嘗ての日の出の勢いは、何処かに消えてしまった。普通に考えれば、成長には限りがあり、何処かの時点で、勢いが止まるのは当然だが、当時の渦中の人々は、そんなことは夢にも思わず、何処までも続くものと考えていた。しかし、現実は、全く違った経過を辿り、当時の考えは、傲慢だったと片付けられる。
どの国も、そんな浮き沈みを経験してきたものだが、何処でも、自分には当て嵌まらないと思うものらしい。嘗て、世界帝国と言われる程に、植民地支配を広げ、その力を誇示していた国は、今や、隣国との共同体の扱いに、迷いを見せる程となり、あの栄光は過去のものとなってしまった。世界大戦をきっかけに、繁栄を続けてきた国も、こちらが日の出の勢いを見せた当時から、一人勝ちの構図を保つことが難しくなり、競争相手の頭をどう抑えるかが、重要な課題の一つとなってきた。市場開拓の一環として、発展の途上にある国を支援することで、市場の拡大を図ってきたが、それを端緒として、急激な発展へと転換した国々は、脅威の存在として、蹴落とす必要が論じられる程となる。だが、どの例を眺めても、成長に限界があるのは明白であり、どんな存在も、それに抗うことはできない。近年の成長の象徴となった国も、急激な発展の末に、そろそろ減速に移りつつあるように見える。ただ、こちらとの違いは、国内の貧富の差ではないか。海の向こうも、著しい差を問題視する人々がいるが、隣の国も、急速な成長の恩恵を受けたのは、一握りの人だけであり、その他大勢は、将来の恩恵を夢見てきた。その夢が、政策の転換の一言で、奪われることになったら、さて、どんなことが起きるのだろうか。こちらは、差を殊更に強調する人がいるとはいえ、話題の二国とは全く違った状況にある。海の向こうは、差があっても、機会は与えられる。だが、隣国の方は、そうもいかないだろう。次はどんな混乱が起きるのか。
全体から見れば、大人しいとの印象が強いのだが、中には、飛び抜けて目立つ若者がいる。派手な振る舞いに見合うだけの、能力の高さを見せる人がいる一方で、見栄ばかりで、実力が伴わない人もいる。ただ、どちらにしても、評価の仕組みが確立しない中では、注目を浴びる存在となるようだ。
目立ちたがりにとって、今の時代は、複雑な様相を呈している。高い評価を受ける反面、仲間内から虐めとも言える、厳しい仕打ちを受けることがあり、精神的な強さが伴わないと、所謂、壊れてしまうということになりかねない。だから、周囲で目立つ若者の多くは、少なくとも、凹むことなく、元気に振る舞う。だが、強がりが伴うようになると、周囲への配慮が欠け始め、自分中心の考えに拘ることになる。それが成功に繋がればいいが、多くは、更なる孤立を招き、精神的な成長を逃してしまう。年相応のことさえできない、目立ちたがりには、明るい未来はありそうにもない。自己主張の少ない国民性が、こんな人々を増やしているとの指摘も、結局は、対応の拙さばかりが目立ち、出る杭が打たれることへの反動が、逆効果を招いているだけと思える。仲間と同じという考え方も、不思議なものと映るのだろうが、その一方で、ただ目立ちさえすればいいという考えも、未熟なものと切り捨てるべきだろう。ある考えに拘り、縛られることが、状況を悪化させるのに繋がることに、気付きさえすれば、少しはまともな方に向かえるに違いない。ただ、気付かぬ本人に、何らかの働きかけをすることが、大切であることに、周囲が気付く必要がある。どうも、今の社会は、そうなっていないようだ。
成果主義が台頭する一方で、人々は、自らの特徴を捉えることに、抵抗を覚えるようになってきた。業績を主張する為には、その要因となった自分の役割を、客観的に捉えることが必要となるが、自己評価も含め、自分中心ではなく、他者から見ても正当と思えるような、分析が必要となる。
謙虚な国民性からすれば、謙遜や、時にそれが極端な形として現れた、卑下などといった言動も、当たり前のことと受け取られていた。だが、成果を主張する為には、組織の業績の中で、自らの役割を定め、それを正当に評価して貰う必要がある。こんな所で、謙遜などしていては、過小評価の対象とされかねないのだ。そこで、意を決して、自分の特徴を列挙しようとするが、それまでの習慣からか、中々考えが固まらない。だが、そこでの逡巡は、正しい評価を導けず、成果の反映からの、給与設定などに問題を生じる。この傾向は、何も個人に限られたものではない。組織や国でさえも、こういった傾向が、国民性を背景として、強く示されているのだ。世界標準からすれば、自己主張のない場合、不当な扱いを受けることとなる。謙遜が美徳とされるのは、狭い国の中に限られたことに過ぎず、海を渡れば、状況は一変する。その中で、魅力をどう際立たせるかについても、個人、組織に限らず、課題となってきた。だが、現実は厳しいものらしく、自らの魅力を表現することもできず、壁の花の如く、目立たぬように努めてしまう。積極的に主張する必要はないが、やはり、正当な評価を欲するのであれば、何かしらの働き掛けをしなければならない。美徳以前に、自分のことを理解せねば、こんなことはできない相談だろう。客観だろうが、主観だろうが、特徴を捉える為に、必要なものが何かを、考えねばならない。難しく考えず、まずは、試すことからだろうか。
勤勉は格好悪いこと、と思われているのだろうか。努力や頑張りが、評価されないと言われる。この図式には、少しおかしな所があり、自分のものは評価して欲しいのに、他人のことは評価しない。そんな不均衡が罷り通るのは、自己中心的な考え方が、個人主義の台頭と共に、勢いを増しているからか。
少し見方を変えて、努力や頑張りは、何の為にするのか、と見てみると、何かを手に入れる為、という答えが返ってくるだろう。お金という直接的なものもあるだろうが、大きく言えば、権利がそれなのではないか。手に入れる為に、様々に工夫を凝らし、努力を積み重ねる。個人主義をこの国に注ぎ込んだ、海の向こうの国では、成功物語が好まれ、集団としてより、個人がそれぞれに頑張った結果として、手に入れた成功は、特に評価されてきた。貧しい環境から、成功を収めるまでになったのは、個人の成果として評価され、その機会が与えられることが、あの国の特徴となっている。若年層の堕落が、先進国全体に広がる中、あそこだけは、その病に侵されていないと言われるのも、そんな環境によるとの解釈があるが、実は、新たな参加者にさえ、機会を与えていることが、停滞や閉塞を排除する、最大の要因との解釈もある。保護主義が忌み嫌われるのも、機会均等という考えが根付いているからで、人の出入りが少ない他の国と比べ、違った様相を呈してきた。だが、そろそろ、その繁栄にも陰りが見え始めた。大統領を選ぶお祭りは、まさに、盛り上がりの頂点に達しようとしているが、そこで表明される考えは、権利を守る為に必要となる排除策、といったものだ。機会は不均等になり、夢は描けぬものへとなる。それでいいのかは、誰にも判らないが、その考えが魅力的と捉えられる状況に、衰退の兆しを感じるのは、心配性によるものではないだろう。
労働者の権利を守る組織と言えば、誰もが組合を思い浮かべるだろう。雇う側と雇われる側、それぞれに権利があるのだが、立場の違いは、力の違いとして現れる。弱い立場の人々を守る為には、個々の勝手な動きより、団結が重要との見方から、組合が組織され、構成員の利益を求めて活動する。
こんなことを改めて書いたのは、現実が、その理念と乖離しているように見えるからだ。貧しい時代には、組合活動は厳しく制限され、利益を追求するのは困難だった。それが、景気が良くなり始めると、状況は一変し、権利主張も公然と行い、自分達の努力が実って、企業が上げた収益の分配を、要求できるようになった。だが、上昇に翳りが見え、下降が明らかになると、当然とされてきた昇給などの要求は、当然の如く、差し控えられ、経営側の苦悩を理解する必要性を、取り上げるようになった。確かに、家主が潰れては、店子が生き残ることも難しい。だから、こういう活動も当然とするのだろうが、嘗ての活動では、忌み嫌われてきた擦り寄りを、あからさまに行うのは如何なものか。組合の存在意義が、危うくなってから久しいが、回復してきた景気に、一部の業界は、再び組合活動が目を覚ました。ただ、景気に左右される活動には、筋違いの感は否めない。一方、公僕に関わる組織の団結は、その目的も含めて、理解し難いものがある。権利追求の為に、活動を行うことは、公の業務に支障を来し、本来の役割を果たせなくなる。また、雇う側と見做すべきは、役所なのか、納税者なのか、難しいところであり、この雇用関係においても、通常の組合の定義を、当て嵌めることはできない。最近、加入する割合の低下が問題視され始め、幹部は危機感を抱いているようだが、その存在意義も含め、何をどうしたいのかという疑問は、消し去ることができない。権利の前に義務があるとすれば、この活動への制限も当然であり、保証を先に立てることは難しい。無用の長物が消えるとして、困る人は誰なのだろう。
学問の場が、危うい状態にある、と話したところで、人々の反応は、鈍いままだろう。興味を示したとしても、事実を追求する研究において、不正や捏造が通用する筈がない、と否定されるのが精々だ。だが、事実は小説よりも奇なり、を地で行くが如く、人間の欲には、不可能がないようだ。
昔の多くの著名な科学者達の中にも、実験結果の操作をしたとされる人は多い。存命中に批判の的となった人は少なく、名誉は保たれてきたが、今では、業績の多くが否定されている人も居る。だから、最近の腐敗ぶりも、騒ぐほどのものではない、と言いたいわけではない。名誉や地位を手に入れる為、というそれぞれの理由も、昔と今では、大きく違っているからだ。欲という意味では、何の変わりもないものの、事実を知りたいという欲だけで、結果の選別を施した挙句、改竄に手を染めるという行為は、決して正当化できるものではないが、事実などには一切興味を示さず、ただ単に、地位や名誉を追い続け、結果として、捏造を繰り返す行為に至った人の心理とは、随分違ったものに思える。発見への先陣争いに加わり、成果を願うが余り、不正を働くことは、少し考えれば、道を誤ることに過ぎず、すぐに、手柄を失うことになるのだから、無駄な足掻きに過ぎないと見るのが、当然ではないか。その考えが、通用しない時代に、人々は行動規範を見失っている。手に入れたものは失われない、としたら、こんな行為もあり得るのだろうが、現実は、どうだろうか。簡単に決め付けることはできないが、微妙な状況にあることは確かだろう。特に、新たに参入する人々にとって、地位を確立した人々の言動には、そんな闇が見え隠れするからだ。能力の低下を危ぶむ声もあるが、それより、心の働きに関するものの方が、遥かに深刻な問題となっている。それを意識し、対策を講じようと、教育体制を整える話が出てくるが、実際には、小手先の教育では何ともならない程、病状は悪化していると思う。競争による欲望の高まりは、害悪にしかならない。
成果主義の問題を取り上げれば、仕組みの問題に全ての責任があるかのように、感じる人も多いと思う。確かに、導入以来、様々な問題が噴出し、解決の糸口さえ見出せないものが殆どだ。だが、組織が抱える問題の多くは、人の問題であり、実は、仕組みによるものは、彼らの登用にあるのではないか。
同じことを言っているのでは、と思われそうだが、これは、少し違った観点の話である。仕組みの責任とする人々は、それにより、人間の行動が変化したことを指摘するが、現実には、仕組みにより、高い評価を受けた人間の大部分は、元々、不正を感じないのであり、それをきっかけに、道を誤った人の数は、それほど増えていないと思う。旧来の仕組みでは、地道な活動も評価の対象となり、派手な振る舞いが、優先されることは少なかった。そこでは、不正を働いてでも、業績を上げようとする人の活動は、過大に評価されることなく、打算的な仕事だけに目が集まることもなかった。堅実な仕事に目を向ける人も多く、そこでの人事評価は、確実なものとなっていた。それが成果主義が導入されると、見た目ばかりに注目が集まり、粉飾や捏造を繰り返してでも、業績を稼ぐ人の評価だけが高まった。彼らが昇進すれば、同種の人間への注目は、更に高まり、派手さが増すばかりとなる。となれば、不正は日常化し、組織の為という言い訳も加わり、極みへと盲進を続ける。業績でありさえすれば、それが売り上げだろうが、論文の数だろうが、何でも構わないのだ。これが収益追求に走る企業から、神聖であった筈の学問の場である大学まで、様々な組織が腐敗した原因となった。ただ、地道で堅実な人間は、まだ、影での活躍を続けている。そろそろ、日の目を見る時期が来るのではないか。