パンチの独り言

(12月21日〜12月27日)
(努力、困難、お湯、出任せ、頼み、教育、失敗)



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12月27日(日)−失敗

 失敗を恐れないから、期待ができる。現場から遠ざかり、問題に直面することのなくなった、そんな人の発言に、どんな反応が起きるのだろう。取り上げた新聞の意図からすれば、発言の主が、科学技術の発展に寄与し、先見の明を主張しており、それが正しい見方であり、期待通りの展開が起きるということなのだろう。
 だが、この人物の発言を、もう少し注意深く観察すれば、また違った解釈がありそうに思う。最先端を行く人々の多くは、自らの予見を信じて疑わず、後ろを振り返ることなく、走り続けている。その結果、周囲からの離脱を招き、孤立へと結びつく。だが、その時の判断がどうであったかは、件の人物によれば、その後の技術の発展を見極めていたか、によるものとなる。確かに、そういう解釈は、多くの人が導き出すものだが、その場での判断を、ここから評価するのは、危険な手法ではないか。どのような事態の中で、どんな判断を下すべきかは、将来に起きることを、予想しつつ行うものだが、先ほどの解釈は、事実として起きたことを基準として、評価を下している。一見、妥当に思えるものだが、その時の状況ではなく、その後の展開を引き合いに出しては、真の評価を下すことはできない。毎度お馴染みの話を紹介し、だからこの国は、と批判を繰り返す。だが、その中核を成す人々を、育て上げるべき立場にあった人間として、何の効果も上げなかったからであり、また、自らの提案に、賛同する人間を育て上げなかったことが、その結末を導いたとは言えないのか。それを、失敗を恐れぬ若者が多くなったから、将来に期待ができると断言するのは、まるで、責任を負うべき立場から、身を引いたからのことにしか思えない。無責任な言動は、様々なところで起きるが、それに手を貸す人々が、更なる混乱をまねくことに、警戒を怠らぬように、せねばならない。

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12月26日(土)−教育

 教え育むこと、何か特別なことと考える人も多いのではないか。家族の中で、地域の中で、そんなことが自然に行われていた頃には、こんな考えに縛られる人はいなかっただろう。だが、今は、随分と事情が変わってしまった。何か特別な能力が必要で、高度な技術を持つ人だけが、その任に携われると思われているようだ。
 確かに、人生を始める中で、人々は、多くの人と出会い、その過程で、強い影響を受けることがある。それが学びの場であれば、教え育むことを生業とする人との、偶然の出会いが、人生の歩みを確かなものとしたことになる。そんなきっかけを持つ人は、非常に多いのは事実のようだが、その一方で、家族や地域の支えにより、確実な一歩を踏み出した人も少なくない。ただ、出会いの対象の数が、学びの場の方が遥かに多いから、皆の印象が強くなっただけだ。ところが、最近の事情は、大きく変化してしまったらしい。技術ばかりを追い求め、成果を要求される立場だから、当然の流れと言えるだろうが、目の前の結果を求め、長い人生への影響を考えない風潮が、強まっている。それにより、人を教え育むことより、ただ単に、試験で高得点を達成することを、目標とする人の数が増えている。更に、聖職というのは言い過ぎとしても、何かを手に入れたいという、欲望が先に立つ人の数が、急激に増えているように思える。様々に伝えられる不祥事の多くは、教え育むこととは全く関係ない、欲望に駆られた上での行動であり、恥ずべきものとの指摘もある。だが、肉体的なものや金銭的なものに、目を奪われてしまう人々が、学びの場に参入したのも、技術的な面を選考の対象とし、精神的なことを無視した結果、なのではないか。間違いを犯した人間が、悪いのは勿論のことだが、それに加え、何が求められるかを見誤った人々にも、同様の責任があるように思う。

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12月25日(金)−頼み

 送った筈の書類がないという。年の瀬も迫る中で、突然舞い込んだ問い合わせに、現場は混乱を来す。同じことが何度も起きるし、巷では、配達に当たる人々の非常識な行動が、話題となっているから、相手を疑うのも難しい。しかし、多くの送り先には、確かに届いているのに、何故、あそこだけなのか、分からぬ。
 そんなこんなで、混乱の中、こちらが考えたのは、書類に記した指示を、受ける筈の人間に関することだった。既に、発送から半月を経過していたから、指示を守る為に残った期間は、他の人達と比べて短くなる。世の趨勢に従えば、特段の措置を施すべきとの考えもあろうが、相手側の問題だとすれば、その必要はない。また、指示の内容は、相手の組織内での事柄であり、こちらとの関わりは、その後の展開にかかっているだけだ。となれば、対応が遅れたとはいえ、それにどう対処すべきかは、相手次第となる。ただ、途中経過を辿ると、ここまでの時点では、相手はこちらに責任を転嫁しようとしているように見える。この事件、顛末は意外な結末を迎える。無いと伝えてきた書類が、見つかったと言ってきたのだ。何の騒ぎだったのか、と思うこと頻りだが、最近、こんなことが度々起こる。今回のものが、他と違うとすれば、見つかったと正直に伝えてきたことだ。こうなると、責任転嫁の話も、こちらの誤解と言うしかなくなる。にしても、管理体制の不備は、凄まじいものと言わざるを得ない。組織内の人間に、被害が及ぶことを考えると、その管理に当たった人間は、無能と言うしかないだろう。だが、そんな人間が、管理をするのである。組織の問題とも思えるが、実は、社会全体で、こんなことが屡々起きている。配達に関しても、同じような問題があり、今や、人の手に頼る仕組みは、壊れてしまったのかもしれない。

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12月24日(木)−出任せ

 経済に携わる人々の発言には、信頼を勝ち得る程の力が感じられない。日頃から、その場しのぎの対応を繰り返し、先を見通すことがない為に、記憶に残ることさえ少ない。だが、これこそが、彼らの思う壺なのではないか。いつまでも、前線に居座る為には、場当たり的な言動による失敗を、忘れてもらうことが肝心だ。
 生活必需品に関して、どのような税を課すべきかが、議論されねばならないのに、むしり取る場所を取り違えた人々は、税率の多寡を議論し続ける。それでも、多いよりは少ないほうがいいと、庶民は感じているだろうが、それに対し、高額所得者との不平等を掲げ、問題を指摘しているつもりになる人がいる。自らが、高額の収入を得ていることに、何の疑いも抱いておらず、必需とはどういう意味かを分からぬ人には、この問題を吟味する資格はないだろう。また、所得にかけるべき税率の問題を取り上げず、こんな瑣末な話を引き合いに出すなど、常識の欠片もないと思える。たとえ、高収入だから、高級な生活必需品を購入するとしても、必需であることには変わりなく、その質を求める結果と捉えるべきだろう。それにかける税が、少なくなることが、まるで不平等かのように言い回るのは、平等という言葉に縛られる人々の特徴であり、不平等の世界で、優位に立つ人間の驕りなのではないか。こんな人が、政に口出しできる立場に居座り、提言と称した失言を繰り返す。記憶が長続きしない社会で、こんな無駄をし続ける程、今は安定した時代なのだろう。税金の使い道に、議論が及ぶ場合にも、その出口ばかりに目が向かい、入り口の議論には、殆ど触れられない。こんな歪曲や矛盾を指摘してこそ、制度の議論に携わる責任を、果たすことになるのではないか。

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12月23日(水)−お湯

 早朝、部屋に鳴り響く警報音、何が起きたのかと驚いたが、その源は、給湯器のリモコンだった。同じ問題を抱えたことのある人には、すぐに、あれと思い付くだろうが、初めての人間には、何のことやら判らず、戸惑うばかりとなる。表示が全て消えてしまい、操作しようのない状態では、手の施しようも無い。
 さて、どうしたものかと思うが、まずは、音を消さねばならない。本体を電源から抜き、一度鳴り止ませた後、再び接続したら、二度と鳴らなくなった。まずは、一安心だが、依然として表示の消えたリモコンは、そのままである。もう一つのものは、風呂場にあり、そちらは普段のままである。何とかなるかと、一度は思ったものの、追い炊きも給湯も、何も起きない。愈々、修理を依頼せねばならないこととなった。中古物件だったから、こんなことも当然なのだろうが、つい先日のガス会社の展示会で、話していた通りの展開となるとは、流石に予想しなかった。お湯が無い生活は、この季節には考えられないが、突然降ってきたことだから、何ともしようが無い。修理不能を告げられ、新しいものに換えることとなったが、どのくらい時間がかかるのやら、それこそ、不安で一杯である。展示会での会話では、予兆の無いことが問題、との助言もあったが、実は、それに近いことはあった。時計表示が狂い始めていたのだ。あの時、すぐに対応すれば、と思っても、後の祭りである。この事件から、あの計画停電の時、各家庭で困り果てていたことを思い出す。燃料さえあれば、湯を沸かすくらい簡単なこと、と思っているのは、何も知らない人々である。制御には、電気が必要なのだ。やれやれ、こんなことになるとは、と思ったのは、当然のことだが、背に腹は代えられず、近くの温泉施設へと向かった。

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12月22日(火)−困難

 諸悪の根源は、貧困にある、と主張する人が居る。賛同がある程度得られているのは、この話題が取り上げられることから、何となく理解できるが、貧困に至った理由は、という疑問に、答えを示してくれることはない。社会情勢が、という話が紹介されても、では、件の人々にだけ、それが適用されるのは何故、となる。
 個別の事例を分析すれば、それぞれの原因は明らかになるだろう。しかし、それを総体として捉えようとすると、複雑な事柄が入り混じり、単一の原因に絞り込むことは難しくなる。だから分析は無駄なこと、とはならないだろう。個々の分析を繰り返すことで、ある程度の傾向までは絞り込めるからだ。ただ、それを進めたとき、始めに触れたような、社会情勢を原因とする考えは、おそらく否定せざるを得なくなりそうに思う。いつ頃から、こんな考えが世に蔓延るようになったのか、定かではないものの、責任転嫁の極みとして、自分以外のすべてに負わせようとする、考え方が蔓延してきたからだろう。自らの努力をせずに、などと、彼らを批判しても始まらない。考えが、自分以外へと向けられているから、自分の責任は、十分に果たせているとの前提があるからだ。となると、どう対処すればいいのか。答えはない、としか言いようがないだろう。なにしろ、恵まれた環境を得れば、彼らは叫ぶのをやめる。しかし、その為に必要はことは、叫ぶ以外にはする気がないのだ。困ったものだと思うけれど、どうにもしようが無い。しかし、優しさを追い求める時代に、放置は許されないとなる。困り果てた挙句、様々な方策が講じられてきたが、動きの鈍い人々が、それに乗り込むことも、どうやら難しいと見えてきた。どうしたものか、本当に、「答え」を出さねばならないのか。

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12月21日(月)−努力

 優しさが全て、となっているのだろうか。現実を前に、戸惑う人々の姿からは、思いや期待とは異なり、目の前で展開される事実が、厳しく冷淡なものであることが分かる。だが、それを理解した上で、依然として、優しさを求める人の考えには、一体、どんな計算があるのだろう。理解に苦しむとの反応しか示せない。
 そんな反応は、表立って示すことは難しい。それがたとえ冷静な判断に基づくものとしても、救いを求める人々に与する人間からは、温かい心を持たず、冷たい対応との批判が向けられる。だが、と反論の続きを説明したら、どんな反応が返ってくるのか。貧困が、全ての機会を奪うとの説明に、機会均等の時代では、当然との受け止めもあるが、長く続いた方式との違いに、違和感を覚える人は少なくない。平等という言葉が、あらゆる可能性を均等にするという意味に使われるようになり、世の中は、落ち着いてきたように思われている。だが、この考え方が産み出した、異常な状態に関しては、誰も触れようとしないようだ。自由と責任とか、権利と義務といった、両者が並び立ってこそ、意味を成す事柄は、数多ある筈なのに、身勝手な人々が、叫び続ける時代には、その均衡は崩れ、一方的な要求が、罷り通るかのように思えている。それに対し、現実がかけ離れた状態にあるからこそ、始めに取り上げた人々のように、優しさが求めらえるのだろう。だが、貧困を理由に、進学の機会が得られない、という状態が、悲惨な状況であるかのように扱うのは、進学を当然の権利として、扱う風潮が根底にあるからではないか。目的も持たず、ただの権利として、あるいは、資格を得る為と称する動きに、何事かと思うのは、進学が当然でなかった時代に育った人の、当たり前の反応だろう。機会を得る為の努力が必須だった人からすれば、貧困が原因で、という話も、おかしなことには映らない。差別ではなく、区別であり、別に移ろうとするなら、努力が必須となるのだ。

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