パンチの独り言

(1月11日〜1月17日)
(波乗り、栄枯、非論理的、読み聞かせ、論理構築、反論、忘れない)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



1月17日(日)−忘れない

 誕生日や命日、人それぞれに記憶に留められた日があり、年に一度訪れる時に、祝ったり、偲んだりと、心に浮かべることになる。自身の存在だけでなく、家族や友人の存在を、大切に思うからこその、気持ちの表れなのだろう。こういった日々は、覚えていることが当たり前で、その人への思いから、忘れることなどあり得ない。
 だが、ヒトという生き物は、その一方で、忘れることによって、生き延びていると言われる。悩み苦しむことは、生きる上でも重要ではあるが、それだけに落ち込んでしまっては、生ける屍と呼ばれる状態に陥る。頭の片隅にしまいこんで、忘れてしまうことこそ、そういう深みから立ち直るきっかけとなるから、苦しむために覚えるより、意図的に忘れることも大切となる。だが、支えを必要とする人にとっては、覚えていてもらわねば、何事も始まらないようで、そういう人々を対象とした、記憶の確認が行われる。忘れないことの大切さ、と表現されるものだが、何を目的としているかが、見えてこないことも多い。特に、以前受けた被害から、様々に影響が残り、それに悩まされる人々にとって、社会から忘れられないことこそが、大事とされる。だが、と、そういう行事が開かれる度に、思う。悲惨な状態、困難な事態、そんなことを前面に出し、様々に訴える話を聞くにつけ、それらが、話題の中心の人々に、限られたものなのだろうか、と。確かに、現状は厳しいと言えるだろうが、それは、多かれ少なかれ、全ての人々に当てはまるものではないか。それを、特別に扱う話にこそ、誤解を招きかねない状況がありそうに思う。忘れることが、まるで罪かのような扱いに、そうしたいと思う人々は、苦しまされる。思い出すことより、思い続けることが重要との指摘も、何か、強制的なものに感じられ、素直に受け容れる気になれない。これは、罪作りな考えなのだろうか。

* * * * * * * *

1月16日(土)−反論

 論理の重要性について、連日書いてきている。話が通じないことに、嫌な思いをした人であれば、少しは判るのではないかと思うが、中には、逆に、非論理的な話しかできずに、相手に不快な思いをさせている人もいる。彼らは、論理を意識することはなく、ただ、思いつきを話し続けるだけで、相手への配慮も無い。
 こういう人々を説得するのは困難であり、迷惑を感じた多くの人々は、相手にするのを避けるようになる。孤立を感じて、別の考えを抱けば幸いだが、多くは、全く別の方角に向かうようだ。仲間を見つけ、互いに通じない話を、一方的に続ける。所詮、自己満足に過ぎないのだから、相手を説得する必要もなく、壁のように張り合いのない相手でも、そこに突っ立っているだけで、満足できる訳だ。社会の将来を考えれば、彼らを矯正することも、大切なことに違いないが、それまでの人生で培ってきたものを、無駄だから捨てろと言うのも、気が引けるし、その上、心が折れたなどと言われては、更なる迷惑を背負い込むことになりかねない。結局、距離を置くことが、一番の方策となるのだろう。では、少しでも興味を示した人に対して、どんな助言が役に立つのか。論理の元となる、遣り取りにおける納得、という点に関しては、これまでに説明してきた通りであり、何かしらの意見交換を基盤に、適切な対応を見出す必要がある。その過程では、反対の意見を持つ人間との議論が、重要な手段の一つとなるが、これを避ける傾向が高いのが、最近の最も大きな問題だろう。特に、議論を戦わせる過程で、反対の意思を示すことに、躊躇するのがいけない。そこを乗り越えてこそ、次の段階に進めるのだが、果たしてどうだろうか。勇気とは大袈裟だが、それに似た気分があるらしい。

* * * * * * * *

1月15日(金)−論理構築

 論理の飛躍どころか、その片鱗さえも見えない話では、受け容れられる筈がないと思うが、最近の事情は、そうではないらしい。ネット上やSNSに流布されるものの多くは、冷静にならずとも、矛盾だらけのものばかりで、したり顔で流し続ける人々の、理解力の無さに呆れるばかりだ。理解を超えた話題とは、何事だろうか。
 彼らにとって頼りとなるのは、同意を示す人々の存在だろう。この点に関しては、論理性の有無も、同じことを頼りとするから、間違いないと思われるのではないか。しかし、同調する連中は、同じ頭の持ち主であり、世間的には、首から上が無い人間と見做される。同類や仲間だけを頼りにする人にとって、強い味方とは、結局、同じことをする人間であり、多様性を排除した結果に過ぎない。異論を受け止められない人間は、自らの論理性を検証する機会も、失うことになる。違う意見を持つ人と、議論を戦わせてこそ、自らの論理性を磨くことができるが、それを避けたり、拒絶すれば、自己満足の世界に留まることになる。一見、自信を構築する段階に思えて、実は、何も築けないことに繋がるとは、意外に思われるかもしれないが、自ら選んだ道であり、無能者への道を突き進むだけなのだ。議論下手の国民性を、批判するだけでは、何の解決も導けないが、もし、何らかの手立てを講じたいのなら、活字と接する時の心構えについて、考えてみてはどうかと思う。読書を始めとする、活字との接触は、そこから学ぶことを第一と取られやすいが、現実には、双方向的な意見交換の一つ、と見做すべきではないだろうか。親子が絵本を読む時に、親から子に伝えられた経験から、子が長じた時に、本との触れ合いが、書き手というもう一人の人間との、意見交換の場となれば、自らの論理を磨く機会となる。この習慣を身につけないままに、活字との接触を試みても、鵜呑みに似た一方的なものにしかならない。その意識のない人が、いくら活字を取り込んでも、何もならないのだ。

* * * * * * * *

1月14日(木)−読み聞かせ

 仲間内だけに通じる話が、好まれる時代になったのか、厳しい批判を受けたとしても、傷を舐め合う仲間の慰めで、元気を取り戻す。だが、外からは、懲りない連中と呼ばれ、役に立たない仲間と揶揄される。こんな関係が、固定してしまった社会では、何も変化せず、現状維持が続くこととなる。まるで、悪いことがないように。
 論理性の欠如について、様々な場所で指摘が続いている。だが、その声の主も、大した論理を構築しておらず、何かしらの批判を浴びせられると、つい、「だって」の一言を漏らす。議論下手の国民と、他の国から揶揄されるのも、こんな言動に原因がありそうだが、当人は、大真面目で他人の批判を続け、自らの足元の危うさには、目を向けないつもりらしい。国民性と断言されるのは、受け容れ難いことであり、この状況を打破する必要を、強く感じているが、現状を眺めるに、中々に難しい問題と見るべきと思う。特に気になるのは、便利さや効率の追求から、色々な面での省力化が、その原因となっている点であり、例えば、人間関係においても、それが暗い影を落としている面が、気になってくる。人間関係の原点は、親子関係にあり、生まれた直後から、親との繋がりが、人格形成において、強い影響を及ぼす。その観点から、現状を見渡してみると、希薄化した関係の中で、互いを尊重するという言い訳の下に、放置が続く事例の多さに、呆れてしまう。情報媒体が、次々と編み出される中で、それを活用する話に注目が集まるが、それを便利と、放置が続く事態には、懸念を抱かざるを得ない。媒体という意味では、絵本もその一つであり、親子で一緒に楽しむ、と言うより、親が読み聞かせるという行為により、基本的な論理の構築の、きっかけが始まることとなる。そんな環境で、育まれる筈の論理性が、放置により、芽が出る機会さえも奪われるのでは、何ともならない。人間関係は、ここから始まり、長く続くものであり、それが育むものは、とても大きなものなのだ。

* * * * * * * *

1月13日(水)−非論理的

 物事を論理的に考える。ごく当たり前のことなのに、それができる人とできない人が居る。できる人にとっては、当然の展開が、できない人にとっては、困難を感じる。時に、困り果てた挙句に、「だって」の一言で、片付けてしまうことになる。何故、できないのか、できる人には解らない、何かがあるのだろうか。
 では、論理とは何か、考えてみたことはあるのか。そんな面倒なこと、と思う人が大部分だろう。他人と話す上で、互いに納得できることを、集めた結果が論理である、という考え方があるが、これは、安易なものかもしれない。何故なら、最近の「だって」には、同調する人が多く居るからだ。この場合、互いに理解し、納得できているのだから、それを論理と呼ぶのは、間違いとは言えない。しかし、何の脈略もなく、ただ、結論だけが導かれるのでは、一つ一つの段階を追って、他人の納得を得ることはできない。偶々、同調する人がいただけであり、皆が同意するとは限らない訳だ。となれば、論理とは呼べない代物に、振り回されることになる。こんな経験を持つ人は、かなりの数居るらしく、世間では、そんな遣り取りが頻繁に行われている。最近は、井戸端会議のように、その場に参加していた人達だけが、経験するものよりも、SNSを使って、互いに意見交換するものの方が、目立つようになっているから、こんな無茶な展開を、無関係な他人が、検証することも可能となっている。本来、こういうものを眺めていれば、論理性を確立することも、簡単にできる筈だが、騒ぎの中に巻き込まれると、全く違った反応を示す人もいる。こういう人にとって、頭では分かっているのに、という話が出てくる。頭で分かることが、まず必要なのだが、それでもできないとなれば、どうしようもない。結局、そこが一番の問題なのだろう。

* * * * * * * *

1月12日(火)−栄枯

 景気が良いのか悪いのか、分からなくなってくる。相場の状況が不安定になるのは、何となく理解できるように思うが、それとは別に、景気の話が流れてくると、また分からなくなる。分からないことの中で、一番と言えるのは、何か。人それぞれとは思うが、パンチの場合は、業界による違いである。何がどうしたのか。
 30年程前、海の向こうでは、労働者の運動が激しくなっていた。生産拠点の町では、人の集まる所には、海のこちらから押し寄せた、小型車が並べられ、怒りの鉄槌が下され、時には、燃やされる事態にまで及んでいた。怒りの元は、不公正な貿易にあるとされたが、こちら側から行った人間には、何が不正なのか、さっぱり理解できない。だが、彼らの主張は、その殆どが、自分達の生活を奪った、異国の優良企業に、全ての責任があるとなる。その時の驚きは、かなりのものだったが、その一方で、絶大な力を誇る、組合という怪物へのものの方が、遥かに大きくなった。様々な展開があり、その後の関係は、良好にあると言えるのかもしれないが、これも、景気の良し悪しの変化と言えるのかもしれない。これとよく似た状況にあったのは、電化製品なのではないか。これもまた、あちらから持ち込まれたのが、こちらで独自の発展を遂げ、いつの間にか、本家を凌ぐ程となり、徐々に摩擦を生じるようになった。当時の状況は、車の場合と同じようで、技術的にも先行するものとなった。それから四半世紀を経た頃、それぞれの状況は、全く異なるものとなっている。繁栄と衰退、何がどうしたら、こんなことになるのか、理解できる筈のないものだろうか。分かれば、何か対策できるのかもしれない。でも、そんなに簡単なことではないようだ。

* * * * * * * *

1月11日(月)−波乗り

 盛り上がりを見せた相場が、早々に崩れ落ちていく。成長の確かさから、決断された筈の利上げも、崩壊の原因の一つに数えられていたが、最も大きいと決めつけられたのは、人為的な要因らしい。不安定な要素を排除する為として、新たに導入された仕組みは、思惑とは異なる方に働き、世界的な暴落を招いたようだ。
 人間の考えることは、所詮、この程度のものとの批判もできるが、発言者自身も、その一人に過ぎない。株価の乱高下に、一喜一憂するのは、当然のこととして、さて、どんな方策を講じるべきか。慌てて振り回される姿からは、考えの深さなど感じられる筈もない。本当に、経済の回復が期待できるのであれば、こんな一時の変化に目を奪われず、じっくりと長い目で見ればいいだけのことだろう。これまで、成功者として取り上げられていた人々には、こんな場面での姿勢において、両極端な例が含まれている。波の上下に合わせ、利鞘を稼ぐことを常とする人にとって、乱高下は、その幅が広がるだけに、いい機会となる。巧く波乗りできた結果、成功者として名を残せたのかもしれないが、二度三度の場面で、全てを乗りこなすことができるとは限らない。過去の成功に縛られ、大損をすることも起きるのだ。一方で、激しい変化に振り回されず、ただ傍観を続ける方法では、経済が確かな成長を続ける限り、長い期間をかけての上昇に、苦もなく乗ることができる。こんなことを書くと、それは、他力本願ではないか、と批判する人もいるだろう。だが、投資などというものは、元々、自分の力で動かすものではなく、動きに合わせるものに過ぎない。まさに、他からの力を如何に利用するか、が肝心となる訳だ。で、今回のものは、何方に有利に働いたのだろう。

(since 2002/4/3)