パンチの独り言

(1月18日〜1月24日)
(鍛える、憶測、安い、気楽に、元凶、一段ずつ、眼力)



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1月24日(日)−眼力

 本質を見極めるとは、ここで何度も書いてきたことだが、それさえも、表面的なことばかりを追ってしまい、何も見通せない人が多いのは、嘆かわしいことだろう。誰かが、分かり易く説明してくれると、それに飛びつく人々には、その説明の正誤を見極めようとする気はなく、ただ、受け売りを繰り返すだけとなる。
 落ち着いて考えることができる人にとって、この行動は、理解し難いものであるが、当人達は、大真面目に、他人の言葉を繰り返す。何故という問いかけも、彼らの耳に届くことはなく、同じことを反復するだけだ。結局、他人の言葉を口にしながら、それに疑問を抱くことがないから、そのままに信じ込むだけとなる。更に輪をかけるのは、その言葉を聞いた人々が、同じ考えに導かれ、連鎖が繰り返されることだろう。誰かが、ふと疑問を口にしても、発言者の多くは、端から信じ切っているから、同じことを言い切る。それは、自信に溢れたものに見え、疑いを挟むことが、許されないように映る。だが、実際は、上辺の強がりに過ぎず、本質の理解によるものではない。だから、説明を求めても、同じ言葉が繰り返されるだけで、何も変わらない。それが、却って自信を示すように見えると、誰も口出しできなくなる。その原因は、どこにあるのか。明らかなのは、本質を見極めずに、ただ、他人の言葉を信じ込むところにある。確認作業には、それなりの手間がかかるだけでなく、知識や判断が必要となるし、更には、他人への口出しもせねばならない。それを怠ると、結局は、貧乏くじを引くことになり、後になって、騙されたと悔やむことにさえなる。そんなことなら、本質を見抜く力を養えば、いいのではないだろうか。どうすればいいかは、そんなに難しいことではない。どの学校にも、その為に必要な道具は、揃っている筈だ。

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1月23日(土)−一段ずつ

 資格の獲得は、色々な面に役立つ筈と、皆が思っているのだろうか。毎日、毎週、それに関する情報が流されているが、その中身は、どんなものなのだろう。苦労して得るより、簡単に取れる方が良い、と思うことは、何も悪いことではないが、資格に見合う力をつけなくても、獲得できるとしたら、それは一体何なんだ。
 獲得が難しい資格ほど、手に入れられたら、人生の糧になるだろう。だが、それとて、資格という括りに入れられていることからすれば、多くの人が手にするものの筈だ。手に入れるまでの苦労は、競争の一つと見做せるだろうが、同じ資格を得た人間が集まれば、更なる競争が展開される。とすれば、その中での実力発揮が問題となるだろう。資格を手にすれば、と願う人々の多くは、そのことに気づかず、ただ通行手形さえ手に入れば、目的地に到達できると思い込んでいる。だが、世の中は、そんなに簡単なものではないようだ。手にした後の展開について、流される情報は少ない。手に入れるまでの過程を示すものばかりが、世の中に溢れていて、その後に何が起こるのかは、見せられないものなのだろうか。そうなるのも、手に入れることばかりに精を出し、何をどう理解するかは、二の次とする人が多いからだろう。過程を重視するのではなく、結果ばかりに目が奪われるから、こんなことになるのかもしれないが、結果は何も最終目的地とは限らない。特に、その先のことに必要となるからこそ、資格が重視される訳で、そこに目を向けさせないことが、情報を出す人々の目論見なのではないか。それにまんまと乗ってしまうことで、後先を考えない勉強に励んでも、何も起きないとしたら、どうなのだろう。やはり、階段を一つ一つ上がる為に、何をすべきか、考えてみてはどうか。

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1月22日(金)−元凶

 姿勢などと、偉そうに書いたとしても、結局は、資産を増やすことができるかどうかが、肝心であると言われると、反論は難しくなる。だが、増やせるか減らされるかが、心理的な要因によるものであれば、そこで重要となるのは、やはりどう振る舞うかであり、それが姿勢と呼ばれるものだろう。貫くかどうかは、別として。
 人為的な要素もあったのだろうが、暮れに向かって、様々な因子が絡んで、上げ続けてきたものが、明けた途端に、急激な下げが起きてきた。個別の問題もあったのだろうが、これほど広範囲に渡って、下げ続けるとなると、何かしらの共通要因を見出したくなる。だが、心理という範疇以外には、大したものは見つけられそうにもない。それでも、何とか、悪者を見つけ出そうと躍起になり、結局、揉めに揉めた挙句に決められた、利上げを元凶とする見方が出されたようだ。だが、成長を前提としなければ、収益の増加を見込めないという、経済の原則からすれば、その根本となる、融資の問題を、放り出したままにしておくのも、おかしな話だろう。どんな調整が必要かは、様々に考えられるものの、基本として、そこから収益が上がるようにならないと、全体の成長は、見込めなくなるに違いない。もし、この前提を外すのであれば、成長は約束されたものとならず、停滞や下降などが起きることも、やむを得ないとなる。どう考えるかは、専門家の間でも議論が続くところだが、それを頼りに収益を上げようとする人にとっては、約束を反故にされることが、最も嫌うべきものとなる。いつ、下げ止まるのか、気にしつつ、眺めるしかないか。

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1月21日(木)−気楽に

 投資の姿勢では、有力な投資家が好むものとして、長期的な見方を中心とするものが、取り上げられてきた。その意味では、乱高下も一時の変化でしかなく、その後の展開に備えるべきとなる。その一方で、投資の仕組みの変化は、全く別の手法を実現し、瞬間的な変化を利用することで、財産を築く人が出ている。
 今、どのような状態にあるかは、姿勢の違いを考えれば、検証しても意味のないこととなる。長い目で見る立場にあれば、一時の資産の増減も、次への準備に過ぎないこととなるから、それに一喜一憂しているかのように、扱われては心外だろう。それに対して、波の上下に巧く乗れた人々は、今評価して欲しいと、思うのではないだろうか。時代の寵児として、様々に取り上げられてきた人々の、その後の姿に関しては、一時の興奮が冷めてしまえば、関心が無くなってしまう。こちらは、逆に、長い期間で見守ることがなく、検証も一部に限られてしまう訳だ。こうなると、比較のしようが無い。だから、という訳でもないだろうが、結局、どの姿勢が妥当なのかを、知る術はないとなる。要するに、自分に合ったやり方を実行するのが、金銭的にも精神的にも、良いということになる。しかし、経済は所詮、一つの袋の中での出来事に過ぎない。膨らみ続ければ、弾けてしまう訳で、そうならないような調整を図りながら、資産を増やそうとする、何とも不思議な状態にあるのだ。どちらの方針をとるにせよ、結果としては、大した違いはない、と考えれば、経済の動向も、冷静に眺められるのではないか。

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1月20日(水)−安い

 安物買いの銭失い、と言われたのは、遥か昔だった筈だが、最近、そんなことを思い出させる事件が、多発しているように思う。銭どころか、命を失う羽目に、との指摘が何度もなされてきたにも拘らず、再び起きた事故に対して、監督する側は、どんな説明をするのか。実は、高い安いとは関係ない所に、原因があるのではないか。
 そんなことを思うのは、もう一つの事件に、理由の一つが見えるような気がするからだ。収益を上げる為の努力が、別の問題を生じることは、公害という言葉が、産み出された時代に明らかとなり、それ以来、様々な方策が講じられ、所謂「安全・安心」の環境を、確立してきた。しかし、これほど厳重な制限をかけても、それを脅かす事件は、後を絶たない。偶発的なものは、ある意味、仕方のないことだろうが、意図的に仕組まれたものに関しては、法律などの制限も、力が及ばぬ所があるようだ。公害は、製造に付随して排出されるものが、その原因になると言われるが、産業廃棄物と呼ばれるものに対して、製造者は正しく処理することを課せられる。自身で処理できるものであれば良いが、そうでなければ、委託する必要があり、その役目を負う業種も、様々に編み出されてきた。正規の処理を施した証明を、依頼者に戻す仕組みも、保証に必要と編み出されたものだが、全てを検証することは難しく、結局は、信頼に基づくものでしかない。ある大学が、入札により業者選定を行い、廃棄を依頼した時も、書類は整っていたにも拘らず、業者の不法投棄が摘発され、その結果、再度の廃棄を依頼することで、二重の出費を負った事件も、安くするトリックが、安易に行われることを示した。食品の廃棄も、昔ならゴミとして捨てるだけだったが、今は、正規の廃棄手続きを取らねばならない。そこに起きた事件は、横流しという安易なもので、無価値のものを転売すれば、安請け合いも簡単ということだ。倫理や道徳が問題となる社会では、信用を頼む仕組みは、成り立たないということか。

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1月19日(火)−憶測

 被害者が大学生に限られていたことに、首を傾げた人が多かったと思う。入るまでは大変でも、その後は楽なものと、世間で思われているから、これもまたその一つと思ったのかもしれないが、それにしても、平日の夜に運行されたスキーバスに、何故と思った訳だ。いくら休みが早い私立でも、まだなのではないかと。
 実際には、国立の学生も多く居たから、試験が終わっての休み、という考えは当てはまらなかった。では、何が、と思っていたら、それに触れる言葉が、出てきた。例の受験生の大多数を対象とした試験の準備で、多くの大学が試験前日を休みとしたのだ。まさか、こんなことが起きるとは思わず、これ幸いと安値のツアー券を手に入れ、目覚めたらゲレンデと夢の中だったのだろう。そんな時に、あんなことが起きてしまい、その報道でもちきりとなっている。だが、その内容は、いつもと同じで、的外れなものが多い。報道の質の低下は、こういった情報の扱いに、如実に表れており、原因追及も、的外れどころか、話を逸らそうとするものまで、出てくる始末に、呆れ果ててしまう。まあ、体制を批判することに、まるで命をかけるが如くの、一つ覚えの人々であるから、この為体も、当然のものなのだが、それにしても、こんな連中に電波を使わせる意味は、無いのではないか。話題を取り上げれば済むという状況に、一時は、インターネットの台頭から、危機感も取り沙汰されたが、今や、同じ穴の狢の如く、互いに褒め合う仲となっている。いつになったら、原因が判明するのかと、気にする人もいるだろうが、検証にあたる人々に任せればいい。それまでの様々な雑音に、心を乱されるのであれば、耳や目を塞げばよく、気にする必要はない。それでも、誤った情報や憶測に基づく話を、撒き散らすことは許される筈もない。当事者の猛省は当然のことだが、社会としては、それだけでは済まない話だろう。

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1月18日(月)−鍛える

 次代を担う人々を、教え育むことは、重要であることは、確かである。しかし、その為の方策が、次々に編み出されてきたことを、思い出してみると、底の浅さに呆然となる。何故、これほどまでに悪質なものを、恰も確実な手立てとして、考え出し、取り上げてきたのか、理解に苦しむことが、余りにも多い。
 当人達は、その効果を信じ、試してみたかったのだろうが、それにしても、考えの浅はかさに、提案の価値を見出すことはできない。結果論に過ぎないとはいえ、何の効果も産み出さなかった状況に、批判が続くのも止むを得ないことだ。だが、その反省もなく、同じことを繰り返す人々に、何の期待も持てないだろう。にも拘らず、彼らが、政策を決める立場にあり、愚策を山積みする状況は、変わることがない。魅力的な提案、などと訴えるようでは、何の意味もないと思うが、特に、最近の傾向は、こういう方に向かうことを、よしとしているようだ。魅力とは、何なのか、それ自体を考える必要があるのではないか。何も考えない人々が、餌をばら撒く姿には、深慮は微塵も感じられない。何をどうしたいのか、ではなく、どうすれば、注目が集まるか、に心を奪われ、本質に目を向けずに、上辺の化粧や飾りに力を入れる。実力を培わせる為に、何が必要なのかを考えずに、技術や道具という名の下に、付け焼き刃のものを与え続ける。いつ迄、こんなことを続けるのか、と思うのも、ほんの一握りの人であり、技術や道具に金をつぎ込み、その恩恵に浴そうとする人々が群がる。さて、何時になったら、この考えが甘いことに、気づくのだろうか。多分、気づくことなど、ないのだろう。

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