パンチの独り言

(2015年12月28日〜2016年1月3日)
(反省、前向き、独自、見失う、対岸の火事、一つ覚え、脱習慣)



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1月3日(日)−脱習慣

 伝統と共に、批判の対象となってきたのが、習慣ではないだろうか。節目節目で、様々なことが行われてきた。それが習慣となり、当たり前となると、いつの間にか、批判の対象とされるようになる。当たり前だったことが、おかしいとされるようになり、止めるべきとの意見も出る。どうすべきなのだろうか。
 年始の挨拶も、そんなことの一つだろう。ずっと昔なら、何かを手に訪問することが、行事の一つだったものが、行動範囲が広がるに従って、互いの行き来が難しくなり、徐々に習慣から外されるようになった。それに代わる役割を負わされたのは、年賀状ではないだろうか。普段から顔を見る人々にさえ、遣り取りが行われた時代もあったが、休みが明ければ顔を合わせるのだから、無駄であるとの考えから、そういった方法は敬遠され始めてきた。そこに、新たに登場したものが、郵便に託すのではなく、電子的に便りを出すというものであった。それが手に持てるものから、送れるようになった頃、もう、覚えている人も少なくなっただろうが、大混乱が起きたことも、随分昔の話となった。これが習慣となったのは、一時的と言うべきだろうか。最近では、この話が流れなくなった所を眺めると、また別の道具が出回ってきたのだろう。電話の機能しかないものでは、使えない道具だけに、ある年齢を境に、使用頻度は大きく異なっているようだが、最近のものは、随分と状況を変えているようだ。このような状況では、仲間内の情報伝達のみが、主体となっていくようだが、そこについては、どうだろうか。挨拶だけは、依然として習慣として残っている訳で、果たして、習慣が変わるかどうかについては、どう考えるべきか。まだ、結論は出そうにもない。暫くは、様子を見るしかない、ということか。

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1月2日(土)−一つ覚え

 悪い情報ばかりが流れてくるのに、もっと悪いことを考える。物事を悪く考える人の数は、不安定な時代より、安定した時代の方が、実は、多いのではないかと思う。不安感が漂う中で、不安を口にしても、誰も見向きもしないが、逆であれば、誰かが見てくれる。他人の気を引きたい人にとって、見て貰うことが重要なのだ。
 それにしても、悪いことばかりを伝えるのは、何故なのかは、本当の所は理解できない。その役目を果たす人々の全てが、注目を浴びたいと願っているとは、思えないからだ。悪くなることを心配するから、これより下は無いという状況におけば、それだけで安心という見方もあるけれど、それだけが理由とは思い難い。老後の心配も、その一つに過ぎないが、その背景にあるのは、出生数の低下にあるという。何故、子供の数が減るのか。理由は様々にある筈だが、情報では、支援体制の不備を第一に据える。だが、これとて、不思議な状況にあるように思う。金さえあれば、子育てはできる、などという話が伝えられる一方で、子供を育てることに、疲れた人々の話が伝えられる。彼らに金があれば、全く別のことをするだけで、子育てから逃げたい気持ちは、変えられないのではないか。にも拘らず、支援ばかりが話題となることに、不思議な感覚を抱いていた。出生数が上昇したとの情報にも、おそらく、何かしらの理由をつけようとするだろうが、本当に、そんな形で一括りにできるものがあるのだろうか。馬鹿げた分析は、まるで経済に関わる所でのものにも似て、無駄なものにしか見えない。ただ、経済の分析は、その時限りのものに過ぎないのに対し、社会の傾向の分析は、長い期間を見なければならない点で、大きな違いがあるのではないか。どうも、何でもかんでも、一つの見方しかできないことに、時代の問題がありそうに思える。

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2016年1月1日(金)−対岸の火事

 国内事情はどうなっているのか。国際的には、不穏な空気が立ち込めているが、この国は、それらの地域からは遠く離れている。そんな気分があるからか、他から見れば、能天気としか思えないような空気がある。それがいけないとは言えないと思うが、あまりに特殊な状況に、違和感を抱く人もいるようだ。
 何故、このような事態となったのか、宗教的なものと言えば、その通りかもしれない。だが、実体は全く別の所にあるとも言える。宗教に名を借りた、名を売ったり、利益を上げたり、そんな人間の欲望の現れ、とも言えそうだ。だが、それを前面に出すことは、対立する勢力にとっても、好ましいことのようには思えない。その為、宗教闘争によるものとの、結論が導かれているのではないか。となると、この国にとっては、遠い世界のこととなってしまう。もし、同じ混乱が及ぶとしたら、そこには、これまでに論じられてきた理由とは、全く違ったものが適用されねばならない。敵と見做された国と近しい仲だから、という理由は、時に紹介されることもあるが、それまでの流れを断ち切らない限り、受け入れられそうにもない。所詮、人間の欲望に基づくものだから、こんなことになっても、何の不思議もないと解釈すれば、できないことはない。だが、実際には、全く違った方に向かい、立てられた結論へ導こうとする。世論などというものも、最近の傾向からすれば、誰かの誘導だけなのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもよく、平和でありさえすればいい。それを当然と思う国民には、この類の情報は、何の役にも立たないのだ。

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2015年12月31日(木)−見失う

 伝統は良いことか悪いことか。暫く前までは、辛気臭いとか、面倒とか、そんな負の気分を催させる言葉で、表されていたが、最近は、風向きが変わったようだ。古くても、良いものは良いと言える時代となり、憧れる人も増えてきた。良いか悪いかより、古いか新しいかで判断していたことが、見直されつつあるからか。
 良いか悪いかとの判断で、基準となるものの一つに、便利さという指標がある。何事も、便利になることが、重要との見方だが、これに関しても、異論が出始めているようだ。便利にする為の道具が、様々に作り出され、それを使うことで、それまでできなかったことが、できるようになるとか、面倒だったものが、簡単になるとか、そんな事柄は、身の周りを見渡すだけで、すぐに見つけ出せる。だが、それが普及するに従って、何かが失われつつあることも、感じている人が多いようだ。今、ここで書いていることも、手で書くという感覚ではなく、ただ、頭に浮かんだものを、打ち込むといった感覚であり、それ自体は便利なのだが、文字を産み出す行為とは、呼び難いものとなっている。便利さに目が奪われ、それによって失われたものには、目が向かない。それでも、便利なのだから、の一言で全てが片付けられる。それでも、まだ、言葉を失うところまでは、至っていないのだが、そろそろ、打ち込む文章から、次に来るべき表現を推測する仕組みが、整い始めていることから、次は文字だけでなく、言葉も失うのか、と心配になる。一方、便利さを追求することで、人の権利を奪いかねないことまで起きていることにも、気付き始めたように思えることがある。昔は、年末年始、人は普段の営みとは違う、生活を行ってきた。それが、便利を追求することで、どの商店も休まず、客を迎えようとしてきた。違和感を抱く人は、元々出かけないから、相手にならない。相手は、便利を追求する人々であり、彼らの欲求に応えることが、第一とされてきたが、それを止める所が出て来たとある。働く人のことも考え、伝統を取り戻したのか。

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12月30日(水)−独自

 年金にしても、保険にしても、国が関わる形のものに、当然とする向きがあるが、その恩恵に、どんな感覚を抱くのか、改めて、こんな質問をぶつけたら、どんな反応が返ってくるだろうか。お上のことを、様々に揶揄する声が聞こえるが、その一方で、こういう制度に関して、どんな考えがあるのか、明確な返答は少ない。
 国内に留まる限り、その制度の恩恵を感じることは少ない。社会の仕組みの中で、当然の存在として、意識されるのが精々で、それによって受けるものに対して、目が向くことは少ないのだ。健康保険であれば、怪我や病気の時に、様々に恩恵を受ける筈だが、それとて、表示される受診料や薬代として、出費のことを意識するだけだろう。まして、老後のことなど、若いうちには意識することなく、その時期が来て初めて、何かしらの意識を持ち始める。だが、国ごとに異なる仕組みの中で、どれが良くて、どれが悪いかは、すぐには理解できない。それぞれに住むことで、ある程度の実感が得られるかもしれないが、全ての人々が、その経験をすべきとしては、成立する筈のない話にしかならない。それに代わる筈のものが、情報というものではないか。各制度の長所と短所を示し、それぞれから受ける恩恵を、比較してこそ、ある程度の理解が進むこととなる。今の制度が、どう変化するかが、肝心なこととして、皆が意見を述べているが、実際には、今と比べて、という話に終始することが殆どだ。その問題も大きいと思うが、それにも増して重要なのは、制度を支える仕組みに関する話だろう。そこに来ると、他国の制度との比較が、更に重要となる。だが、ここでも、同調すればいいという議論ばかりで、これまで歩んできた、独自の仕組みに拘る雰囲気がない。どうなのか、と思うばかりだが、そんな意識のない人々には、この選択しかないのかもしれない。

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12月29日(火)−前向き

 停滞する時代に、過去を振り返ることは、どんな意味を持つのだろう。過去の失敗を分析し、それを繰り返さぬように、という話もあるが、どこか不思議な感じが漂う。同じ失敗を繰り返すことは、確かに避けねばならないことだが、同じ状況に追い込まれるかどうかを、考えもせずに、失敗に目を奪われても、何にもならない。
 反省の大切さは、いつの時代も取り上げられるが、失敗の繰り返しとして見ると、何かが間違っているように映ることがある。特に、発展や上昇が約束されていた時代には、反省の暇はなく、常に前を向いて、と言われ続けていた。それが、上昇が止まり、更に、下降へと移るように見え始めると、人々の心は、別のものに目を向け始める。それは、過去の反省と呼ばれるもので、現状が厳しくなる程、その重要性が取り沙汰される。だが、現状を打開する為に、過去を見つめたとして、どんな答えが見出せるのか。あの時、こうしておけば、といったことや、こうしなければよかった、ということが、次々に飛び出してくるが、それらは、打開の役には立たない。こうならない為に、という目的ならば、そのやり方でもいいのだろうが、現状は起きた原因を突き止めても、それを打ち破る力は生まれない。こんな当たり前のことさえ、困り果てた人間には、思いつくことがなく、ただ、同じことを繰り返し続ける。反省や批判が強まるのも、そんな事情なのだろうが、これらに長けた人間が、何も産み出さないのは、明らかではないか。それより、新たな提案を出すことこそが、もっと重要であり、それに耳を傾け、注目することこそ、こんな時代に必要なことだろう。それができるかどうかは、実は、当事者達が、以前と同じに、前を向くことにかかっている。

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12月28日(月)−反省

 毎年恒例の総括が行われ始めた。その年の全てを反省し、次の年の発展に結び付けようとする。そんなものとの理解があるが、一方で、批判ばかりでおしまい、というものも多い。それぞれの関係者からすれば、反省をすることで、問題点を洗い出し、そこから発展を目指す訳だが、部外者たちは、批判だけが多いようだ。
 今の風潮からすると、自分のことは棚に上げて、他人を批判するのが主流だから、そんな行為にも、批判は少なくなる。だが、それしかない状態では、何の変化も起こらず、それが停滞を招いてきたことを思えば、そろそろ、そんな輩を排除してもよさそうに思う。戦後、全ての事柄に批判を繰り返した、所謂評論家の走りだった人物は、自分への批判を、当然のことと受け止めていたようだ。それに対し、現代の評論家達は、批判を躱すことに躍起となり、傍目には、自らの責任を回避しているように見える。そんな連中の批判なぞ、実は、中身のないものであり、相手に対する気持ちも、何も無いに等しい。評論家の放言が許されるのは、時代の流れの中の傾向だろうが、同じように、国の行いについても、総括を失ったと思えることが起きている。賠償について、様々に議論が起きているが、その根本には、認識の違いと呼ばれるものが、横たわっていると言われる。かたや、国交を回復した時点で、全てを片付けたと主張し、かたや、片付いたことには例外があると主張する。どちらが正しい考え方かは、明白なことであるのに、なぜ、こんな混乱が起きているのか。庶民感覚では、理解できないというのも、互いの国では、事情が異なる。権利主張は、被害者を自認する人にとって、当然のことだろうが、それをも含めた全てが解決済みとなると、何が違うのかとなる。総括が都合により変化することに、変だと思わない人々には、実は、反省の心が無いのでは、と思えてくる。

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