パンチの独り言

(12月14日〜12月20日)
(失言、恩師、怠慢、利上げ、脅迫、祭事、させる)



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12月20日(日)−させる

 聞こえてくる言葉に、おかしいぞ、と思うことは度々ある。たとえ、それが、言葉にうるさい放送局のものでも、時代の変遷と共に変化してきたものには、異様と思えるものが多くある。特に目立つのは、強制的な表現や押し付けるような表現を避け、対象となる人々の意思を尊重しようとするものではないだろうか。
 配慮を感じるべきとの声もあるだろうが、目上の者が目下の者に対して、何かする時に、相手の意思を尊重するべきという意見には、違和感を禁じ得ない。何故、という疑問さえ起きない、ごく当然のことの筈が、いつの間にか、当然とは受け取られず、力の行使を感じさせるものとして、批判の対象となってきたからだろう。だが、教師が学校で、子供らを教え育む中で、彼らの意思を一々配慮していては、集団教育は滞ってしまう。それでも、個人主義を第一とする風潮では、できないことまで、配慮する姿勢を示す必要があるというのだろう。明らかに、実態とは異なる説明に、普通の感覚を持つ人は、違和感を抱くことになる。しかし、それを当然として表現し、その配慮の必要性を、無意識に受け入れることこそ、現代社会では、不可欠なものとされるのだ。気になる表現には、以前から何度も取り上げてきた、「してあげる」というものと共に、「してもらう」というものがある。ある女優が主人公となって、言葉の乱れを指摘する番組を流してきたのに、いつの間にか、「あげる」という表現を、目下の者ばかりか、人間以外の生き物や物に向かってまで使う風潮に、異様を感じる人は、少なくなりつつある。それに加え、最近の傾向は、「もらう」ことにまで及んでいる。以前なら、「学ばせる」とされた姿勢が、「学んでもらう」となっていることに、言葉の番人達は、何の違和感も抱かないらしい。子供達に、貰ってどうしたいのか、何を依頼するのか、不思議に思う。

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12月19日(土)−祭事

 地方創生、掛け声がないと動かないこの国の特徴なのか、地域おこしと並んで、屡々耳にする言葉である。中央集権の結果として、何もかも集めた結果、後に残ったものは、空の器と言われる。豊かな文化を育んできた、歴史のある地域も、中央へと向かう人の勢いに、忘れ去られた結果、大切なものを失っていった。
 共通とか均一とか、集められたものの統一を図る為に、様々な操作が加えられ、それが地方へと伝えられる。結果は、何処に行っても同じという状態であり、独自色は薄められてしまった。その反省なのか、はたまた、多様性への政策転換なのか、兎に角、地域独自のものを評価する動きが強まり、復活の対象となるものが、急激に増えていく。祭りに関しても、一時途絶えていたものを再開し、その歴史を伝える話が披露されるが、重要な祭事との解説からは、それなら、何故無くなっていたのか、という疑問の答えは見いだせない。言葉の問題も、風習の問題も、どんなに長い歴史を持っていても、それが独自のものであればあるほど、異様なものとして片付けられてきた。画一化を図る政策により、様々な発展があったのも事実だが、反面、それにより排除されてきたものも、少なくはない。それが、地域おこしへと転換された結果、色々な珍しいものが登場したが、果たして、地域にはそれを支える力は残っているのか。物珍しさだけでは、長続きしそうにもないが、今のところ、それ以外の要因は目立っていない。外からの興味を頼みとするのでは、多分、乱立の時代に生き残ることは難しい。地域や地方そのものが、それを支え続けようとする気概を持たないと、また忘れてしまいかねないのだ。要するに、金頼みのやり方では、一時の流行にしかならない、ということだ。

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12月18日(金)−脅迫

 子供らが自らの意思で避難して、助かった話があると思えば、よその国のこととは言え、予測が外れたからといって、法的責任を問われたとの話がある。起これば、被害甚大になる事象だけに、話題に事欠かないのは当然だが、それにしても、恐怖を煽る姿勢が強まることに、別の危機感を抱くべきではないのか。
 次の大地震が起こる確率を発表する際、その率の高さに目が集まるような、仕掛けが施されていたように思う。ただ、例の如くの脅し文句に、あの大震災の記憶が薄れつつある庶民達は、鈍い反応しか示さない。そこで、というつもりかどうかは知らないが、同じ事象が起きた場合の、被害の甚大さを声高に訴え始めた。それまでなら、過大評価と一蹴されそうな予想でも、画像を含めた数々の証拠を味方に、確実なことのように伝えられる。経済動向の予測と同様に、根拠なしのものでも受け入れられるのは、実は、科学の世界の中でも、確率の著しく低いものだからではないか。半世紀を超す程の人生の中で、初めての経験だった人々から見れば、恐ろしい経験という事実と共に、二度と無いのでは、という思いが過る。重い腰を上げない人々に、苛立ちを隠せぬ研究者達は、次の矢を放ったようだ。海からの恐怖だけでなく、高みの見物を決め込む人々にも、甚大な被害が及ぶ恐れがあるとの分析には、例の如く、恐怖を煽ろうと意図して作られた、想定動画が付け加えられる。脅しをかけているのでは、と面と向かって話しかければ、心外との反応が戻ってくるに決まっているが、ここまでの流れに、門外漢には、そんな憶測を抱きたくなる。パンデミックという掛け声の聞こえる学界もあり、脅しは常套手段のように思えるが、まさに、安全安心を欲する時代だからこそのものではないか。それにしても、品の無さばかりが目立つ話題に見えてしまう。

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12月17日(木)−利上げ

 根拠なしの決断に、一部批判が出たものの、織り込み済みという決まり文句は、歓迎の雰囲気へと繋がった。海の向こうの出来事に、これほど騒ぐ必要があるかは、怪しいものだろうが、経済の仕組みにおいては、四六時中動き続ける市場相手に、一喜一憂する人は確かに居る。喜びの根拠は、利益にあるだけなのだ。
 変化が起こる度に、その理由の説明が施される。経済報道の基本と言われるが、実は、学問の世界にまで及ぶ、この学界の特徴なのではないか。数学の世界で、確率を扱う分野は、依然として「論」という名前で呼ばれ、代数や幾何のように「学」を付されることがない。これは、学問としての資格の問題と言われるが、門外漢にとっては、何が何やらさっぱりわからない。だが、こんな分類を施せば、経済の世界は、本来「学」と呼べる代物ではなく、例外が並べ立てられるものに過ぎない。一つの例外によって、それまで築いた城が、脆くも崩れるのが、数学の恐ろしさと言われるが、その考え方からすれば、都合や気分によって、コロコロ変わる論理には、例外しかないと思えてくる。こんな世界に巣食う人々は、他人の批判には精を出し、持論の欠陥に目を瞑ることをよしとする。いつまでも成熟しないという意味では、学問の世界には、他にも多くの例があり、時には、一時の流行りだけで、いつの間にか消えてしまう分野もある。人間の日々の活動に基づく分野だけに、経済を扱うものが消えることはないが、その中の幾つかは、既に忘れ去られたものもある。今回の決断を分析する分野があるかは定かではないが、これだけの賛同や批判が飛び交うからには、それに関するものがあるように思えてくる。とはいえ、曖昧な論旨が通じるようでは、学問としての格は、低いものに違いない。

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12月16日(水)−怠慢

 取り上げられる話では、誰も彼も、上昇意欲を示し、挑戦的な姿勢への評価が高まる。だが、その背景には、何も新しいことはせず、場合によっては、そこに座って、右から左に動かすだけ、といった人々が、多くの職場に居座っていることがある。始めの話の頻度は、後の問題の深刻さを示す指標と見るべきかも。
 確かに、現状打破を狙えば、目新しいこと、革新的なことを断行せねばならない。だが、問題が職場だけにあり、外との関係において、まだ深刻化していなければ、そこまで思い切ったことをする必要はない。それより、確実な歩みを続けるために、漫然と業務をこなすのではなく、それぞれに最善を尽くそうという姿勢が必要なのだ。何も考えず、何も疑わず、そんな大人しさが歓迎された時代もあったが、今は、そんな時代ではない。確実に事を進める為に、通常の業務に対して、確認や検証を怠らないことこそ、重要となる。だが、これまで、漫然と過ごしてきた人々が溢れる中では、これほど当然のことでも、簡単には実行できない。現場が、本当に無能であるならば、改善の可能性は無いに等しいが、単に心理的なものであり、姿勢を正すことで済むならば、大した手間をかけなくても、改善の糸口を掴むことができるだろう。誰もが、自分が担当する業務に関して、改めて見直してみることで、小さな変化を持ち込むことができる。それをきっかけにして、更に、確認や検証を繰り返せば、現状とは全く違った様相が、見えてくるに違いない。これまでは、変化を求めず、何もしないことが、賢さの表れのように扱われたが、実際には、それが閉塞感を産むことになり、皆が混乱を来してしまった。にも拘らず、依然として、漫然と過ごすのであれば、何も変わる筈がない。当然のことが、当たり前と思われなくなったのは、ここでも同じことのようだ。

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12月15日(火)−恩師

 子供が可愛いからとか、教えてくれた先生を尊敬するからとか、それぞれに職業選択の理由があったが、その多くが、純粋なものと感じられ、熱意に期待する部分が大きかった。いつの間にか、肝心の熱意は失せ、打算的な理由が並び始め、現場の荒廃は、その変化に従って、深刻なものへと転げ落ちていったようだ。
 女性の社会進出に関して言えば、その先駆けとも言える職種であり、活躍の場を提供するものとして、一部での評価は高かった。それが、他業種への進出が取り沙汰されるようになると、打算的な面ばかりに注目が集まり、その魅力に引き寄せられた人々の、目標とされるようになる。途端に、教えることの喜びより、給与や休暇制度の問題が、殊更に取り上げられ、肝心な能力の欠如が、現場の問題を拡大し、深刻化させてきた。特に、教える能力については、技術的なことより、心理的な面が深刻であり、職業意識に対する意欲や熱意は、殆ど見られない人が増えてきた。こうなると、歯止めをかけるのも難しくなる。ほんの一握りの困った人々を抱えていた組織は、その対応にも苦慮していたが、その数が増え続けると、追いつかない対応が、何の役にも立たないものへと変貌した。教科に対する好き嫌いが、子供に対する好悪へと発展するに至っては、教え育むべき場所は、全く異なる目的を持つ場へと、意図的に変えられていく。できることしかしないのは、ある見方からすれば、当然のことだが、その中で、できることを増やしたり、その範囲を拡大しようとする、意欲が失われなければ、期待できることは多い。だが、今の現場は、できることの数を減らし、自らの劣化を意に介さぬ輩が、権利ばかりを主張している。鑑になるべき人々が、反面教師となっていては、どんな未来が開けていくのか。

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12月14日(月)−失言

 失言は誰にもあること、と本人が言って仕舞えば、また批判の対象となる。実社会では、様々な人々が、こんな愚行を繰り返している。かつての宰相が、海の向こうの指導者に、Trust me!と述べたことに関して、その後の混乱は、収拾のつかないものとなったが、発言者本人は、何やら言い訳を繰り返しているらしい。
 発言の真意がどうだったか、などということは、この際問題とはされない。もし、真意の問題であるなら、その後の展開で、何度でも訂正の機会があった筈で、いくら最上位の会談の中と雖も、前言撤回は不可能では無いからだ。にも拘らず、その後の傲岸ぶりは、枚挙の遑がないほどであり、失言の山は、本人でさえ、どれ程の高さになるかを知らないだろう。要するに、不用意な発言しかできず、博士号が無駄な紙きれに過ぎないことを、表しているだけのことだ。これを無能と呼ばずして、何を呼ぶのか、といった感じだろう。責任ある立場にある人々の、無責任極まる発言の数々は、様々な形で批判にさらされる。だが、庶民にとって、そんな機会は与えられることなく、井戸端会議での噂話が、精々の状態だった。それがある時期から、何の予備知識もなく、そんな力が手に入り、倫理や道徳に縛られることなく、思ったことを、その場で発言できる機会が与えられた。その結果は、改めて書く必要はないだろう。いい大人ばかりか、無知な子供達まで、こんな機会を得れば、言いたい放題を書き並べるようになる。人種や障害者に対する差別を、明言することは、成熟した社会では、認められないことだが、子供には、その理由は理解できない場合もある。だから、一度の失言は、厳しい叱責を受けても、全ての権利を失うことには繋がらない。だが、それが繰り返され、反省もないとなれば、子供と雖も、厳しい処分は免れない。こんな簡単なことさえ、理解できない人は、大人も子供も、再教育を施す必要があるのだろう。

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