パンチの独り言

(2016年1月4日〜1月10日)
(全力、危ない、住宅事情、駄駄、拘束、無理解、らしさ)



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1月10日(日)−らしさ

 男と女の区別を主張すると、厳しく批判される時代である。生物としての違いは、明らかにある筈なのに、何故批判されるのか、不思議に思う人もいるだろう。標的となった事柄の多くは、実は、自分が勝手に作り上げた印象を、それらの違いとして述べたからで、何の根拠もないのが、攻撃された原因だったようだ。
 だが、生物としての違いは、そこに歴然とあり、それを無くすことは、現代科学の発達をもってしても、できないことである。法律などでは、様々に障壁が無くされつつあるものの、越えられない壁は数々ある。一方で、社会生活においては、区別が不要のものとされ、同じ権利を与えることこそが、重要と見做されている。だから、昔のように、男らしさや女らしさを口にすることは、憚られている。しかし、その風潮が強まるに従い、本来あるべき、人間らしさまで失われているように、感じられるのは何故だろう。弱みを見せないとか、潔いとか、そんな表現の多くは、男を対象として使われてきたが、最近は、聞くことが少なくなった。特に、弱みについては、それを見せることで、自分に有利な状況を作り出すことが、まるで賢い生き方のように紹介され、それを地で行く人々が、世に溢れているように思う。不安を抱くことや、それを口にすることは、ある意味、弱みを見せることとして、自分の中にしまっておくことが、昔の生き方だったと思う。それを、不特定多数に向かい、口にすることなど、あり得ないものと思われていたが、最近の傾向は、随分と変化したようだ。弱みを見せ、正直に気持ちを表すことが、何よりも大切と受け取られることに、違和感を抱く人の数も、徐々に減ってきて、最近は、こんなことを不思議に思う方が、異常に見られることがある。他人に頼ることと同じように、こんな人ばかりの世の中になったら、本当に大変なことだと思うのも、今や不思議な存在とされかねない。

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1月9日(土)−無理解

 若者に期待する声は、いつの時代にもあるけれど、それを聞く度に、何故と思うのはどうしてか。答えは簡単である。そんな声を出す人々の多くが、無責任極まる態度をとり、育てるとは口ばかりで、放置するだけだからだ。期待できるから、邪魔をしてはならない、との主張も、何もしないのでは、何も起きないからだ。
 一見、理解のある大人に思える人々は、実は、何の責任も感じず、口出しすることで、反抗されることを恐れているだけのではないか。期待するから、邪魔をしないという考えでは、何が正しく、何が間違っているかを、伝えることはできない。期待を抱くのは当然のこととして、伝えるべきことを伝えなければ、人が育つ環境は作り出せない。確かに、厳しく育てることは、従順さのみを求めているように映るが、その中から、一人一人が自分の目指すべき道を見出す過程がなければ、自己満足という、狭い世界に閉じ籠る人が、巷に溢れることにしかならない。期待という言葉だけで、何もしない大人達ほど、無責任な人種も居ないのではないか。それだけなら、そんな人々を排除すれば、事が済む筈なのだが、それに輪をかけるのは、こういった期待を口にする人を、良識のある人間として、取り上げる人々の存在である。この組み合わせは、互いの利益を確実とする為には、必要不可欠なものであり、相互利益という形で、世の中に蔓延る悪弊として、広がったままとなる。それが長く続いたことで、教育の仕組みは、崩れかけたままとなっているし、中心となって、それを推進した人々は、依然として、大きな顔をして、若者への理解を口にする。何もしないのであれば、その方が被害は少なく済んだだろうが、苦言を呈する人々を、追い出すことに精を出した為に、折角築かれてきた、社会の仕組みが崩れてしまった。それに手を貸す人々も、責任を負うべきと思うが、こちらも、大きな顔をしたままである。理解という言葉の意味も解らぬ、無能な人間達は、退くべきだと思う。

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1月8日(金)−拘束

 規則に縛られていることに、息苦しさを感じていた人々が、巷に溢れていた頃、社会は今より不安定な状況にあった。それを脱する為に、様々な働きかけを行い、運動は高まりを続けていた。このような不安は、この国に限ったことではなく、海の向こうでも、違う理由で抱かれていたことから、時代の潮流だったようだ。
 自由を求めて、活動を続けた結果、多くの場合には、別の規則が出来上がり、それに縛られることになる。多数の社会で作られた規則と違い、限られた数の中から生まれた規則は、その多くが、冷静になって見れば異常としか言えない程の、著しい偏りを示し、却って厳しい状況を招いたようだが、当人達は、自らの力を信じて、それを守り抜こうとした。結果として、自己崩壊が始まり、総括などという言葉によって、自己批判を導くことで、窮状を切り抜けようとしたが、悲惨な結末へと結びついた。その反省はどこへ行ったのか。安全安心を追い求める人々は、規則で縛られることを望み、自らを誰かに守って貰おうと、躍起になっているように見える。他力本願も、ここまでくれば、何を言っても無駄と思えるが、権利主張を始めとした、要求の高まりは収まりそうにもない。どこへ向かうのか、誰にも分からない状況にあるが、そろそろ、冷静になって、何が必要か、何を求めるべきか、などという基本的な問題を、考えるべき時が来ているように思う。ただ、どこから始めるべきかは、何も見えておらず、迷走が続くようにしか思えない。考えることさえ、他人任せになりつつある中では、そう簡単に、できる筈もないのだろうが、戸惑いから不安を抱き、それのみを叫び続けることを、止める所から始めるしか、道筋はないように思う。

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1月7日(木)−駄駄

 思いつきを書くだけだから、何を書いても構わない訳だが、それにしても、書く価値の無いものまで、論じる必要は無いのではないか。おそらく、ここ数日は、この話題を取り上げ、様々に論じる場が設けられるだろうが、件の人物に、それが届く筈もなく、また、それらの批判を理解する力も、備えていないだろう。
 子供が玩具で遊ぶが如く、あるいは、子供が喧嘩をするが如く、どちらにしても、幼い心の持ち主であり、その幼稚さ故に、残酷さが露わになっている人間に、人格などという言葉は、当てはめる必要は無い。だが、それが国を率いている状況だけに、体罰を加えたり、叱責を与えたとしても、子供を育てている時とは、全く違った様相を呈する場合が出てきかねない。その懸念から、各国は厳しい対応を決断できず、様子見の状態にあるようだ。権力を握る者が、必ずしも、大人の心を持ち合わせる訳ではないのは、これまでの歴史を振り返っても、理解できることだが、それにしても、これほどまでに、幼稚な行状を許す環境に、呆れることぐらいしか、思いつかない。だが、それが隣人となれば、放置する訳にもいかないだろう。依然として、話し合いを第一とする、相も変わらぬ提案が、示されているようだが、幼児を納得させることなど、出来る筈もないではないか。ご褒美を与えさせすれば、泣き止む子供と同じ扱いを、権力を振りかざす人間に、施したとして、それが何の意味があるというのか。議論とは、その価値を認めあう人の間で行われるもので、聞く耳を持たず、欲しいものを手に入れる為に、力を誇示しようとする人間には、何の価値もない。国に対する罰も、所詮、権力者にとっては、痛くも痒くもないものであり、無駄となるのではないか。民主主義という名を冠した国名も、何を指したつもりなのかわからぬ現状では、退かせることも難しいのだろう。駄々っ子の相手を、世界各地でせねばならぬ状況に、困ったものと言うのが精々か。

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1月6日(水)−住宅事情

 経済の動向に、様々な分析がなされるが、無関係な事柄には、人は興味を抱かず、何が起きても、どうでもいいといった態度に出る。だが、身近なものの変化に対しては、全く違った反応を示すものだ。自分の収入や地位に関して、誰もが興味を持つだろうが、国や地域の状況に関してとなると、あまり興味を示さない。
 地域の廃屋に関して、様々な問題が提起されているが、周囲に住む人々は、自分の問題と考えていない場合が多い。それが、最近の増加傾向に拍車をかけ、いつの間にか、新興住宅地を除けば、近くに一つや二つの、誰も住まない家を見つけることができる。隣家がそうなると、途端に迷惑を感じるのだが、少し離れると興味は薄れる。高度成長期に、次々に建設された家も、そろそろ古ぼけてきた。その上、住人の高齢化は、次の世代へ継ぐこともできず、嘗ての新居は、いつの間にか、空き家となってしまうのだろう。停滞が続く中では、建て直しもままならず、放置が続くのもやむを得ないと思えるが、一方で、政府や自治体による施策には、何の期待も持てないままだ。それでも、地域によっては、状況が好転したのでは、と思えてくる兆しが見える。戦前の長屋が並んでいた場所は、崩れる危険が見え始め、周囲から苦情も出ていた。そこからの動きは早く、不動産業者が入り込むと、取り壊しに続いて、更地にして、売買対象としたらしい。それも、あっという間に買い手が決まり、引渡しが決まったと思ったら、あっという間に、新たな住宅の建設が始まる。これも、次の買い手のあてがあるからで、その背景には、良好な経済状況があるのだろう。同じ国の中でも、これほどの違いが現れているのは、格差と呼ばれる現象に違いないが、その原因はどこにあるのだろう。経済を第一に挙げる人が多いだろうが、その好不調を決めているのは何か。その答えを示せる人は、少ないのではないか。

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1月5日(火)−危ない

 危険の予知が、重要な問題として、取り上げられている。確かに、大震災の時に、危機を回避できた人の多くは、何となくでも、何かが起きると思ったようだ。ただ、この重要性を如何に強調したとしても、人一人の人生の中で、一度起こるかどうかのことでは、気にしない人の数を、減らすことはかなり難しい。
 それより、気になるのは、普段の生活での危険を感じることではないか。道を渡る時に、大丈夫と勝手に思い込んで、ゆっくりと歩けば、危険は増すだろうし、信号や横断歩道のない所を、渡ろうとすれば、事故の割合は確かに増すだろう。それも、年齢が増すに従い、動きが鈍くなるだろうから、その点も、自身で考える必要がある。相変わらず、交通事故死に占める高齢者の割合は、高いままのようだが、高齢者の人口比が高いから、という理由だけではなさそうだ。咄嗟の場合に、危機を回避できるのは、体の反射速度によるだろうが、加齢に従い、その能力が低下することに、気付かぬ人が多いのだろう。歩くだけでなく、車を運転する場合にも、危険は様々に襲ってくる。自家用車の数が増え続け、特に、都会よりも、田舎の方がその傾向が強いだろうが、狭い道を無謀な運転で走るのを見ることがある。正面からやってくる車と、巧くすれ違えるかが、事故になるかならないかを決めるが、車幅感覚の無さは、そんなことを意識する能力も無くしているようだ。こちらが止まればどうなるのか、予想することは難しいが、それ以外には避けられない場合もある。特に気になるのは、小さな車ではなく、大きな車に乗る女性達だ。男女差別をする気はないが、多くが、危ない運転をしているように見える。気が大きくなった訳でもあるまいが、そこのけそこのけ、といった感覚を持っているかのように、ずんずんとはみ出したまま進んでくる。ここでも、危険予知や危機回避が、重要な感覚となる筈なのだが。

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1月4日(月)−全力

 日のめぐりというのは、偶々のことなのだが、休みの具合によって、人の気持ちが変化するから、皆が話題にするのも、頷ける。それにしても、休みというのに、忙しく動くことが当たり前のようになっているからか、皆が疲れた顔をして、仕事に戻ってくるようだ。それがどうした、としてもいいのだが。
 休みを休むことを難しくしているのは、何故だろうか。外からも、その類の批判の声が聞こえ続けているが、何も変わることがない。長期の休暇を取るべきとの声も、時々耳にするけれど、気配さえ見えないのは何故だろうか。勤勉さを理由にしたこともあるが、最近の状況は、それを失ってもなお、働き続けようとしているように見える。仕事は仕事、遊びは遊び、などと表現されるが、実際には、どうなのだろう。遊びの為に仕事をする、という姿勢は変わらず、どちらにも時間を使い続ける。それで、疲れ果てた顔を見せるのだが、何か別のやり方はないのだろうか。一方で、全力を尽くすという考え方にも、問題があるように見える。できることをやる、という考え方は、受け入れられ難いようだが、実際には、できることしかできず、それを超えることを、目指していたとしても、口にするのはどうかと思う。全力を尽くすということも、本来は、可能なことをするという意味にもなるが、違う表現として使われているようだ。できるからやる、という考えを持てば、気楽に構えられると思うが、どうも、それはいけないことのように受け取られる。無理を承知で頑張る、という考えを、自分が持つ限りは構わないが、それを他人にまで要求しては、危ないことになるが、そこを理解していない人が沢山いるようだ。自信を持てとはいうものの、それと限界を超えることは、全く別の話なのだから。

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