パンチの独り言

(2月15日〜2月21日)
(破滅、断言、伝える、極端思想、学究、改良、痴愚)



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2月21日(日)−痴愚

 気楽なお喋りの場と思っているのだろう。しかし、それが犯罪と見做されることに、幼稚な心の持ち主が、気付く気配はない。そのまま、暴走を続ける発言の主は、反響の大きさを、自らの魅力の表れと思い込み、更なる過激さへと、足を踏み入れる。玩具と見る向きもあるが、武器と見るべきでは。
 世間では、虐めに対して、過剰なほどの反応が示され、加害者は、厳しく罰せられる。だが、最新の道具を使う限り、その行為は、断定されることなく、放置されることが殆どだ。時に、残虐な行為が発覚しても、若気の至りという、なんとも寛容な措置がとられ、自らの正当性に固執する、若者達の反省は、表面的なものに留まっている。人間の気持ちの表れは、自己中心的なものであり、他人との関わりに、それが適応するのは、簡単なことではない。成長に従って、様々な変化を受け、他との関わりも、何とか取り入れることができれば、社会性の獲得も、近いものとなる。以前なら、付き合いの範囲も、この成長に伴って広がっていたが、道具の登場により、初めから最大限に設定される。見ず知らずの相手に、逡巡したり、躊躇したりと、変遷を繰り返した挙げ句に、対応方法を身につけていった過程も、その意識を持たぬ中では、何の遠慮も、躊躇いも、感じる必要がない。まるで、怖いもの無しとなった、幼稚な人間が、どんな残虐性を示すかは、そろそろ明らかになりつつある。だが、脆い心の持ち主が、暴走を繰り返す中で、別の残虐性を示す、幼稚な心の持ち主から、厳しい言葉を浴びせられると、虐めの加害者は、突如として、被害者へと転落する。こんな過程を眺めても、寛容な人々から、暖かい言葉が送られるが、果たして、こんなやり方が正しいのだろうか。何故、虐めの域に達するまで、放っておくのか、そこにこそ、今の問題がある筈なのに。

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2月20日(土)−改良

 一時持て囃された、褒めて育てるという手法は、看板倒れに終わったようで、あれほどの熱狂に迎えられ、様々なハウツー本が出されたものの、殆どがお蔵入りとなった。だが、何の吟味もなく、ただ褒めればいいことは、最も簡単なことだから、現場では未だに、そんなことに拘る人々が目立つ。
 花丸とは、ある番組のことではなく、子供達の提出物に、先生が点検して、よくできたと褒めた印に、書き込むものだ。指導する立場から見れば、これだけでいい筈もなく、上を目指させる為には、良い所だけでなく、悪い点を指摘し、その改良を促す必要がある。ところが、単なる印で終わらせず、褒めた証拠として使われた時代、安易な濫用が目立ち始め、時には、生徒全員のものに、それを付けて返すことで、平等を確保することさえあった。そうなると、無意味な検閲でしかなく、何の効果も示さぬものとして、批判の対象となり始める。改めて考えてみれば、教育の場での課題は、成長を促す為に必要とされ、その要求を満たすことで、一段上に行けるものとされる。だが、課題の意味も、意義も理解できない子供達には、教師からの方向づけが必須となる。そのような想定に基づき、設定された課題の数々も、花丸一つで片付けては、効果は殆ど無くなってしまうだろう。褒めるという、煌びやかな表現に隠された、現場の省力化や怠惰が、この状態へと繋がったのは明らかで、今は、その反省から、何らかの働き掛けを施す教えが、要求されている。だが、教えることばかりか、教わった時でさえ、その経験を有しない人間が、収入の糧としての教師に、魅力を感じていたとしたら、そこに、改善の可能性を見出すことは困難だろう。自らの改善が、子供らの改善に繋がると、解っていてもできない人々、固定観念を破壊することしか、打開策はなさそうに思える。

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2月19日(金)−学究

 学問も、所詮、人間の営みなのだから、人との関わりのないものは、無意味と見る向きもある。だが、自然を相手にした場合、そこでの人間の関わりの強さは、必ずしも、大きいとは限らず、人の手をかけずとも、自然の営みは続いてきた。却って、人の手が、自然の摂理を乱すこともある。
 人の手で産み出されたものを、学問の対象と考えることに、何ら間違いはないのだが、文学や歴史のように、作り出されたものを対象とするのではなく、経済は、今、進みつつあるものを対象とし、願わくば、将来を見通す力を得たいと願うものだから、事情は違うのではないか。経済の世界でも、歴史の繰り返しは、度々取り上げられるものだが、それを見極める道具を得たとしても、次に起こることを予測することは、叶わないものだ。様子を見ながら、手を入れるという人間の習性からすれば、尚更、前と同じにするのは難しい。こんなところが、いつまでたっても成熟しない、経済を扱う人々の悩みだろう。一方、学問としての地位が確立した分野でも、それを担う人々が、純粋に知識欲を満たすだけでは、済まなくなることが起きる。著名な賞の受賞者達の、その後の営みを眺めると、多くが、それまでとは違う活動への、移行を余儀なくされているのだ。極めた人間は、あらゆることに正しい判断を下せると、どこの無学者が考えたのか、意見を求められるままに、発言を繰り返した結果、識者としての役割を引き受けざるを得なくなる。それにしても、研究での判断力は、それなりに備えているとはいえ、人間の営みに、正しい判断ができるかは、怪しいものだ。その点では、学問として認められていないとはいえ、普段から、その関わりを続けている人の方が、遥かにまともなのかもしれない。

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2月18日(木)−極端思想

 学問ではない、と呼ばれることの多い分野だが、それを担う人々の中でも、評価の高い人に関する本を読んでみた。感想は、やはり学問ではない、というものだ。世界的にも評価が高いと言われた人でさえ、その本の著者の紹介から見えてくるのは、著しい偏見と強過ぎる主張だけだった。
 これは単に、この国のあの分野の研究に対する、貢献の低さを示すだけでなく、あの分野が、世界を見渡しても、学問として確立していないことを、示しているのではないか。金勘定とは、極端な表現とはいえ、数字のみを追いかける分野では、それを扱う技術や考え方が、主流を成す。だが、そこには、理論の適用しか存在せず、理論が生まれる可能性は、全く無いに等しい。件の人物も、下敷きとなる専門分野が、数字を扱う学問であったからか、その能力への期待と評価が高かったようだ。その面から見れば、評価が高かった理由も見えてくるが、読んだ本の解説では、そんなことより、社会に関する視点に、焦点を当てていた。これは、著者の偏見によるものとも考えられるが、彼の弁によれば、件の人物が、研究活動を始めた当初から、深く関わり続けてきた経験による解説だから、業績全体を把握した上でのものとも思える。ただ、政治的な言説が際立ち、思想を強調した結果として、伝わってきたものは、学問との格闘というより、社会との格闘でしかなく、要するに、研究分野自体が、学問としての格を備えていないことを、表しただけとなっている。冷静に読み進めれば、業績も、時代背景による束縛の中で、築き上げられたものに過ぎず、その光にも影を落としている。人格の素晴らしさを、褒めちぎるような表現にも、胡散臭さが強まるだけで、結局は、逆効果となってしまった。買った時には気付かなかったが、著者は、ある出版社の社長を務めた人物で、そこの最近の著しい政治的偏向は、目に余るものとなっているから、この内容も、当然のものと言えるかもしれない。

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2月17日(水)−伝える

 情報伝達能力の養成が、現代社会の課題と言われる。その理由は、意思の疎通が定かでなく、誤解を招いたり、偽の情報を掴まされたり、様々な問題が生じているからだろう。では、何故、そのようなことが起きるのか。読めば分かる訳ではないが、ここに書き続けてきたことに、その答えはあると思う。
 情報伝達には、送り手と受け手の存在が、なければならない。どちらの立場にあっても、相互理解が前提となり、その為の手立てが必要とされる。では、互いに理解するとは、どんな状況を表すのか。この疑問に答えられる人の数は、それほどに多くはない。一方的な努力を期待することが多いが、実際には、双方の歩み寄りが必要となる。理解と聞くと、必ずと言っていいほど、相手に近寄る必要を感じる人が居るが、この誤解が居座る限り、互いの理解を高めることは不可能だろう。そこで必要となるのは、共通点を見出すことにある。理解に必要なもので、双方が同じように持ち合わせているのは、何だろうか。ある意味、当たり前に過ぎないことに、こんな疑問をぶつけなければならないほど、今の社会は、大切なことを見失っている。分かり易い話をする人の特徴を考えてみると、その答えが見えてくる。但し、ここでも、問題を複雑にするものがあり、注意を要する。話の分かり易さには、結論が、期待したものであり、単純明快なものである必要がある。ところが、ここには、落とし穴のようなものがあり、期待された結論には、非論理的なものが含まれるのだ。もう一つの分かり易さの指標は、正反対のものであり、論理的な展開が示され、話の順を容易に辿れる、というものだ。前者と違い、ここには確固たる流れがあり、誰もが共通して持ち合わせる、考えの進め方がある。結論に頼るものは、実は、人々の願いに寄り添うものが多く、論理的に破綻したり、誤りに基づくものがある。これが横行する限り、論理的思考の構築は、手に入れ難くなるから、まずは、その排除が必要だろう。その上で、論理的思考を鍛え、自分のものとできれば、情報伝達は、それほどに難しいものではなくなるだろう。

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2月16日(火)−断言

 科学者への批判が、急激に強まったのは、あの女性研究者もどきの話題以来だろう。断定的な表現に、強い魅力を感じた人々から、絶賛の声が寄せられたが、現実は、苦いものとなった。それまでの大衆の印象は、怪しげで、不確かな話に終始する、自信なさげな人々で、科学者への信頼が薄れていたからか。
 それにしても、大衆の勝手な解釈には、全く意味がないと言うべきか。自信がないから、断定しないといった感覚は、自分の心情の反映であり、科学の世界での、確実とはどんなものかに対する、認識さえ持ち合わせていない。否定にしろ、肯定にしろ、一部の数学の世界を除けば、確実なものはなく、結論が出たとしても、例外の存在が僅かながら残るものだ。その点に不満を感じる人々は、様々に難癖をつけるが、何故そうすべきかに、思いを致すつもりはない。だから、不確かさだけが取り沙汰され、厳しい批判を浴びせるのだが、的外れでしかない訳だ。一方、自身の言動においては、自信の無さを気取られたくないからか、断定的な表現を多用する。不確かな話に、尤もらしい言い訳を付け加えるのも、結局、自らの責任を放棄し、責任転嫁をする為だけに過ぎない。その場に居ない人物の発言としたり、噂話をそれらしく引き合いに出すなど、工夫は様々なのだろうが、不確実であることに変わりはない。だから、断定的な表現に頼り、それを自信の裏付けとして、見せつけようとする。所詮、浅はかな考えに基づくものに過ぎず、すぐに、不確かさも嘘も、露呈するのだから、誤魔化しに走るより、正直に振る舞った方が、遥かに大きな信頼を勝ち得るのに、その機会を、自ら投げ捨てるような行動に、その心理を理解することは難しい。上辺だけで中身のない人間に、こんな態度が目立つのだから、逆に言えば、そんな態度を示さず、謙虚に振る舞うことこそ、人間の格を決めるのだと言えそうだ。

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2月15日(月)−破滅

 分かり易さを求める声は、強まり続けているが、その一方で、理解する努力は、軽んじられている。当事者の立場から見れば、自らの努力を求める動きには、反発し続ける一方で、他への要求は強まるばかりで、相互に努めることになっていない。これは、衆愚政治の問題が、表面化した結果なのか。
 選挙民という相手の求めに応じて、魅力的な言葉を弄し、努力の殆どを排する動きを進める。楽しいとか、楽ができるとか、そんな言葉が魅力的に映る時代は、何か大きなものを失ってしまったか、それとも、その過程にあるのではないか。しかし、民主主義を、多数決によるもの、とだけ考える風潮では、こんな展開も当然のものだろう。では、この閉塞状態を打開するのに、必要なものは何だろうか。あるいは、打開せずに、このまま閉ざされた世界に留まるべきだろうか。危機感について、多くの人々が、様々に訴えているけれど、上に書いたようなことに、触れる人は殆ど居ない。その理由は、愚民に対して、魅力的に映らないからだろうが、選挙の当落に、振り回される人々だけでなく、無関係な人々までもが、そんな風潮に振り回されるのは、庶民だけでなく、識者と呼ばれる人々までもが、愚かになってしまったからだろう。魅力ばかりに目を奪われ、本質を見極めることを忘れた結果、心地好い意見を吐く人々が、持て囃される時代となっている。愚かさに、厳しい批判を浴びせる人は、舞台から引き摺り下ろされ、発言の機会さえ奪われる。反対意見も、批判も出ない中で、好き勝手に振る舞う人々は、破滅への道を突っ走っているように見える。だが、そこでも、皆で渡れば怖くない、といった雰囲気が漂っている。分かる努力を惜しんでは、自ら破滅するしかないのだが。

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