに、と思うのは、現実を見ぬ人との指摘があろうが、本質がどこにあるかを見ずに、現実を口にするほどの明き盲は居ないのではないか。まして、そこに、低所得者の食生活を引き合いに出すようでは、問題を複雑にするだけで、本質を暈すだけの効果しか感じられない。では、何故、財源の問題が重要なのか。それは、支出の額が決まっていて、その為に、どこからむしり取るかが検討されたからだ。それが率を決める根拠となり、皮算用を繰り返した挙句、それで、数式の上では、引き算の答えが、満足いくものとなった。そこに横槍が入り、引くものは変わらぬのに、引かれるものが小さくなって、足らないという話になったからだ。家計との違いはあるだろうが、こんな収入と支出の考え方は、庶民には理解し難いものだろう。不安を抱く生活の中では、特に、なるべく確実な収入を確保し、そこからの支出をいかに算段するかが肝心となる。ところが、ここで論じられているのは、全く違った考え方なのだ。選ばれたいからこそ、むしり取る額を少なくしようとする。何とも情けない心根ではないか。
成長期には、何の問題も感じなかったのに、閉塞感や停滞感が漂い始めた途端に、大きな問題があるかのように扱う。何が違うのかは、全くわからないのに、兎に角、現状を打破しなければならないと、打開策を講じる。この間まで、何も問題が無いと言っていたものが、急に、こうなったことに、違和感を覚える。
こんな調子で、急激に方向転換をすれば、現場の混乱は免れない。一部には、微温湯に浸かっていたのだから、急激な変化によって、目を覚まさせることが必要、との意見もあるが、何が問題なのかを確かめずに、ただ変えればいいという考えは、迷走を招くだけで、解決の糸口さえ見出せないのではないか。だが、こんな愚行は度々起こり、様々な無駄を作り出してきた。その上、その失敗の原因さえ、見極めようとする余裕がなく、ただ、闇雲に走り回り、手当てをしている気分を抱く。これでは、成長期に慢心が起こったのと、何も変わらないことになる。急変を引き起こす為と称して、新たな血を注ぎ入れるのも、そんな愚かな判断の一つだが、偶々、当りを引くこともある。それに味をしめた人々は、次々と体制を変更し、それをきっかけに、全く別の方式へと転換する。確率はゼロではないから、当然当たることもあるだろうが、何をどうすれば、ということさえ考えずに、大転換をしたからといって、好転するとは限らない。何十年もの間、停滞期が続いてきた国では、急激な変化が歓迎されてきたが、何も変わらなかったどころか、悪影響の方が遥かに多かったように思う。そんな中で、思いつきを並べ続けた人達は、また、何か新たな無駄を始めようとしている。所詮、何を言っても始まらないのは、政の常だが、それにしても、役立たずとは、こんなものを指すのだろう。
一人前になるのは、何歳の時なのか、ついこの間議論が繰り広げられたが、全く違った尺度を持ち出し、相も変わらぬ、下らない結論が導かれた。独立するという感覚にしても、経済的なものから、心理的なものまで、様々な尺度が考えられる。しかし、そこで用いられたのは、自分達の利益だけだったようだ。
人を選ぶ為の基準を持つかどうかは、一人前の要素の一つとなるが、それに見合うかどうかを持ち込まず、若年齢化することで、制度の転換を図るという、当事者を無視した判断が下された。実際、報道で扱われる、若者達の言動を眺めると、あまりの幼稚ぶりに、呆れるばかりとなる。だが、こんなことも、実は、いい大人達が、身勝手な発言を繰り返すようでは、批判の対象とはなり得ない。いつからこんなことになったのか、と年寄り共は、嘆くのだろうが、その原因を作った責任の一端は、彼らにもあるのではないか。躾を忘れ、勝手な言動を放置した結果、こんないい大人達が、社会に溢れることになった。もう遅いとも言えるが、それでは、先行きが暗くなり過ぎる。それより、今からでも、圧力を与えることを始めてはどうか。以前より、難しくなっていることは事実で、新たな道具を手に入れた、幼い心の持ち主達は、我が物顔で動き回る。叱ることができない人々に囲まれ、呆然とする雰囲気の中、自慢顔を見せる若者達に、明るい未来などある筈もない。大人の責任などと、口走っている間に、いつの間にか、大人の仲間入りをさせられた人々に、責任を果たす心も能力も無い。だとしたら、いい大人だろうが、若者だろうが、幼稚な心の持ち主に、厳しい言葉を浴びせ、叱咤激励しなければ、何も変わりはしない。
基盤は揺るがないとする一方で、時代の流れに乗り遅れる。世代間の溝は、深く広くなるばかりのように見えるが、実際のところはどうなのか。伝統に基づく、堅固な基盤に対して、古臭い印象が強調され、新技術の台頭に危機感を抱く風潮がある。だが、人間であることに変わりはなく、全く違う生き物が生まれる訳ではない。
変化に対応できない状況が、屡々取り上げられるが、その多くは、変化が大きいからではなく、単に、対応力が不足しているだけのようだ。例えば、何度も取り上げたように、SNSに代表される情報交換の仕組みに対して、恰も全く別の考え方が、適用されるとする人々は、その技術の理解に乏しく、その為に中身を吟味することも、及ばなくなるだけなのだ。所詮、幼稚な心の持ち主達が、発信の魅力に囚われ、守るべき礼儀や道徳を、いとも簡単に捨て去った結果、差別や暴力が横行する世界を、築いてきたに過ぎない。その内容を吟味し、特定した発信者に対して、社会的な責任を問わなければ、幼稚なものが成熟することなく、表面的には立派な大人でも、純粋無垢ではなく、単純に自己中心的で、凶暴な心の持ち主が、放置されることになる。誰かが、この傾向を止める必要があるが、家庭でも、学校でも、その実態を把握できず、何が悪いのかさえ暴けない大人が、呆然としたまま、何もできずにいる。教育の効果が、学力についてのみ注目される時代には、心の矯正には、誰も見向きもしないが、秩序ある社会を築く為にも、法治国家を維持する為にも、これらを放置してはならない。誰かが、という考えではなく、自分が、と考えなければ、このような事態を打開することは難しい。
できるのか、できないのか、どちらなのかを尋ねられたら、誰もが、できると答えると思う。だが、それを真剣に論じている人たちの頭の中には、別の打算があるようだ。何しろ、むしり取った筈の金を、様々な区分を施し、戻さねばならない。それも、別の袖で成り立たない部分を、補うためのものも含めて、だ。
消費税という制度自体にも、様々な問題がある。それを放置したまま、税率を上げようとするから、こんな問題が起きるのだ。それを、更に複雑にしているのが、今回の議論なのではないか。生活必需品は、日々の生活に、誰もが必要とするものだけに、出費を抑えることが難しく、収入が限られる中でも、ある割合を占めるものとなる。だから、その分を除外して、他のものに税を課すとする方式は、ごく当然のものと受け取られる。これが、できると考える根拠であり、庶民も含めて、殆どの人の感覚に合致する。だが、税収にしか目が向かない人々には、全く別の基準があるのだ。だから、ここまで追い込まれても、まだ、同意することができない。仕組みとしても、あれこれと問題を提示しているが、その多くは、今の制度でも問題としてあり、こうするから問題が起きる、とする考え方には、事実誤認があるとしか言えない。品目の分類は、多くの商店で使われる、バーコードと呼ばれるものを利用すれば、何の問題も生じずに処理できる。それを問題視するのは、別のことが頭にありながら、それを明言できないという事情による。更に、財源の話を引き合いに出すのも、税収の分配について、直接むしり取る分に目を向けず、間接的なものばかりに頼ることから生じる問題に過ぎず、自ら作り上げた難題なのだ。誰だって、むしりとられるのは御免だが、それが、国民生活に不可欠なものであれば、義務として果たすべきものとなる。こんな簡単なことさえ理解できない人々に、安全安心などと、語って欲しくはない。
報道に疑問を感じることは、数え切れないほどにあるが、今回のものは、どうだろう。損失を被ったのは、企業の不正行為によるものだから、それを補償するのは当然、とするものらしいが、その根拠として、鉄板株とか、安全株という表現が使われ、その信用を失墜させた責任を、問うものだったようだ。
投資家にとって、この表現は、かなりの違和感を持って、受け止められたのではないか。自己責任が殊更に強調された時代、上がるのが当然と思われたものが、突然支えを失うように、崩れ落ちていった。それを眺めていた人々からは、絶対という存在は、消え去った筈ではないか。それを今更のように、鉄板のように堅いものとか、安全という不思議な感覚で、絶対確実のように扱うのは、法律の世界に巣食う連中の、時代の流れに乗り遅れた状況を、如実に表しているように思えた。確かに、不正を働いたことにより、信頼を保とうとしたことは、当事者達も認める所ではあるが、だからと言って、その信頼の下に、投資を決めたことに関して、彼らの責任だけを問うことは、可能なのだろうか。ガセネタに振り回された経験や、経済状況の急変による損失から、自分以外に責任を負わせたいと、思った人は沢山いるだろう。しかし、それを訴訟という形で表現しても、誰からも相手にされない、とも思ったのではないか。今回の対応に関して、どんな展開が起きるのかは、明らかではない。しかし、企業ぐるみの不正だろうが、一個人の不正だろうが、それをも含めた形で、将来を見極めるのが、投資の基本姿勢ではないか。鉄板とか、安全とか、そんな言葉を使った時点で、一筋縄ではいかないことを、既に認識しているように感じられる。様々な形で、不正に対する責任を、負わせることになるのだが、投資家への責任は、どう解釈されるのか。普通の感覚からすれば、何も起きないように思うのだが。
色々な様態をとることから、多様性は魅力的なものに映る。安定する時代には、多くのものが確実な道を歩み、画一化の傾向が増すから、正反対の動向は、それまでに無いものとして、期待が抱かれるのだ。だが、単なる思いつきでは、将来性は無いに等しい。斬新なものは、長く続かないのが常で、次々に新しくしなければならない。
私立か国公立かに関わらず、法人格を得ている中では、大学は独自の道を歩むことができる。これが、「筈」に過ぎないことは、国立大学法人法が制定されて以来の、経過を見れば明らかだが、依然として、監督官庁は、独自路線を強いているようだ。その一方で、予算措置を厳格化し、限られた中での活動を強いられる。独自を歩めば、追加予算を措置するというやり方も、成果を上げているようには見えない。更に、独自性を尊重すると言いながら、大学の体制を、少数の型に嵌めようとする、矛盾に満ちた政策に、監督の手を緩めぬ姿勢が表れている。世界水準という、実体が見えぬものを目標とさせたり、地域貢献という、狭い範囲に押し込めるようでは、そこに独自性があったとしても、それは固定されたものに過ぎず、更なる発展から、型を破るような方向への展開は、全く考えられていない。お上の存在が、常に大きなものであった国では、その権利を手放すことなく、自由や独自性を押し付けるから、まるで、糸に繋がれた虫の如く、狭い所で飛び回るしかない。こんな矛盾を示しながら、できる筈と言い切る人々には、論理の欠片も感じられないが、舵取りを自認するからには、どうにでもなると思っているに違いない。こんな環境でも、各法人が独自の提案をぶつけ、監督者の混乱を引き起こし、変更を受け入れざるを得ない状況に追い込めば、何か変わるのかもしれない。諦めるのは、まだ早いかも。