パンチの独り言

(1月25日〜1月31日)
(できるだけ、望み、頑迷、喧騒、不安、安心感、前提)



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1月31日(日)−前提

 考えるのは、難しいことだろうか。思ったことを口にするのは、いとも簡単にできるのに、考えて意見を述べよ、と言われた途端に、口を噤んでしまう。気が楽か、気が重いかの違い、と言う人も居るようだが、本当にそうなのか。考える、という行為の意味さえ、理解できない人が、沢山居るような気がして、気が重くなる。
 気楽なお喋りは得意なのに、堅苦しい意見交換は苦手、という人は多い。確かに、深い考えもなく、無責任な発言が許される雰囲気に対して、発言の一つ一つに責任を負い、相手の意見を理解する必要がある場面は、精神的にも強い圧迫を感じる。だからといって、そういう場面を避け続けることはできず、最近は、教育現場でさえ、その為の訓練を常とし始めている。ただ、不慣れなままでの対応だから、現場では、子供の遊び程度のことしかできず、相手の意見への理解もなしに、謝意を送るなど、儀礼の持つ意味さえも、解っていない様子が伝わる。ただ、子供達に責任を負わせても、仕方のないところだろう。不慣れな現場を放置したままで、見せかけだけを操作しようとすれば、こんな結果が生まれるのも当然であり、その為の整備が不可欠となっているのだ。だが、要求に応えようと、慌てふためくだけでは、こんな事態から脱することは難しい。世の中は、ノウハウなどと呼ばれる技術が、持て囃されているようだが、その多くは、実際には役立たずであり、安物の鍍金の如く、簡単に剥がれ落ちてしまう。基本となるべき、考えること、について思いを巡らすことなく、場当たり的な対応を続ければ、それも当然なのだ。では、考えるとは何をすることか、発言も議論も、そんなことをする前に、考えるとは、と話し合ってはどうか。

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1月30日(土)−安心感

 週末を安心して過ごせるか。相場がそんなことを考慮しているとは思わないが、毎日のように乱高下する動きに、心が落ち着かないことが続くと、流石に、一息入れたくなる。そこに流れた情報に、人々は戸惑いを覚えながら、値動きを追いかけていた。画期的との声の一方で、危険との懸念の声もある。どうなるのか。
 学問に馴染まないと言われるのは、こんな所にもあるのではないかと思うが、やってみなけりゃわからない、とばかりに、思い切った政策に打って出る。どうなるかは、市場次第とは、役立たずだった学者大臣の言葉のようだが、すぐに現れた効果には、正反対の反応があった。どちらが正しいのか、理論的に述べることはできない。そこが弱みと言えるが、逆に言えば、結果が見えないからこそ、楽しみがあるとも言える。流石に、賭け事のような感覚ではあるまいが、それに似た気分を味わう人もいるようだ。貯蓄を心掛ける国民性と、変人を見つめるかのように、海の向こうからは、批判され続けてきたが、預けたら損をするという仕組みに、理解不能となった人も多かったろう。だが、庶民の懐とは無関係の、銀行間の仕組みでの話に過ぎず、見掛け倒しと受け取る向きもある。批判の出処では、当時から借金が当然との考えがあり、それに基づけば、この変更は歓迎すべきものとなる。だが、成長の減速が危惧される大国や、それとの関係から下落が続く油の値段でも、そこから自由に動かせる資金が減ったとの解釈も、所詮、推測に過ぎないものである。ここでも、やってみなけりゃ、となっていることは確実で、どこに行き着くかは、誰にもわからないのだ。それでも、週末に向けて、明るい兆しが見えたような気がして、一息入れられると思った人が、多くなったのは事実だろう。

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1月29日(金)−不安

 経済が学問的な解析に不向きと見られるのは、その背景に要素の複雑さがあるからだろう。複雑だから、難しいとするのは、簡単なことだが、実際には、複雑と見える中で、幾つかの単純な要素があることで、時に、単純化されたり、それらが見えなくなると、多くの要素が組み合わさった結果となり、単純化できなくなる。
 この変動の繰り返しは、関係する因子の選び出しへと繋がり、極端な取捨選択により、解釈を施そうとする動きへとなる。これは、客観的な解析とは馴染まぬもので、主観的な操作が主体となりかねない。予想という観点からすれば、当たればいいとの見方もあろうが、それが通用する限り、学問の対象とはなりにくくなる。特に大きな問題は、心理的な影響であり、確証の得られないものでも、結果に繋がれば、大きな因子と見做されることにある。発言に左右されたり、気分の上下に振り回されたり、結果的には、何事も無かったかのようになるが、実際には、結果の解釈はできるものの、その端緒となる部分に関しては、軽重を判断できないものが多く、分析の対象としては、不適と言わざるを得ない。これ程の不安定な要素を相手に、何とか糸口を見出そうとする人々にとって、ここ最近の大きな上下を伴う変動は、まさに、不安感を主体とした、狼狽にも似た行動様式の現れであり、それを分析することも、それを避けようとする方策も、簡単には導き出せそうにもない。所詮、一つの袋の中での遣り取りであり、そこでの勝ち負けに拘っても、大した違いにはならない、と考えておけば、不安も解消できるように思うが、その心理の強い人にとっては、簡単ではないようだ。

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1月28日(木)−喧騒

 まだなのか、もうなのか、意見が分かれるところもあるだろうが、実は、既に、忘却の彼方へと送られたこと、というのが大多数の意見ではないか。基礎研究は地味なものとの世間の評判が、突如として変えられた、あの出来事から二年が経過したという。馬鹿騒ぎぶりも酷かったが、その後の経過は、輪をかけていた。
 金銭的なものだけでなく、人の命という犠牲まで払って、事件は進行していったが、結局、誰が何を為したかについて、答えは示されなかった。これも世間の常識からすると、異常な事態に思われるだろうが、研究という括りの中では、犯人探しは、意味のないものと見做され、事実かどうかを判断すればいい、となる。研究を進めることで、様々な事実を見出してきたことからすれば、それらが真実であったかどうかが、肝心なことであり、誰がそれを行ったのかは、二の次となる。ただ、これも、受賞騒ぎが展開されることから見れば、まるで、その人がいなければ見つからなかった、かのように、世間は見做しているのかもしれない。それが更に逆の見方をして、誰が嘘を吐いたのか、を追及しようとしても、関係者からは、熱意が感じられない、となる。そんな中で、記憶は薄れ続けてきたが、突如として、火をつけようとする動きが、急となる。件の女性の書いたもの、とのことだが、世間の目はどう動くのか。怖いもの見たさ、なのか、それとも、出歯亀的な感覚、なのか、目を向ける人は居るに違いないが、どうだろうか。今も脇には積読となっている本があり、それなりに本を読んでいる人間にとって、果たして、この話題は興味をそそるものだろうか。単純に言えば、価値なし、となる。たとえ事実が並んでも、結果が事実でなかったのなら、そこに価値はないからだ。

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1月27日(水)−頑迷

 頑固さは、親父の専売特許と思われてきたが、最近は、若年層に浸透しているようだ。人生経験豊かな年代が、それに基づいて頑なな主張をすることには、余り違和感を感じないが、何も知らぬままに、一つのことに拘る姿勢には、強い違和感を抱かざるを得ない。特に、さほど強い主張のないままのものには。
 自信に裏付けられた、頑固さには、それなりの理由があると思われる。だが、反対されたことから、心変わりをすることが、まるで自信の無さを示すように思われるのを、避けたい為の頑なさには、主張の正当性も、本人の能力も、感じられない。議論において、負けを認めることが、まるで人生の敗北を、表すように受け取られるのも、おかしなものだと思う。議論の勝ち負けが、これほどに重視されるようになったのは、ある遊び感覚の行事が、始まった頃だと思うが、その成果は、導入当初に言われた程には、上がっていない。それも、論理を重視する評価より、最終的な勝敗を重視する評価が、優先されてきたからだ。これにより、詭弁を弄してでも、勝てばよしとする、考えが蔓延することとなり、真に重要な事柄を、無視する傾向が社会に広まった。最後まで、相手の意見に同意を示さぬことが、勝ちに繋がるとされるのも、誤解に基づくものと思うが、一度広がった迷信は、簡単には消し去れなくなっている。これは、遊びの場だけのものと、受け取る向きもあろうが、その結果として、若者達の頑固さが、問題となっていることも事実だろう。若気の至りとして、年長者に対する反発を示すことは、昔からよくあったことだが、今は、それとは違う状況を呈している。視野の狭さを示すことを、恥と思わねば、成長はないのではないか。

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1月26日(火)−望み

 人生の岐路の一つには違いない。ただ、多くの人々にとって、既に、一つ目の段は踏み出されており、その結果を受けて、本番の選択がなされる。結果に、一喜一憂するのは、いつもの如くだろうが、選択の幅が狭められるだけでなく、多くの人は、目標を下げざるを得なかったのではないか。冒険を避ける為に。
 初志貫徹とは、よく聞かれる言葉だが、この段階では、現実に流れることが多く、無駄な試みは避けるべきと言われる。だが、本当に、自分の夢を実現したいのであれば、ここで引き下がっては、いけないのではないだろうか。確実な人生を歩む為に、様々な情報が流されているが、それを受け入れることは、勝負を避ける結果となる。それでも、悪路を進みたいと願えば、できないことではない。ただ、平和で安定した時代には、多くが、確実さを求め、その範囲に留まることにも、満足を感じるようだ。これは、実は、大した夢を描いていないことを、示しているのではないか。無難な道を歩めば、苦労をしなくても済むから、無駄かもしれない努力より、確実な選択をする。一見、問題のないもののように見えるが、逆に、先人達から眺めると、何ともつまらないことをしているように思う。では、負け戦でも、出て行くべきかと言えば、そう簡単には決められない。ただ、志があるのであれば、それなりの勝負に出ることも、やむを得ないのではないか。こんなことを書いても、渦中の人々は、悩んだ挙句に、無難を選ぶことの方が、遥かに多いだろう。そうしても、結果的には、裏目にでることもあり、実は、勝ち負けなどというものは、確実とは無縁なものなのだ。となれば、たまには、一縷の望みにかけてみるのも、岐路の選択と言える。

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1月25日(月)−できるだけ

 努力すべきかと問われたら、その通りと答えるしかない。だが、最近の傾向を見ると、努力の意味が問われているように思う。「ふり」が問題視されるようになり、表面的なものを主張する人が増えると、それまでの認識を受け継ぐことでは、課題に取り組むことが難しくなる。偽物を見破らねば、大損を被りかねない。
 このような状況では、見せかけの努力を掲げる人々を、どう排除するかが重要となるように思えるが、実は、そちらではなく、別の方に目を向けるべきと思う。努力などせずとも、成果を上げることができるのは、少し仕事ができる人には、当然のことだろう。無理をして、高い目標を達成することは、何も悪いことではないが、無理が祟るとなると、長続きは望めない。一発勝負もいいだろうが、その人間の才能を活かす為には、連勝を続けて欲しいと願う方が、良い結果を産む。勝ち負けというのは、二者択一の結果であり、その大きさを狙うのではなく、まずは、勝ち続けることが重要となる。となれば、大差をつけての勝利を狙って、次に負けを帰すより、僅差の勝利を続ける方が、勝ることになる。それでも、努力が必要になる場合もあるだろうが、ある程度の才能を持つ人々であれば、自分にできる範囲で、こういった目標を達成することは、さほど難しくもないことだろう。傍目からは、頑張っていないことを揶揄される場合もあろうが、結果を伴えば、何も問題はないのではないか。ただ、これも、誤解を招くことが多い。あの程度で良いのなら、と思われてしまうと、能力のない人間に限って、表面的な模倣を試みてしまう。何が肝心かを見抜けない人ほど、こういった傾向が強く、結局、能力を高めることもなく、腐った人生を送ることになる。この手の理解力も、能力の一つだとすれば、こんな人々には、明るい未来など訪れる筈もない。

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