パンチの独り言

(3月7日〜3月13日)
(要求、復活、疎外、快楽、思い遣り、勝手気儘、誤謬)



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3月13日(日)−誤謬

 最先端の科学を学ばせる、として、その制度は始まったと言われる。こんな誤解が蔓延したのも、情報伝達者の思い込みと、それを正さなかった役人達の怠慢からだろう。突き出た才能を伸ばす為なら、集団を相手にするより、個人を対象とした方が、良い筈なのに、協調という環境整備を目指したのも、失敗だった。
 それでも、競争原理を取り入れ、順番を決める大会を催せば、分かり易くなると思ったのか、これもまた、情報の歪曲へと繋がった。最先端が優先され、理解をすることの大切さが無視された結果、研究者の手伝いが、最も手っ取り早い手段として、各校で挙って取り組まれた。結果は、確かに一番を取れたのだろうが、中身が伴わないものに、未来は明るくはならなかった。更に、それに輪をかけたのは、最先端の言葉に踊らされた若者達が、即席の枠組みに基づく、学習への取り組みを始めた結果、理解が及ばず、努力を放棄してしまったことだろう。大金を投入したとしても、仕組みが間違っていたら、こんなことが簡単に起きる。少しの想像で、すぐに分かることさえ、見えなくなる程に、間違った解釈に酔い痴れた訳でもあるまいに、何故、こんなことが続けられてきたのか、不思議としか言いようがない。その上、何の成果も出せなかったことさえ、総括の対象とならなかったのは、順番を決めることが、誤魔化しを招いたからだろう。犠牲者達も、振り回された挙句の果てに、声を上げなかったのは、何故なのか、ここにも不思議の一つがある。何れにしても、ここまでの失敗を反省し、改善を図ろうとするなら、基本に帰り、本質を見極めることこそが、重要となるだろう。現場の混乱は、依然として大きなものだろうが、それを解消する手立ては、無い訳でもないし、難しいことでもない。そこに手を貸してこそ、研究者の存在意義があるのだが、その見方ができる人は、多くないようだ。

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3月12日(土)−勝手気儘

 忘れるか、忘れないか、選択の自由が保障される中では、どちらを選ぶのも、人それぞれとなる。だが、あの事件を忘れないとか、あの災害を忘れないとか、声高に訴える情報に接すると、人は自分で決められなくなるようだ。確かに、大切なことは、誰もが忘れない。しかし、大切かどうかは、人それぞれだ。
 事故でも、災害でも、大きなものは少ないように思われているが、生きている中で起きるのは、意外な程多くあるように思う。それを全て詳しく覚えておくことは、日々の生活に追われる身としては、難しいことのように思える。こんな状況に接していると、自由とは何か、改めて考えねばならないのでは、と思えてくる。勝手な言動に、皆が挙って走る中で、何かしらの制限をかける動きに、心が揺れる人も居るだろう。だが、信念を持ち、それに従って生きていさえすれば、揺らす必要もないのではないか。結局、動かされるのは、自由が許される中で、甘い考えに浸り、他人からの影響を強く受けているからで、そこには、信念などというものは無い。享楽に走る人々が目立つのも、そんな事情からだろうし、彼らが欲に走るのは、それが一番楽だし、楽しいからに違いない。だからこそ、忘れないことを強調しなければ、誰もが、快楽を追い求めるだけとなるから、との解釈もあるが、果たして、そんな活動が功を奏するのだろうか。揺れる人々の多くは、実は、他人に流されるものの、協調性を重視し、人と同じであることを好む。だからこそ、少しの揺動に心穏やかには居られなくなる。だが、欲望の中心となる人々は、そんなことには耳を貸さない。本来、そちらの方が、標的となるのだろうが、結局、何も変わらないことになる。不公平と思う人も居るが、勝手な人々は、保障された途端に、更なる身勝手を実行するものなのだ。

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3月11日(金)−思い遣り

 この問題が取り上げられる度に、自由とは何かを考えさせられる。自分で決めること、だからこその自由だが、それが外からの力で、制限される。人それぞれの思いがあり、それに基づいた言動が起きる。その一方で、それを嫌う人々からの苦言が示される。自由という枠組みの中で、どんな答えがあるのか。
 皆がそれぞれに、自分の思いを表現しようとしてきた。だが、その中には、自己満足としか映らず、利己的な発言と受け取られるものもある。多数が同じ思いを抱く場合、発言者の考えに問題があるとされるが、同じような考え方をする人の中には、逆の立場の人々を攻撃し続ける場合がある。賛成するのも、反対するのも、個人の自由だから、という解釈には、間違いはない。だが、意思の表明において、極端な言動へと繋がると、自由の枠を逸脱することとなる。意見交換の場での、批判や議論は、妥当なものと見做されるが、個人的な付き合いの中や、匿名性を利用した発言の場でのものとなると、事情は大きく変わるのだろう。的にされた人々の心は傷つき、自由が奪われたように感じられる。それを更に訴えるような事態に、社会は翻弄されてきた。解決策は見出せず、対応も表面的なことに留まり、根本解決の道は見出せそうにもない。何が、最大の要因となっているのか。人々は見つけようと躍起になっているようだが、その行動の基となっているものも、よく似た心情から来るのではないか。自らの自由を守る為に、その障害となるものを除こうとする。それが、他人を排除したり、彼らの自由を奪うことになっても、その意味を捉えられないのだ。自分が一番大切なのは、当然のことだが、それと共に、他人を思い遣ることも、当然のことではないか。その辺りの見方が、徐々に変わってきた結果が、今を表しているように思う。定着したものを取り除くとなれば、時間が必要となるのだろう。

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3月10日(木)−快楽

 困ったら、誰かが助けてくれる筈、と思うのは、その人の勝手だが、社会が、それに責任を感じるようになると、実は、歪みが増すことに、そろそろ気付くべき時が来ているのではないか。要求が増すばかりの世の中で、もっともっとと、人々の欲は広く深くなっている。願いが叶えば幸せとは、少し違う。
 要求を口にするだけで、何かが起きる時代に、こんな話は受け容れられる筈もないが、敢えて書いておかないと、いけないような気がする。願いとは、確かに口にするだけのものだろうが、望みは、違うものである。心に描いた望みに対して、他からの働き掛けの前に、自分自身の努力をせねばならない。努力とは、格好悪いものとの話は、先週書いたことだが、何事にも、手に入れたいと思えば、それに向かって走る必要がある。それを努力と見做すかどうかは、人それぞれの解釈の違いだが、昔は、それを総じて努力と呼んでいた。小さなものから大きなものまで、空いた時間を全て費やすどころか、寝る時間も惜しんで、などと言われていたのだ。それが、寝る代わりに行うのは、ゲームでしかなく、依存症とみられる程のものも多い。肝心の努力は、どこかに放り出され、楽しみを追い求める人々の欲は、確実に以前と違う方を向いている。どうすれば、悦楽のみを追い求める人々の目を、違う方に向けることができるのだろうか。諦めにも似た発言では、こうなってはもう遅い、となる。更に、劇的な変化が起きない限り、他の可能性は出てこない、という意見まであり、諦めるしかないように見える。安定が長く続いた時代に、不安は何よりもまず避けるべきことと思われるだろうが、安定だからこそ、様々な対策を講じて、そこから外れないように努めるべきではないか。その観点を持たない人々には、こんな時代、快楽しか求めるものがないのだろう。

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3月9日(水)−疎外

 仲の良さを表す為に、様々な気遣いがなされる。何の不思議も無い、と思う人も居るだろうが、輪の外に居る人間には、単に疎外感を催されるだけのことだ。仲間内でしか通用しない配慮には、強い差別が隠されており、輪の内に居る人間は、そのことに気付く気配も無い。この感覚の違いは、何処から来るのか。
 一人一人が違うのは、当たり前のことであり、その区別には、何の問題も無い。ところが、それが差別という形をとると、差をつけられた人間は、理不尽を感じてしまう。どちら側に立つかで、この点は受け取り方が異なってくるから、単純に、その行為を批判することは難しく、人によっては、問題を指摘するより、仲間の輪の中に入ることを、選ぶようだ。その行為が、差別を更に激しくさせ、その対象となった人間に、心理的な圧迫を感じさせることに、仲間達は気付くことなく、時に、極端な所にまで進んでいく。自分達の心地良さに比べ、相手の疎外感は厳しいものだが、仲間かどうかを選択肢としているだけに、その違いを理解することはない。これが、状況を更に悪化させるのだが、当人達の考えを聞いても、利己的な考えを理解できる筈もない。孤立化を避ける為には、仲間となることが第一であり、それを優先させることで、自らの立場を確保する。自分にとっては、ごく普通の考え方なのだろうが、それにより、他人を排除するとなれば、別の考えに思いを至らせてもいいのではないか。虐めという言葉から、様々な問題が起きてきたが、仲間に関することも、その一つと考えられる。悪影響はこれに留まらず、更に広がることになるだろうが、一番の問題は、自分で気付かぬことだろう。また、現実でも、助言が難しい状況にある。

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3月8日(火)−復活

 一極集中とか、過疎化とか、そんな言葉に度々触れるのは、人々が都会に集中し、地方が忘れ去られているからだ、と言われる。でも、その原因を考えると、何も、都会に走る人間だけの問題でもないし、魅力を振りまく都会の問題でもない。地方に居続ける人々の問題の方が、遥かに大きい場合が多い。
 何故、人は都会に集まるのか。仕事があるからとか、刺激を求めてとか、昔から、色々なことが言われ続けてきた。だが、確かに数は少ないものの、仕事は地方にもあるし、刺激は、考え方次第で、何処でも見つかるものではないか。地方創生という言葉で、何か特別なことをやろうとする人々が居るが、それとて、大したことは起きない場合が多い。旗振りは一杯居るけれど、何の為に振っているのか、気付かぬままでは、埒があかない。金さえ注ぎ込めば、何か起こせると信じるのもいいが、群がるハイエナ共に、くれてやるだけとなる。短期の投資話ばかりで、長期展望がないのも、最近の活動の特徴であり、その繰り返しが、却って、疲弊を産んでいるとも言われる。実際に、地方と呼ばれる地域に出かけてみると、それぞれに、違った問題を抱え、解決の糸口さえ見出せない状態にある。そこで、旗振りが始まるのだが、多くは、課題を的確に捉えるより、まず何かを始めようとして、闇雲に思いつきを繰り出し、手をつけていくこととなる。その結果は、ここで触れるまでもなく、失敗の連続となり、疲れ果てた人々は、以前にも増して、諦めの声を漏らすこととなる。何が足らないのか、様々に指摘がなされるが、どれも、的外れの感を否めない。地域からは、悲鳴が聞こえるものの、その一方で、衰退の一途を辿るとは言え、自分達の生活の範囲では、意外な程の満足に溢れる。この乖離は何処から来るのか、その答えが見出せない限り、彼らが求める地方の活性化は、起きそうにもない。

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3月7日(月)−要求

 遠慮がちな言葉遣いだが、要求することには変わりはない。人々は、互いの事情を考えているようで、実は、自分の思いを遂げたいと思うだけなのだ。人間関係がギクシャクしていることを、世間では問題視することも多いが、構築の仕方も含め、相互理解が第一となることに、気付いていないのだろうか。
 昔は、何事にも辛抱が肝心であり、自己主張などとんでもないことで、まずは、目上の人間の指示に従うことが、優先とされていた。そこから、暫くの間は、自分の思いがあったとしても、おくびにも出さずに、言いつけを守り続け、その段階が過ぎてから、やっと、自分のことを言い始める。当たり前とされたやり方が、いつの間にか、通用しない時代となり、皆が勝手な要求を出すようになり、人間関係は、何処か滑らかでないものとなっている。何をすれば、良い関係が築けれるのか、気にする人はいるけれど、どうすればいいのか分からない。そればかりか、実は、自分の要求が、問題を招いていることに気付かぬから、どう改めればいいのかさえ、分かる筈もないのだ。昔もそんな人間は居たのだろうが、大人達が厳しく叱ることで、何かが悪いことに気付かされ、何をすればいいのか分からぬままに、考えることから始めていた。だが、今は、叱ってはいけない世の中で、不満があっても、放置する場合が多い。自分で気付く筈だから、と彼らは主張するが、一向にその気配は見えない。そのまま、関係は崩れ始め、結局、互いの信頼も失われていく。なぜ、こんなことが放置されるのか、分からないだけなのだが、少なくとも、自分の周りくらいは、何とかしたいものだ。

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