パンチの独り言

(3月21日〜3月27日)
(訴え、長蛇、誤報、悲観、不動、評価、歩み)



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3月27日(日)−歩み

 失敗を恐れていては、何もできないとはよく言われるが、その一方で、他人の失敗は、蜜の味とも言われ、やはり、失敗は耳目を集めることとなる。一度ついた汚点を、払拭することの難しさは、経験した者でないと判らないとも言われ、失敗を成功の元と考えることは、容易なことではないようだ。
 ただ、始めに触れた失敗の話が、よく言われるということは、そういうことを繰り返した上で、成功に結びつけた人が、沢山居るからだろう。だからこそ、一度や二度の失敗で、めげていたのでは、折角の機会を逃すことになる、という意味で、恐れるなとの戒めが出されるのだろう。ただ、経験のない者にとっては、こんな言葉も素直に受け止めることができず、自分の過ちを、蜜の味の如く、楽しまれるのでは、と思ってしまう。恥は、常に重要な感覚の一つとなるが、それを恐れる余り、危険を冒さなければ、何も起きないことになってしまう。ただ、これも、成功を手に入れた人間が、自らの失敗を振り返りながら、触れた話であり、これからを目指す人間にとって、そのまま、素直に聞くことができないかもしれない。順風満帆の人生を歩んだ人ならば、この気持ちを理解することが可能かもしれないが、多くは、紆余曲折の末、やっとのことで、成功を手に入れた訳で、簡単に諦めてはいけない、という考えの方が、正しいとされることが多い。全く逆の見方をすれば、失敗を失敗として意識するより、失敗と考えずに、次への手立てと見做すことが、成功への道筋となるのではないだろうか。とはいえ、各人にとっては、誰がどんな考えを持とうとも、どんな考えが正しいと言われようとも、自分の人生にとっては、自分の考えだけが重要となる。では、自分のことはどうだろうか。結論は、まだ出ていないだろうが。

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3月26日(土)−評価

 忙しいことが一番大きな要素となるのを見て、能力とはそんなことを指すのかと思った人も多いと思う。能力給という言葉が登場した頃、そんな印象を持っていたが、今は、もう能力などという、尺度のはっきりしないものに頼らず、ただ、年齢に応じたもので構わない、という人が多いのではないか。
 能力とは、各人が異なるものを備えていて、それを元に成果を上げるものと言われる。だから、能力を基準に給与の額を決めるとなれば、売り上げや販売成績が、基準となるものと思うのが普通だろう。だが、個人による成績のみを見れば済むものと違い、複数の人間で構成されるものが、成績に反映されるとなれば、話は全く違ってくる。これだけでも、能力給などという言葉が、一体全体、どんなものを目指すのかが、全く見えてこないのだが、それより酷いと思えるのは、一般的な成績ではなく、誰かの印象とか、評価を基準として決めることで、そんなことが横行すれば、ろくでもない結果しか、生まれないとしか思えない。その後の経過を眺めてみれば、制度自体が成立しなかったと思えるが、全てを忘れた人々は、何も問題としないようだ。この顛末を眺めるに、要するに、この国では、こういった評価制度が、成立しないことが、明らかになったということか。実は、この話題には、成果主義が成立しないという問題が、あることを示している。評価も、正当なものがないとされるが、成果についても、何を基準にどう判断するのかが、全く見えていないことが、様々な問題を生じている。だとして、どうしたら問題が解決するのか、見えない人が多いのだと思う。これこそが、最大の問題かもしれない。

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3月25日(金)−不動

 何もかも、全てを自分でやろうと思う人は、世の中には居ない。そんな思いを抱いたとしても、ある程度、仕事を進めていくと、自分だけではやり通せないことが、わかるからだ。その後は、誰を巻き込み、誰を登用するか、そんなところに目を向け、目標に到達できるように、組織を整備する。
 始めは、そんなことこそ無駄と思っていたのが、自分では、全てをこなすことができないと気付き、背に腹はかえられず、誰かに任せるという手法を採用する。これが当たり前となっている中では、それ以外のことは、何の意味もないと思われるが、実は、多くの人は、自分だけしか信用せず、自分で全てを片付けてこそ、意味のあるものが出来上がると、始めのうちは考えるのだ。それが障害に当たり、二進も三進も行かなくなると、方針変換を迫られる訳だ。そこで、対応できなかった人は、結局、できない人間として、一線から遠ざかることになる。ただ、この仕組みは、仕事をする中で、それぞれに対等な立場にある人間が、協力しあうという前提がなければならない。このところ、滞っている事例を眺めると、そこに大きな問題があり、結果的に、何も得られず、全てを失うことさえ出ている。信頼が揺らぐような問題だが、これも、妙案が出されぬままに、まるで片肺飛行を続けるような、事態が続いている。信頼と書くと、如何にも大袈裟なものに思えるだろうが、実際には、互いに、自分の守備範囲を意識し、その中で、やるべきことをこなすだけのことだ。これができない状況は、最悪の事態を招きかねず、本来であれば、そういう人々には、退席を願った方がいい。しかし、同じ組織内ならいざ知らず、異なる組織間での協力が、日常的となっている時代には、この辺りも、調整が難しいことになる。こういう時に、問題を生じる人の多くは、実は、「忙しい」が口癖であり、外から見ると、何もせずに、立ち止まっていることが、「多忙」となっているようだ。

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3月24日(木)−悲観

 興味さえあれば、何事にも集中できると言う。そんな若者達を眺めると、興味を持つとは、どんなことかと思えてくる。欲望を満たすことへの興味は、彼らの行動を見ていて、すぐに気付かされることだが、それ以外のことに関しては、殆ど何も見えてこない。これが仕事となると、一層酷くなる。
 ゆとり世代で、度々問題視されたことだが、それが強制的に終わらされた後も、同じようなことが起きている。不思議なことと思う人もいるだろうが、思い当たるのは、その問題世代が、今、教育現場の中心に居ることだろう。彼らは、少し違った見方をしているにしても、成長段階で、夢を追い求めることを強いられ、その表れの一つとして、教える側に回ったのである。そこで、自分の経験を話せば、同じような道筋を示すこととなる。結果、いつまでも、同じような状況が続き、解決の糸口さえ見出せぬ事態となる。そんな人間を迎える組織や社会も、多くが、そんな経験を持つ人々となり、何の違和感もなく、興味を示さぬ人々を放置する。教え育む為には、まずは、自分が正しいと信じる道を、示すことから始めるべきだが、結局、自分の経験しか示せない。そんな状況で、挫折を経験した人々は、少し違う見方を示すだろうが、順風満帆で、その立場に就いた人々には、他の見方など、思い付く筈もないわけだ。組織の中にも、別の世代の人間が居る筈なのだが、どうも、正当な発言権を得ていないように思える。それも、権力という意味での力はあっても、若い世代に対する影響力という形では、殆ど無力に等しいというべきだろう。これだけ、歪みきった状況では、簡単には、それを是正することはできない。少しくらいの力をかけても、すぐに揺り戻しがきてしまい、元も子もなくなるからだ。少し、悲観に過ぎる見方だが、間違っていないと思う。

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3月23日(水)−誤報

 先入観が障害となることは多いが、それにも増して、一度抱いた印象を払拭することの難しさは、高い壁を作り上げる。冷静な判断の重要性を、何度も取り上げているのも、こんな問題に度々出合うからで、固定した考えに拘る人を相手に、説得を試みることは、殆ど不可能に思えるくらいだ。
 では、何故、こんなことが起きてしまうのだろうか。拘りを見せる人々の多くは、分かりやすい話に飛びつき、それを信じ込む傾向が強い。内容の吟味より前に、理解が進むことに関して、本人は何の問題も感じていないが、端から見ると、誤解を繰り返すだけで、理解には程遠い状況にあると言わざるを得ない。目に見えないものだと、その傾向は更に強まり、恐怖を前面に出して、そこから逃れようとする。だが、対象が見えるか見えないかに関わらず、本質を見抜いてこそ理解を勝ち得る。これほど簡単なことに、恐怖や不安に苛まれる人々は、手を付けることさえしないのだ。心理的な影響が優先されるのは、逆に見れば、冷静な判断を必要とせず、何をどうしても、問題が起きないからだろう。安定した時代が長く続いた結果、瑣末なことを取り上げて、殊更に訴える人々にも、権利が与えられるようになった。これはこれで、悪いことではないのかもしれないが、実際には、そんな妄言に惑わされる人々が、次々に登場して、混乱を更に高めることになる。安定を欲するのならば、実は、こんな迷走を許してはいけないのだが、余裕は、別の形で人々の上に、降り注いできた。このまま放置し続けると、誤解や明らかな間違いを、許す風潮ばかりが高まり、声の大きさだけで、事が片付けられることになりかねない。放射線の問題も、遺伝子組換えの問題も、結局、無知な人々の意見ばかりが表に出て、まるでそれが正しいことかのように扱われる。実は、元凶は、これらの情報を無思慮に流す機関にある。無知蒙昧を増やすことが、まるで彼らの利益になるかのように。

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3月22日(火)−長蛇

 流行を追いかける人々にとっては、重要なことなのだろうが、そんなことに関心のない人には、迷惑以外の何物でもない。情報社会において、その流れの速さは、急激に高まってきた。それに乗っかる人々にとっては、次々に飛び出す新情報に、歓迎なのだろうが、それ以外にとっては、面倒が増えたようだ。
 人気の場所に出かけ、人気の店を訪れ、人気の品を手に入れる。流行を追いかける人は、そんなことにしか、関心がないのでは、と思う。異常な程の混雑に、体も心も蝕まれかねないが、欲を満たそうとする考えから、そんな障害は小さなものと見做す。やっと辿り着いた人気店では、同じ考えを抱く人々が、長蛇の列を作り上げており、時は金なり、の逆を行く考えに、我慢強く待ち続ける。その果てに、人気の品を手に入れたり、それを口にすると、欲を満たした満足感から、やっと人心地をつけるようになる。時間の余裕さえあれば、そんな場所に出かけることを趣味とする人々は、昔に比べたら、ずっと多くになったようだ。それに拍車をかけるのは、情報伝達手段の発達であり、単に人気を測る手段になるだけでなく、その場での状況把握の手立てとなる。待ち時間が示されたり、残りの数が示されたりと、事細かに伝えられる情報に、一気一憂を繰り返しながら、その日が暮れていくのだろう。心躍る物事が、少なくなるにつれ、こんなことに熱をあげる人の数は増え続ける。平和な時代と言うべきなのかもしれないが、どうにも、簡単には受け容れられない感覚が残る。買う側のこんな行動様式は、売る側にも大きな影響を及ぼし、真偽入り交じる情報が、流されているようだ。こんなところにも、何を信じるべきか、大きな問題となっているのだろうか。それにしても、この程度のことで、そんな悩みを抱くのは、何とも情けなく感じられる。

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3月21日(月)−訴え

 映像を媒体として、人に伝える手段は、一部の認可を得た組織だけに、与えられていた。それが、SNSの一種として、ある場所に掲げることさえできれば、誰にでも可能なものへと、なってきた。それまでは、力を持つ人々だけが、手にできるものだったのが、力の強弱に関係なく、手に入れられるのだ。
 その画期的な効果について、様々に伝えられているが、そこでの議論には、何か大切なものが欠けているように、感じられる。多くの人々は、楽しみとして、その場所を使い、他の人々にも、その権利を与えようとする。その結果、同じ楽しみを経験した人間の数は、膨大なものへの拡大する。同好の士を得ることの大切さは、その経験を持った人間にしか分からないものだが、この事例は、まさに、その状況を表したものと解釈される。閲覧数の大きさを競い、それを更なる楽しみへと結びつけるのも、欲望の表れの一つなのだろうが、それがどうしたのか、と思うのは、枠の外に居る人間の、やっかみとも受け取られる。だが、仲間意識ばかりで、それ以上のものが出てこない人間に、あれこれ言われる筋合いはない。なぜ、こんなことを評価に結びつけるのか、と思う。それが更に極端になったと思えたのは、自分達の悩みを共有する為に、この媒体を利用する人々の紹介についてだ。性的嗜好の問題は、自由が保障される時代には、当然の権利として、扱われるようになったが、自分と異なる人間を排除しようとする、人間の性質は、それに対して、激しい反応を示すことも多い。そういう環境に、悩みに沈む人の数は、これまでの閉鎖的な状況では、知られることもなかったが、今や、それが手に取るように分かることとなった。その中で、極端な拒絶反応に対し、悩みを共有する為に、媒体を利用して訴えることに、価値を見出そうとしていたが、その主が、自ら命を絶った結果に、別の解釈もあり得た筈だ。にも拘らず、評価の勢いは、別の方へと向かう。こんなことは変だと思うが、本人達は、気付く気配もない。やめてくれ、と思う。

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