パンチの独り言

(2月22日〜2月28日)
(分からず屋、複雑化、卑下、慮る、欺瞞、罪悪感、穢れ)



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2月28日(日)−穢れ

 日々、様々な不正が暴かれ、関係者達が、厳しく糾弾される。多くは、法的な処罰の対象となり、表舞台から降ろされる。だが、いつの間にか、事件のことも忘れ去られ、同じようなことが起きても、思い出す人さえ居なくなる。懲りないのは、人だけでなく、社会自体も、忘れてしまうものらしい。
 不正の多くは、役所や企業などで起き、利害の関わりが、その根源にあるとされる。一方で、学問の世界は、世間の常識が通用せず、超越したものと見做されてきたが、最近は、こちらでも不正の話題は、枚挙に遑がない程となっている。学者は世間知らずであり、巷の出来事などに通じる筈もなく、まるで仙人のような生活を送っている、という解釈は、今では通用しないものとなっているが、何故だろうか。自分の興味に走り、他のことは目に入らない、とまで揶揄された人種が、いつの間にか、興味以外の欲に走り、その為に、不正も致し方なしと見ているのだろうか。原因の一つには、成果主義が、学問の世界をも侵し始めたことがある。成果を認めさせるための手段の一つに、論文発表があるが、その数を競い合うことが、ごく当たり前となったのは、ついこの前のことに過ぎない。これは一般社会と同じように、数を指標とするからで、量より質を追求した結果だろう。質が問われないとなれば、数を稼ぐ為の方策に走るのは、営業成績と同じであり、そこに不正が入り込む余地がある。一部の研究者の不正だけが、殊更に取り上げられるが、実は、この流行病は、学問の世界全体に蔓延していると言われる。捏造や改竄の話だけが取り上げられるが、更には、何もせずに、SFを執筆する気分で、書き上げられた論文さえあるという。事実は小説よりも奇なり、と言われるが如く、本来、実験や調査に基づく結果には、思いもよらないものが含まれる。だが、筋書きだけを見れば、創作の方が、遥かに論理的になる。こんな行為に、不正を感じない人間が、大きな顔が出来るのも、成果主義の結果であり、職業としての学問の闇の世界と言えるのかもしれない。

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2月27日(土)−罪悪感

 地位を確立する為には、少々の嘘は仕方ない。こんな意見に接した時、人はどんな反応を示すだろう。昔なら、世間ずれしていない若い頃には、正しい道を歩むべきとばかり、真実を語るべきとの返答が来たが、最近は、状況が一変したようだ。目的の定まった嘘は、必ずしも悪いこととは限らない。
 こんな意見が若者達から聞かれるようになったのは、成長に翳りが見え始めた頃だろうか。当時、皆で繁栄を築けば、皆がその恩恵に浴せるという考え方に、異論が目立ち始めていた。つまり、全体主義ではなく、個人主義の台頭であり、そこには、成果主義の導入があった。となれば、成果を上げるための方策を、全体ではなく、個人の範囲で考えねばならず、その為に、少々の嘘は構わないとの考えに、惹きつけられる人が増え始めた。評価を高める為に、数字の操作や結果の変更など、様々な手立てを講じても、それを基に、昇進や地位の確立が手に入るのであれば、問題はないとする。文字で読めば、何と身勝手な考え方か、とも思えるが、当事者には、それほどに大袈裟なものには見えず、正当な権利のように思い込む。その結果が、今の荒廃に繋がっているのだろう。企業に限らず、あらゆる組織で、そんな不正が発覚し、厳しい罰が下される。しかし、間違いを犯した人々には、罪悪感が見られない。彼らの主張は、こんなことは、先輩達が当然の如くにやってきたことであり、あの人々は平気なままなのに、なぜ、我々は厳罰を下されるのか、となるからだ。だが、そこにも嘘が隠されている。確かに、様々な操作が行われてきたのだろうが、昔と今では、その程度に明らかな違いがあるという点である。粉飾も、データの改竄も、行為自体の違いだけでなく、その範囲が広がり、法的な許容を超えてしまう。そこまでやっておきながら、昔もあったなどと叫んでも、無駄というものだろう。

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2月26日(金)−欺瞞

 信頼に適う人間になれ、と厳しく言われたことのある人も、多いだろう。それほど、他人の信頼を勝ち取ることは難しく、一つの失敗が、それまでに築き上げた関係を、瓦解させてしまうことがある。だが、真の信頼関係さえあれば、回復の余地はある。失敗の発覚を恐れ、隠すようでは、駄目なのだ。
 成長を続けていた時代、何の問題もなく、走り続けていたから、目の前にある目標さえ、達成していればよかった。だが、翳りが見え始めた頃から、次々に降りかかる、災難ともいえる問題に、舵取りを任された人々は、様々に対策を講じ、回復を目指していた。それでも、地道な努力さえ続ければ、光が見えてくることもある。そんな業界がある一方で、どの家庭にも備えられる機器を、供給する企業の業績は、回復の兆しさえ見えてこない。大手と呼ばれた所が、不振に喘ぐ中、最先端技術の結晶とまで呼ばれた、新製品の発売に、命運をかけた企業は、一気に頂点に上り詰めたと思われた。だが、冷酷な現実は、最先端をいつの間にか古臭いものへと変え、先行投資は、結局ドブに捨てたこととなった。再建が不可能となってからも、怪しげな身売り話を出し続け、蝙蝠のような行動に、市場の反応は鈍くなるばかりとなる。赤字を隠す為に、違法行為を続けた企業は、失墜した信用を回復する為の手立てが、功を奏する気配を見せない。大企業が揃って、これほどまでに、悪質な経営体質を見せる中、この国はどこに向かおうとしているのか。堅実さは姿を消し、一攫千金を狙うような手法には、結局、明るい未来への保証はない。日の出の勢いと言われたのは、ほんの少し前のことであり、当時と大した違いは出ていない。ただ、業績重視の体制では、目立ちたがりの厚化粧による、粉飾紛いの行為を得意とする人達が、活躍の中心となる。この傾向は、企業経営に限らず、この国を覆う重い病の表れのようだ。

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2月25日(木)−慮る

 謙遜も、度が過ぎると、嫌われることになる。できることを、できないと主張することは、評価を下げることに繋がるが、これも、遠慮や謙遜の表れとして、受け取ってほしいのだろうが、額面通りと見られかねない。一方、できないことを、そのままに伝えることには、避けたいと願う。
 所詮、個人の都合によるものであり、そんなことに、相手をする必要はない。だが、狭い世界に生きる人にとって、このことは、最重要の課題と思われるようだ。周囲との軋轢を避ける為、と称して、様々に情報操作をすると、結局は、信頼を失うことになる。その場の空気を和らげる為、とも言われるが、過度の操作は、逆効果を産むだろう。本人は、配慮のつもりでいても、逆効果となる時には、意図的な臭いがするものだ。作為的な操作であれば、批判を受けるのも当然であり、更に、印象を悪化させる。正直が必ずしもいいことでないのは、自己評価を提示する時より、相手の評価をする時にこそ、当てはまりそうだが、この辺も理解しない人が多い。他人に対して、厳しい批判をするなら、自分にも、その目を向けるべきだろうし、褒めることに終始するなら、自他共にそうすべきだろう。では、どう処すべきか、答えがある訳ではない。一貫性を保つことは、確かに重要なのだろうが、自分をも騙す形での一貫性では、何が何だか、さっぱり判らなくなる。配慮を前面に出すのも、一つの考え方だろうが、それによって、自分が疲れるようでは、元も子もなくなる。気楽に構えた時に、どんな言動となるかを、少し考えれば分かりそうに思う。他人の為と称する人の多くは、そんなことを考えている筈もなく、単に私利私欲に走っているだけだろう。そうなら、自分の為と、はっきり言えばいい。どの道、大した違いはなく、自分に良いことが、周囲にも良い方に向かえばいいだけのことだ。

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2月24日(水)−卑下

 できもしないのに、できるふりをする。空威張りとも言われた言動は、若者達の特徴と見做されていたが、これも昔のこととなってしまった。実力通りに評価して貰おう、などとは思っていないだろうが、力の無さを、臆面もなく表明するのは、どんな意図があるというのだろうか。
 空威張りが消し飛んだ途端に、謙虚さが現れたと見れば、早熟の表れとも言えるが、様子を眺めるに、とてもそんな状況にあるとは思えない。何しろ、自己評価は的外れの羅列で、自らの力を、客観的で、正当と思えるような形で、評価する為の資質さえ、身に付いていないのだ。だとすれば、卑下するような言動には、どんな意味があるというのか。想像するしかないが、目立たぬ為の方策の一つと、彼らは思っているようなのだ。自慢をすると、他人との違いが露わになり、目立つことになるから、場合によっては、虐めの対象となり兼ねない、との思いが表れている、との解釈もあるが、それもまた、的中とは言い難いものだろう。虐めは、世間が喧しく伝えるほどには、現場での問題とはなっておらず、却って、何かができない言い訳に使われているだけなのだ。それより、大きな割合を占めているのは、自分を小さく見せることへの、強迫観念のようなものではないか。芸人達が、馬鹿げた言動を繰り返し、限界まで自分を蔑めることで、笑いを取ることが、日常へも影響を及ぼし、それが当然との受け取りが、自らの行動に反映されたと見ることもできる。大人達の謙遜には、自信の裏付けがあり、独特の空気を作り上げるが、それとは全く違った雰囲気を、若者達は作り出そうとしている。つまり、他人が、過小評価や卑下と受け取りそうなことを、自ら信じるものとして、見せつけている訳だ。理解に苦しむのは、それで何を手に入れようとするのか、ということだ。

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2月23日(火)−複雑化

 分かり易さだけを考えれば、単純な話ほど、好まれるに違いない。しかし、少し考えれば判るように、世の中は、様々な要素が絡み合い、それらが複雑に作用し合って、成り立っている。その中で、過剰に単純化された話は、多くの欠陥を持ち、すぐに破綻を来すことになる。
 こんなに明らかなことに対して、人々の関心が向くことは少ない。努力せずとも分かる話に飛びつき、努力せずとも利益を得られる話を信じ込む。詐欺のような犯罪とは言えないまでも、約束を果たさず、開き直りとも受け取れる、乱暴な言動を続ける人は、政の世界だけでなく、日常生活と密接に関係する場でも、屡々見られている。そんな人が放置されるのは、相手になる人が居るからであり、何度騙されても、同じ罠に嵌るのは、単純明快な話に惹きつけられるからではないか。たとえ明快だとしても、それがあり得るものか、そうでないものかを、判断することなしに、信じ込むのは、止めておいた方が良い。では、何を判断の基準とするのか。事例ごとに異なるから、これという一つの答えがある訳ではないが、分かり易さに振り回されず、まずは、相手の話を疑ってかかるように、した方が良いのだろう。批判的な態度をとる人は、一般的に嫌われる対象となるが、最終結論を、何処に導くかにより、評価は大きく変わるだろう。始めは、評判を気にせずに、まずは疑ってみて、そこから、様々な見解を導いてみる。単純な話の問題を、こんな視点から捉えれば、簡単には騙されなくなり、無駄を減らせるだろう。それも、ただ疑うだけでなく、他の可能性を示せれば、成果を上げることも難しくはない。多面的な見方、とよく言われるのは、こんなものの表現であり、それを身につけてこそ、自分の意見を持てる筈だ。どうせ、などと、諦めてはならない。

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2月22日(月)−分からず屋

 他人の話が分からないのは、誰の責任なのだろうか。自らの不明を詫びる人は、たとえ、謙遜にしても、自分の責任としているようだ。だが、そんな人は少なく、特に最近の傾向では、相手の問題を指摘する人が多い。分からぬ話を、意味不明と表現するのは、客観的な評価を装うものなのだ。
 だが、こんな言葉を吐く人間の多くは、相手の話を理解する為の努力はしない。分かるように話さない奴が悪い、などと文句を並べるが、理解するだけの力を、自分が擁しているかに、目を向ける気が無く、その為に必要となる努力には、気付く気配さえない。では、こんな連中を相手にした場合、どうしたらいいのだろうか。愚かな人間を諭すことの難しさは、尋常ではないのだから、簡単な道を選びたいなら、無視するのが最善だろう。所詮、文句を並べる人間の多くは、大した権力も持たず、不満を並べるだけの、心までもが貧しい人間だから、相手にせずとも、何ら問題は起きないからだ。それでも、面と向かって、文句を言われたら、面倒に感じることもある。そんな時、一時の面倒を気にせず、厳しい言葉を浴びせるしか、方法はないように思う。いかに、理解する力がないとはいえ、目の前の障害を取り除くには、罵声を浴びせてでも、退かせるしかないからだ。こちらも、少し気分が悪く感じられるが、相手の礼を失した言動も、指摘しなければ、認めたことになりかねない。そういう輩に限って、こんな結果を、自慢に繋げるから面倒なのだ。若者の多くが、こんな過程を経て、大人になると言われるが、最近の風潮では、未熟なままで、幼稚な心を持ち、攻撃的で、残虐な人間が、社会をうろついているようだ。叱責に不慣れな人間が、自らの不明を詫びたとしても、おそらく、何も感じていなだけなのだ。

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