パンチの独り言

(2月8日〜2月14日)
(対等、不具、逆効果、親心、下心、塩漬け、散財)



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2月14日(日)−散財

 無駄遣いをするな。子供の頃から言われてきて、この一言は、誰にも響くものだろう。ただ、景気が良くなり、収入が増え始めると、その戒めを忘れ、浪費に走る人も増えた。その後の衝撃的な下降に、多くが慌てふためき、緊縮を強行するようになり、再び、無駄遣いの頻用が始まった。
 財布の紐を固く締めるのは、単に家計の問題だけでなく、国の財政に関しても当てはまる。目減りし始めた収入に、税金の割合は大きく感じられ、自分に関係ない出費は、無駄としか映らない。それを掲げて、一時の政権を握った人々は、約束を果たせず、ただの嘘つきと見做されたが、要不要の区別は、安易に行うべきではなく、ここでも、長い目と広い視野が必要とされる。特に、生活に密着したものではなく、将来を見据えた事業に対する支出は、期間の長さだけでなく、成果の評価に対しても、多様な見方が必要となる。成長期には、期待の一言で、全てを片付けられたのに、今は、口煩い人々から、分かりやすい説明や数値目標なるものを、求める声が強まり、厳しい批判が浴びせられる。新たな知見を求める動きも、以前ならば、技術開発への繋がりや知的好奇心を掲げるだけで、意味が分からずとも、容認される雰囲気があったが、今や、無駄遣いの権化のように扱われる。研究の対象は、当然のことだが、未知のものだけに、その説明も意義も、理解が困難となる。それを分かり易くしない限り、支援の道はないとされても、理解力が不足する人々を相手では、至難の技となる。だが、出す側が、使う側より、強い力を持つ時代には、難しいとは、金の切れ目を意味するだけだ。重い腰を上げた人々は、納税者に分かるような広報に努めたり、見学会を開くなど、理解を少しでも進めようとするが、最先端が理解できる筈もない。更なる努力を求める声もあるが、実は、対象の理解より、成果から出る市場価値を、金額として示した方が、遥かに分かり易くなる。研究者にとって俗な話だが、広報とてそんなものだろう。次は、そんな説明に携わる人の登用が、必要となるのか。

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2月13日(土)−塩漬け

 二割近くの資産が失われたという。平均株価の下落は止まらず、悪者を見つけようとの声も聞こえ始めた。失敗を批判する意見もあるが、前にも書いたように、今日明日を目標としたものでないのに、これほどまでに厳しい意見が出るのは何故か。日々の変動を追う癖がついた人々には、下り一辺倒は辛い。
 上げ下げの波に乗り、売買益を上げるのが、投資家の醍醐味とも言われるが、下げ一方の相場では、かなり違った手法が効果を上げる。急激な変化を招く場合を避ける為に、制限をかけているけれども、その値幅の大小ではなく、下げの連鎖が続く場合には、結果として、同じ効果を上げることができる。買う前に売る行為は、現実社会では、考えにくいものだが、売買を促す為と称して、その仕組みが取り入れられ、市場の活性化に結びついた。だが、安定した動きの中では、さほど気にならない行動も、こういう極端な動きが見え始めると、問題視されるようになる。だが、長い間使われてきた仕組みの、存在そのものを考え直すのは難しく、窮余の策として、自由を放棄し、制限を施すことが決められた。廃止するわけにいかないから、こんな対策が講じられたのだが、一時的な値動きを制限する為のものが、連鎖を防止することには、繋がらなかったようだ。気の持ちようとの分析も、理解できない訳ではないが、気分の変化は、何をきっかけとするのか分からず、どうすれば気が変わるのかも見えないと、手の施しようが無くなる。市場の中での売買による収益が、上がらないとの判断からか、彼方此方へと資産を動かし、その度に資産価値が下がるとなれば、気が気でないと思う投資家の数も、増えていくしかないのだろう。だが、膨大な資産を有する人々と違い、低額の投資しかしない庶民は、暫く、漬けておくしかないのではないか。本当に、経済の縮小が起きつつあるなら、投資の対象として、再考せねばならないが、そこまでの状況には陥っていないようだ。

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2月12日(金)−下心

 先頭を走る国の一つに数えられた頃、まだ、その資格がないとの声もあった。数字はその域に達していたのだろうが、その気分ではないとか、精神的には未熟とか、そんな意見が飛んでいたのだ。そこには、追いつこうとしてきた気持ちの表れもあったのだろうが、謙遜の心もあったようだ。
 だが、今、省みると、少し違った事情も見えてくる。心の未熟さは、言動に表れ、傲慢な態度を示したり、分不相応な行動に出ていた。それは自身の生活にも反映したが、それ以外の部分にも表れ、振り返ってみると、経済成長を当てにした、投資行動には暴走としか思えないものが、横行していた。その後の破裂騒ぎは、人々の熱狂を冷ます効果を示したが、過剰反応が、大きな傷痕を残した。甚大な被害を受けた人々も居たのだろうが、大多数は騒ぎの外に居て、結果的には、長い時間をかけて手に入れた、豊かさを享受することができている。その中で、次代を担う人々への期待は、それなりに膨らみ、その為の投資を惜しまぬ親達は、子供への期待から、過剰な投資に走っているようだ。世は、グローバルなる掛け声に振り回され、外国語の習得が、何よりも重要との考えが、流布されている。その浅薄さは、良識ある人々が指摘するものの、本質を見極められない人々にとって、何より大切なのは、掛け声らしい。その勢いに乗せて、子供達の将来を確実なものにする、という思惑は、早晩頓挫するに違いないが、渦中の人々の熱狂は、まるであの破裂前のものと、そっくりに思えてくる。人の権利に煩い時代だが、選択の権利を剥奪するような行為も、親心によるものならば、許されるということか。先手を取ったとしても、その後の展開次第で、銭失いに終わることも多い。投資と考えること自体が、子育てに馴染まぬことに、気付かぬ愚民には、これが精一杯なのだろうか。

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2月11日(木)−親心

 自分に無い物を与える。親心と言われるものの一つだが、その間違いが指摘されることは、少ないように思う。家族の中でのことだから、他人が口出しをすべきものではない、との考えもあり、無駄が増えることばかりか、与えられたことで、影響を及ぼされた子供達への懸念も、問題となっている。
 強請っても、与えて貰えなかった世代にとって、与える喜びはひとしおなのかもしれない。だが、将来を考えてのこと、と言いながら、自分が叶えられなかった夢を、子供に与えるのは、実は、押し付けているだけ、なのかもしれない。親の心子知らず、とは、ここでも当てはまりそうな雰囲気で、子供達は、与えられた課題を、過重と考えている場合も多い。望んだものを手に入れられなかった、という自分の問題と違い、子供達は、望む前に与えられており、そこに大きな違いがある。だが、親達の多くは、そのことに気付く気配もなく、単純に、子供の為と信じて、与えているに過ぎない。にも拘わらず、それが評価されているのは、社会全体に、そういう行為を正当化するだけでなく、恰も価値のあることのように、扱っているからである。政策の中にも、そんなものが多くあり、その勢いを増す役目を、報道機関が負っていることも多い。その責任もかなりのものだが、実は、良識さえあれば、そんなものが、ただの無駄に過ぎないことは、すぐに判る筈だ。まるで流行を追い続ける若者と同じように、世間で注目されているものに、心を奪われていることに、他人事とはいえ、呆れてしまうのだが、この風潮が収まる気配はない。儲け話の一つとして、飛びつく人々を先頭に、こんな暴走を続ける国に、果たして明るい未来があるのか、と思えてくる。

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2月10日(水)−逆効果

 相場の動きが、危うさを増しているようだ。原因追及を求める声は、強くあるようだが、それより、何らかの手当てを求める声の方が、遥かに強いらしい。確かに、資産価値を高める為の努力を続ける中で、外部要因によって、思わぬ下落が続くようだと、将来への不安など、様々な問題が生じる。
 そこで、金融行政を担う人々は、思いつく限りの手だてを講じ始めた。一時的な反応は、良好に思えたが、実は、根本的な解決ではなく、応急処置に近いものだったようで、すぐに逆戻りとなってしまう。そんな症状を示し始めると、またぞろ、厳しい批判の声が高まり、特効薬の投与を望む声が、強まるようになってきた。ここまでくると、毒を以て毒を制する、という手だてを講じるしかないのか。一時的な回復より、更なる下落を招くことで、外部要因を一掃し、内部要因のみを残す形が、功を奏するかもしれない。こんな戯言は、責任ある立場の人々から、聞こえてくるはずもないが、一見、効果が上がるとされた処置が、実は、一時の熱冷ましにしかならず、その後、副作用を示し始めるようでは、手の施しようがない、ということになりそうだ。参加者の考えにも、様々ある訳で、短期的なものの見方しか示せない人がいると思えば、長期でしかものを考えないという人もいる。その中で、相場自体として、どちらを望むのかを問えば、識者の殆どは、長期を選ぶのではないか。短期も大切な要素とはいえ、その動きに目を奪われるだけでは、将来の安定を手に入れることは難しい。そんなことは承知の上で、日々の変動に一喜一憂する人々からすると、この下落の連鎖は、心穏やかには居られぬものだろう。では、どうしたらいいのか。安心を手に入れる為に、冒険が必要だとしたら、どうするのか。そんな究極の選択が、目の前にあるのかもしれない。

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2月9日(火)−不具

 昨日の話題は、実は、競馬の世界に関わるものだった。博打という言葉は、もう殆ど死にかけているものだが、公営賭博と言われ、法律で許されたものだけの世界だ。最近は、客層の変化が著しく、馬の可愛さに、目が奪われている人も多い。だが、それに乗る人間は、特殊な技能を有していなければならない。
 その為に、学校が開かれ、そこに入学して卒業することが、資格を得る第一の条件となる。他の、公営と名付けられるものも、それぞれに学校を設置し、特殊技能の伝授を進めている。おそらく、技能だけでなく、様々な制限についても学ぶ必要があり、その為という目的もある。だが、どの競技も危険がつきものであり、時に命を失うことさえある。話題の中心は、障害競技の頂点に立った人間が、その後、競技中の落馬により、頭に大きな怪我を負い、それにより、所謂、高次機能障害と呼ばれる症状に陥った、という話だった。一命は取り留めたものの、その後の回復は芳しくなく、限界が見える中、馬との触れ合いが、急速な回復を招き、乗馬を機能回復だけでなく、競技への参加を端緒として、更なる、回復への一歩と捉える姿が、印象的だった。病名は、何かを確定させるものと受け取られるが、その実、実態が掴めぬままのものが多く、試行錯誤を続ける必要も出てくる。だが、障害を保護の対象としては、その機会を奪うことにもなる。無理をすれば、負担がかかるのは事実だろうが、無理をしなければ、戻そうとする作業は頓挫する。どちらがいいのかを、他人が決めることはできず、本人の意思で決定せねばならない。しかし、多くの状況では、その選択肢さえ、示されていないように見える。上を目指し始めた人物は、自分の足らなさを口にし、それを克服しようと努力を続ける。楽観に過ぎるのかもしれないが、その姿勢に、これまでとは違うものを見た気がした。

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2月8日(月)−対等

 障害者は保護の対象である、という意見には、反対する人は居ないと思う。確かに、障害によって、何らかの不利を背負った人々は、それを補う為に必要な、援助をするのが当然だろう。しかし、この話題に触れる度に、違和感を抱くことも否定できない。できないことを何処まで認めるか、という点だ。
 できないのだから、全て手伝ってやる、という考えは悪い事とは受け取られない。しかし、それが症状を悪化させることに繋がるとしたら、どうだろう。障害者は、その状況に追い込まれたことで、意欲の喪失が起きる、という解釈があるのは確かだろうが、個人による違いは、こんな所にも現れる。先天的なものでも、後天的なものでも、障害となれば、同じとの見方をする人も居るが、そうだろうか。心理的な衝撃は、始めからあるものと、何とも無かった所から、突然降ってきたものとでは、大きく異なるだろう。後者は、精神的な落ち込みが注視され、それに対する援助に力が入れられる。そのまま、その状況を受け入れることで、余生を送る人も居るだろうが、意欲の回復を見せ、違う状態を目指す人も居る。周囲からの圧力は、感心しないものだろうが、本人の中から出てくるものだとしたら、それに助けの手を差し伸べるのが、より良い解に思える。ところが、支援体制が整っているものほど、こういう際の対応が不十分となり、諦めにも似た感情へと、障害者の心を動かすようだ。そんな思いを抱く中で、障害者が競技に挑む姿を眺めると、随分状況が異なるように感じる。競うことを基本とする中で、努力や精進といったものが、上を目指す為に必要となる。無理は禁物との考えもあるだろうが、競技に参加する上で、それは不可欠なものとなる。そこでは、本人の意欲も重要だが、それに加えて、周囲の応援も必要だろう。ただ、励ますだけでなく、失敗を指摘したり、悪い点を改善させようとする、そんな働きかけも重要となる。そこには、障害者を弱者と決めつけぬ考えがあり、ある部分で対等と見る考えがある。

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