楽観主義と悲観主義、正反対のものとして扱われ、味方と敵のように見られている。自身を見つめる時に、このような見方のどちらを取るかが、問題とされているが、実際には、他人を評価する場面でも、適用される考え方だ。相手に、楽観的印象を与えるか、悲観的印象を与えるか、人による違いが出る。
誰でも、貶されるよりは、褒められた方が、気持ちよく過ごせるに違いない。だが、自分の主張を展開すれば、良い点も、悪い点も、そこにあるに違いない。この場合、相手が褒めることに終始すれば、悪い点や間違いが指摘されることなく、見過ごされてしまう。本人の気付きには、それまでの準備を考えれば、期待できないから、外からの指摘だけが、頼りとなる。だが、こんなやり方ばかりが横行すると、天狗になる人間ばかりが出てきて、最後には、暴走するだけになる。褒める人間には、そんな意図はないだろうが、結果としては、そんな悲劇へと繋がることが多い。一人の人間が、両方の姿勢を同時に示し、均衡のとれた批評をできれば、何の問題も生じないが、簡単なことではない。批判は、厳しい言葉に思え、攻撃の一種と受け取られ、反発へと繋がる。指導する立場にあれば、円滑に進めたいと願うのが常だが、両方を満足させようとすると、凸凹道を進むことになりかねない。それを嫌うあまり、皆が絶賛することに終始すると、人格形成は歪められることになる。反発は一時のもので、それを繰り返すうちに、自覚が芽生えることに、気付くことになる。互いに、精神的な不安定を経験せねばならないが、人格形成には、そんな段階も必要なのではないか。一方的な褒貶は、その是非が問われることも多いが、どちらかを選ぶとしたら、やはり、反発を恐れずに、貶すことの方が、いい結果を招くように思う。
上昇を続ける限り、何の心配も要らないが、一旦、下降局面に移ると、様々なことを考えなければならない。経営の難しさは、収益を上げることにあると言われるが、実際には、結果より過程が重視され、課題を拾い上げ、対策を講じることにあるのだろう。心配するだけでは、駄目なのだ。
同じことを繰り返すことが、最重要となる場合は、頑なに守ることが主体となるが、そんな業種ばかりではなく、次々に新しいものを産み出すことが、必須とされる業種もある。新製品という言葉が踊り、新しい価値を訴えることが、企業の収益を保つ為に、欠かせないという業界では、栄枯盛衰の変化が激しくなる。常に二番手を進むのであれば、大した努力も必要ないとも見做せるが、実際に、先導者が居なくなったら、全てが無くなる訳で、いつかは先に進むことを決断せねばならない。新たな展開を目論み、その為の設備投資も行い、収益を上げることに成功したとしても、その繁栄は永遠のものとはならない。市場からの要求に応え続けることが、条件の一つとなっている為で、停滞が凋落へと繋がる場合も多い。上昇気流に乗っていた時には、全く気付かなかったことに、突然気付かされる訳だが、では、と動き出したとしても、答えは簡単には見出せない。何度も失敗を繰り返すうちに、取り返しのつかない所まで落ち込むと、支援の手を求めて、自らの手を伸ばさねばならない。だが、同じ相手に、同じように求めた支援について、何となく、同じような展開が起き始めるのを見ていると、また、頓挫するのではないか、と思えてくる。この国の優良企業とて、こんな状況にあるのだから、中小企業となれば、更に状況は悪化しそうだ。そういえば、外資に買われた、金型で有名だった所は、どうなったのか。まだ、あるようだが。
思い切った施策も、功を奏しなかったとされる。だが、こういう話は元々、長い目で見る必要があるのではないか。どうも、市場参加者の多くは、即効性の作用を望み、都合のいい結果を手に入れたがる。だが、経済の動きは、必ずしも都合に合わされるわけではなく、勝手気儘なものなのではないか。
条件が変われば、状況もそれに合わせて、変化を始める。ここまでは、誰もが賛同する話だが、変化の方向となると、意見が分かれる所だろう。特に、予想の範囲となると、それぞれに違った考えがあり、それぞれに異なる方角を向いている。結果として、正反対なことも起き得る訳で、気儘であるからこそ、状況の変化を見続ける必要がある。今も、様々に議論され、様々な解釈が施されているが、その正誤を判断するには、時期尚早と言うべきだろう。にも拘わらず、喧しい評論家達は、失敗との切り捨てを始めている。思い切ったこととはいえ、前例がない訳でもなかろうに、これほどに厳しい批判を浴びせるのは、おそらく、予想外の展開の始まりに、戸惑っているだけなのだろう。自らの不明を詫びず、反論を続けるのは、批判の常道ではあるが、それは、皆の記憶が不確かだとの保証の下だからだろう。相場の動きも、為替の動きも、思惑通りには進んでいないが、これが数か月を経過した時に、どうなっているかという予想は、誰も示そうとしない。今を重視する考え方からすれば、そんなことは無駄となるが、投資を続ける人々から見れば、一時の儲けも大切だが、長い目で見た場合の成果も、重要であることに違いはない。待ち続けるのは辛いものだが、様子見を続けるのも、一つなのではないか。
この時期になると、聞こえてくる言葉に、受験生があるだろう。嘗て、その憂いを歌ったものが、流行したこともあるが、それも、訴えかけるというより、苦笑交じりのからかい半分、といった雰囲気が漂っていた。いつの時代も、人生のどん底のように扱われるが、実際には、そうでもないからだろう。
勉強漬けの毎日、などと言っても、非現実的なこととしか思えない。最近は、発信源を手にしたガキどもが、恥も外聞もなく、実情を流し続けるから、虚飾の極みと見做されているが、真面目な人間が居る筈と、信じる人は必ず居る。準備自体も、こんな状況であり続けてきたが、勝負の場の状況も、悲惨と呼ぶには恵まれ過ぎていると、言われている。流石に、昔は、あぶれる人々が、次の機会を狙っていたが、最近では、引く手数多の状態で、高望みをしなければ、何処かに入れると言われる。それでも、人は、自己評価を高く見積もり、届きそうにもない所にも、手を伸ばしたくなる。それが、所謂倍率というものとなり、あぶれてしまえば、不運を嘆くだけだろう。これも、段階的な選抜という仕組みの中では、低倍率へと結びつくから、不運を恨む気持ちは強まる。だが、所詮、点の取り合いの中での結果であり、思い通りにいかなかった結果に過ぎない。一発勝負の時代は、落ちる人間の方が遥かに多かったのが、今や、ほぼ同数となり、運不運の問題に思えてくる。しかし、点を競う仕組みでは、実力次第であることに、何ら変わりはないのだ。その上、入ってしまえば、こちらのものと、遊び呆けることを夢見るようでは、人生の敗北も、決まってしまうのではないか。やりたいこともなしに、目標を定めることは、馬鹿げたことだと、気付くべきだろう。
病いは気から、と言われ、気分次第で病気と感じたり、くよくよせずに暮らせば健康でいられる、とされる。笑って過ごすことの大切さや、悩みを解消する手立ての必要性が、様々に取り上げられるが、真偽の程は定かではない。何しろ、昨日まで明るかった人が、宣告を受けた途端に、暗く沈んでしまうのだ。
とはいえ、体調の変化に気付くかどうかは、大病に罹らぬ為には、重要な要素だろう。同じように、自分の変化に気付くかどうかも、大切なことだ。最近、忘れっぽくなってきた、などといった変化は、薄々感じていても、中々受け入れられないものだが、それでも、備忘録を書き始めたり、記憶の共有を頼んだりして、予防策を講じる人も居る。記憶力を誇った人が、徐々にその力が衰えることに直面すると、衝撃を隠せず、物忘れを否定する場合もある。事実と認識していながら、頑なに認めない姿勢には、病的な雰囲気が漂い、それが高じれば、所謂認知症の状態と見做される。だが、認知症の症状の一つに、その状態を認識できない、という面があったのではないか。認識しているから大丈夫、というのは、おかしな解釈と見られるが、実際には、その違いは大きいように思う。ただ、意地をはるかのように、頑固に認めない態度をとるうちに、病状が更に悪化する場合もあり、対応が難しい所だろう。それにしても、人の認識とは、表に現れるものだけでなく、隠そうとする行為まで含めて、裏に隠れたものが、様々にあるようだ。脳の機能の研究は、急速な進歩を遂げていると言われるが、こんな状況を眺めていると、本当に進歩しているのか、と疑いたくなる。自身のことも含め、わからないことだらけの状態に、不安を抱く人も多いが、伝染病以外の病気は、自分自身の性質によるものが殆どで、運命の一つと見る人も多い。そう思えば、少しは気楽になり、楽な生き方ができるのかもしれない。
物覚えが悪くなることは、齢を重ねることと結びつけられ、当然の出来事と思われてきた。いつの頃からか、この現象を病いの一つと見て、治療の対象と見做すようになり始めた。だが、見立ての不確かさが、現場の混乱を招き、更には、一般の解釈を歪曲しているようだ。物忘れと病気との関係は、確かにあるようだが。
程度の違いを見極め、治療の要不要を判断することは、専門家にとって、重要な能力となる。しかし、身近な人が、そんな兆候を見せた時に、どう対処するかは、一般人にとっては、悩ましい問題となる。本質を見極めようにも、専門家の判断さえ、基準が定まらぬ中では、難しいと言わざるを得ない。といって、眼の前で、その問題が生じれば、何かしらの対応を余儀なくされる。つい、定かでない記憶を、殊更に指摘することも、時に起きるのだろうが、言われた当人にとって、辛い瞬間となることもある。思い起こせば、年齢の為と考えることで、流していたことを、病いと見ることで、注視するようになると、様相は徐々に変わり始める。程度の差に目を向けず、治療の必要を考えることは、実は、相手の人としての生活を、奪うことになるかもしれず、安易にやるべきことではない。にも拘らず、この傾向は高まるばかりで、心配や不安を核として、真剣さが増してしまう。結果として、早期治療へと至るのであればいいが、単なる加齢現象に、手を加えることとなり、却って、別の問題を生じるのでは、問題は更に複雑になるだけだろう。福祉との関係もあり、私的なものだけでなく、公的な対応が求められる中で、迷走が続いてしまうと、片付けられない課題が増えるだけとなる。根源に何があるか、見えないようだ。
謝って済むことではない。誰もが、様々な場面で出くわした、遣り取りだと思う。謝罪の必要性は、罪を犯したのであれば、同然出てくるものなのだが、では、謝れば済むのか、となると、そうではないとされる。謝る側からすれば、じゃあどうすりゃいいのか、と言いたくなるかもしれないが、それが許される雰囲気はない。
悪事が発覚すると、必ずと言っていいほど、こんなことが起きる。金が絡む場合には、様々に証拠が残り、それを基に、批判の矢が飛んでくる。一方で、抜け道も様々にあり、それらを駆使して、穴を埋める作業が続けられる。法律に違反していない限り、法治国家では、何をやっても悪事とはならない。などと言っては、これまた批判されそうだが、心理的なものや感情的なものへの影響を無視すれば、この解釈に間違いはない。だが、現実は、もっと厳しいものとなる。確かに、法律は社会の構成員の考えに基づくが、それらを全て網羅することはできない。だから、そこからあぶれたものについては、心情へと訴えることとなる。謝っている人間にとって、その肝心なことを行っているのに、まだ足らないと言われては、次はどうなることかと心配になる。確かに、一旦の結論が出るまでは、どちらに転ぶかわからないからこそ、まずは第一の目標を達成することに、話題を絞るのだろうが、それが実現すると、次は、となるのだろう。だったら、最初から、そういうことを主張してくれれば、と思うのも、当然なのだろうが、お互いに、当たり前のことを繰り返しているのだから、どうにもならない。輪の中に入れば、また違うのだろうが、この手の話の多くは、こちらにとっては外の話であり、知ったことではないのだ。