パンチの独り言

(3月14日〜3月20日)
(良識、毒消し、風物詩、狂騒、誤解、無学、大失敗)



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3月20日(日)−大失敗

 情報を手に入れようと、躍起になる人が居る。資産運用の世界では、資金を如何に増やすかが肝心であり、その為に必要となる情報は、何よりも大切となる。だが、その源を見出すのは、簡単なことではなく、皆それぞれに苦労して、かき集めている。真偽入り交じる中で、吟味も重要な課題となる。
 金銭が絡めば、誰しも必死となり、情報を手に入れようと、日々努力を繰り返す。だが、役立つものに接する機会は、思う程に多くはなく、折角手に入れたと雀躍したとしても、実際には、がせをつかまされたとなることも多い。都合のいいもの程、危ない可能性は高く、踊らされることも多い。特に、人伝てで手に入れられるものより、誰もが触れられる情報に、怪しいものが多いようだ。何度か酷い目に遭わされれば、懲りることもあるだろうが、その回数は、欲の深さに比例するようで、欲深い人程、何度も騙されるようだ。羹に懲りて膾を吹く、とばかりに、用心深くなっているように見えて、実は、欲に目が眩み、折角の注意を怠ることが殆どで、学ぶことは殆ど無いに等しい。だが、こんなことでは、なけなしの資産をも失いかねない。欲は欲として、自分の過ちを理解しつつ、冷静な判断を下す必要がある。その為に必要となる訓練は、様々にあり得るのだろうが、失敗を恐れていては、学ぶ機会をも失いかねない。小さな失敗を繰り返した挙句、大きな失敗が避けられるようになれば、それでいいのだろう。失敗を全て避けて、堅実に進めようとすれば、確かに、確実な運用が可能になるだろうが、どこかで、一つの間違いが、取り返しのつかないものとなる危険は常にある。人生と同様に、成功も失敗も、小さなものの反復が、大切なのだろう。

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3月19日(土)−無学

 人は学ぶことができるから、成長があると言われる。だが、周囲を見渡してみると、何も学ばず、失敗を糧に出来ず、ただ漫然と生きている人ばかりだ。いつから、そんなことになったのか、思い当たる節はない。変化が少ない時代には、楽を優先し、保障される権利の中で、居座るからなのか。
 人の間での遣り取りに於いて、様々な働き掛けが、互いに飛び交うことになる。その影響は、一方的なものでなく、相互に作用するものとなるが、多くの人は、自分だけが影響を受けていると思い込むようだ。被害者保護が常となる社会では、影響を強く感じれば、何かしらの手が講じられ、問題が解決されると思う。だが、実際には、訴える程の力の差はなく、議論をしさえすれば、解決することが多くある。その段階を飛ばし、一気に他者への依存を強めるのは、最近の傾向なのかもしれない。こんな形が続けば、秩序が乱れるのは必然と思えるが、目の前の問題を解決することに、心が奪われている人々には、重要な視点が欠けているようだ。そんな時代が長く続き、互いに、如何に被害者となるべきかを、まず考えようとするようになると、相互の理解は不可能となり、利己的な考え方が常となる。対面での会話より、機械を通してのものが、多くなってくると、この傾向は更に強まるようだ。特に、陰口がいいこととは言えないが、陰で話すべき内容が、白日の下に晒されることに、問題は拡大し続けている。目の前の人間相手に、話しかけるのと、どこの誰か分からぬ人に、話しかけるのでは、同じ内容も、違った形で伝わることもある。注意を要する筈のものに、不注意に近づくようでは、学んでいるとは、とても言えない状況だろう。

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3月18日(金)−誤解

 大局観、細かな計算では導き出せない、そんな感覚のことだが、それが機械によって、実行されたとの解釈だった。だが、よく眺めてみると、実情はかなり異なったものに思える。細かな計算の果て、ではないものの、幾つもの事例を集めて、そのうちで最良のものを選び出す。違うのでは、と思う。
 人間の中にも、こんな感覚を持つ人の数は、多くない。だからこそ、大局観の重要性が、取り沙汰されるのだが、その能力を、機械が獲得したとの報道に、驚いた人が多かったろう。だが、その内容を見ると、大したことではないように思える。定石と言われるものを、如何に多く覚えるかが、初心者にとっての上達の道と言われるが、余りに多い選択肢に、困難を極めると言われてきた。そこに、計算力を誇る機械が登場しても、膨大な計算数に、終わりのない道を歩むようなもの、と思われた。その考えを変えたことに、今回の意味は確かに大きいだろう。しかし、実情は、人間の感覚との繋がりとは、大きく異なるものとなり、ただ、学習効果の飛躍的進歩といった、業績のみが注目されるべきと思える。受け入れることを拒絶している、と見る人も居るだろうが、簡単に騙されるのも、同じ思考過程によるものと見る。問題点を取り違え、到達点を見誤ることは、進歩の過程で、度々起きることだろうが、期待の大きさに、そんな失敗を繰り返すのは、詐欺に出合う人の多くと、同じ心理に動かされているのではないか。所詮、盤上の戦いに過ぎず、同じやり方が、自身の人生を決める手立てになるかどうかは、棋士達の様子を見ていれば、何となく理解できる。上達の末でも、一番になれるのは、たった一人に過ぎない。それでも、成功と見れば、それまでの努力が報われるのだろうが、人生として考えると、どんなものだろう。だが、一般庶民と雖も、大局観を身につけ、自分に関わりのあることを、その見方で処理することで、様々な成功を手に入れることができる。こんなことで、機械に頼る人間が増えるのは、愚の骨頂と言うべきだが、どうだろうか。

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3月17日(木)−狂騒

 要求が満たされないと、様々に不満を並べる。ごく普通の反応なのだが、時代の変遷は、その様相を一変させている。ただ、その実情は、かなり貧しいものであり、正当な対応ができているとは言い難い。不満を呟く人は、昔なら、目の前の人間に聞いてもらうだけだったが、今や、相手は世界中に居る。
 情報発信の手段は、以前は限られたものに過ぎず、ほんの一握りの人間だけが、その権利を得ていた。ところが、手にした通信機器から、世界に向けて発信することが可能となり、発言の権利は、誰もが手にすることができるようになった。それに加え、目の前の人間を相手にすれば、こちらの素性が知れるのに対し、匿名性が保障される仕組みでは、自身の感覚としては、誰にも知られることなく、好き勝手な意見を並べることができ、不満の内容も、その訴え方も、極端なものへと変貌した。対応の拙さは、騒ぎ具合を眺めると、少しずつ解ってくる。私的な問題を、そんな所に載せるのも、対象の広がりを意識する心と、その反響に思いを致せない心に、よるものなのだろうが、影響される人々の狼狽ぶりには、呆れてしまう。声の大きさに左右される人々にとって、こんなやり方が常となると、慌てて無駄なことばかりを並べてしまいそうだ。それに拍車をかけるのは、情報伝達に関わる人々の、これもまた、非常識としか思えない、勝手気儘な論調であり、そこには確固たる考えは微塵も感じられない。何故、こんな不均衡が起きているのか。多くは、本質を見抜けぬ、未熟な精神の持ち主が、器に合わぬ力を得ているからで、本来ならば、器に合わせる努力を、当人達がする筈だったのが、最近の傾向では、そんな気配が無くなったからだ。未熟な人間同士が、騒ぐ様子を眺めて、大人達は、言葉を失っているのが、実情なのではないか。

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3月16日(水)−風物詩

 春の風物詩として、毎年楽しみにしている人が居るだろう。だが、今年は、状況が違うようだ。不漁というだけならまだしも、漁をしないとの決断をした地域もある。それ程に、数が少なくなっている事態に、困り果てている人も居るだろう。隣近所に配り歩く、そんな習慣も、この様子では、難しくなる。
 西の方では、春先の習慣の一つとして、家々で煮た物が出回るという。互いに配り合うことから、味を競うこともあるようだが、それだけ熱を入れる対象となっている証拠だ。新鮮なものを手に入れ、醤油やザラメなどの調味料と生姜で味付けした中で、煮炊きするだけのことで、春の訪れを感じられる。他の地域の人には理解できない、熱狂ぶりからは、地域独特の文化といった感がある。だが、その味は、万人にとって嬉しいものとなる。そんな習慣のない地域でも、貰えば嬉しい季節物として、毎年楽しみにされると、こちらの力の入れようにも変化が起きる。だが、そんな熱気とは裏腹に、出回る量が減ると、手に入れることも難しくなる。それも港近くの町ならば、値段を気にするくらいで済むが、大した距離はなくとも、内陸となれば、地域の人々の熱気も弱いものだ。いつもの店では、仕入値を気にする為か、入荷がなく、困り果ててしまった。何とか、近くの店を教えてもらい、普段の半量を手に入れたが、待つ人々の数を考えると、難しさは解消されない。どうしたものか、考えても仕方がない。様子を見ながら、少し量を減らして配るしか、方法はないようだ。貰い物に、がっかりすることもないだろうが、楽しみも半減となれば、明るい春の訪れとはいかないかもしれない。今年だけのことだろうが、自然とは、資源とは、何と気紛れなものか、と思えてくる。

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3月15日(火)−毒消し

 何でも知った風を装い、話し続けるのは、ある意味、若者の特権かもしれない。意見を求められた訳でもないのに、あれこれと並べるのも、恐れを知らぬ人の特質だろう。だが、実質が伴わなければ、厳しく批判されることとなり、信頼を失う。背伸びをした結果、そんな窮地に陥った時、実力が発揮される。
 若気の至りと片付けられることだが、実は、そんな行動が、成長に繋がっているのではないか。弱い手札で、勝負に出る山師のようなものだが、場数を踏むうちに、顔色一つ変えず、相手を打ち負かすことになる。それと同様に、知ったかぶりの繰り返しで、弱点を突かれた時に、こじつけにも似た論理を展開し、相手を言い負かす。口先三寸の行為に過ぎないと、揶揄されることも多いのだが、自身にとっては、その経験が、確固たる論理を築き、弱点を克服することへと結びつく。誰もが、そんな経過を辿って、成長する訳だが、最近の様子は、かなり違ったものとなっている。批判された途端に、論理を放り投げ、諦めに似た反応を示す。それに寛容な対応を見せれば、付け入る隙を見つけたとばかり、一気呵成に攻めてくる。何だか、餓鬼を相手に議論をしている気にさせられるが、その辺りで、見切りをつけた方がいいようだ。こんな連中を評価する人々の気が知れないが、寛容性を示した人々は、若者からの人気を勝ち取り、悦に入っているようだ。負の連鎖の如く、こんなことが繰り返された結果、中身のない人間に占められた組織は、腐敗が始まり、荒廃へと落ちていく。後から考えても、何が原因だったのかは、明らかになりにくい。そんな雰囲気に慣れた人々には、問題が見えていないからだ。結局、その最中に、問題を指摘することが重要で、問題となる人物を排除しなければならない。腐る前の処置が、大切なのだ。

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3月14日(月)−良識

 もう手遅れなのかもしれない。極論が好まれるのは、分かり易さと利害の明確さによるものだが、逆に見れば、大衆の考えの浅はかさを、表しているとも言える。良識を信じ、広量さを頼みにしていたのだろうが、正反対の反応を示す人々の心には、自己中心と偏見が満ちているようだ。
 大衆迎合主義と呼ばれる考え方は、卑しいものと見做されてきたが、何よりもまして、権力を握ることが第一との考えによれば、手段を選ばぬことが優先され、将来への見通しもなく、場当たり的な政策も、一時の利益を受けられるのであれば、正当なものとして歓迎される。個人主義が台頭したとはいえ、全体を見渡すことのできる人間だけが、選ばれるような社会だったものが、一部の利益のみを追い求める人々が、人気を博すこととなってきた。これは、時代の趨勢のようで、世界中に広がる流行病の如く、あらゆる国々で、持て囃されている。人選びの段階で、その人物の魅力を測ることは、重要な要素となるが、一部にしか目が向かない人々に、確かな選択ができる筈もない。だが、彼らにも権利があり、一つ一つは小さくとも、纏まれば大きな力を産み出す。力比べが全ての中で、良識を信じようとしても、それが通用しないとなれば、何か別の方法があるのだろうか。今の所、良識に頼ってきた人々は、それが通じない人間を相手に、苦戦しているようだ。だからと言って、諦める訳にもいかず、様々な手立てを講じているようだが、これもどうなることか。此の所、反対勢力として、何事にも文句を並べ、議論さえしてこなかった連中に、突然、良識を持ち出されても、今更との感しかない。どんな展開を望むのか、国民の代表を選ぶ過程で、何が見えてくるのだろうか。

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