パンチの独り言

(3月28日〜4月3日)
(自己中心、まやかし、無用、誰の、−、−、−)



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3月31日(木)−誰の

 自己責任という言葉が、殊更に使われた時、それを向けられた人々は、泣き面に蜂といった表情を示していた。弱り目に祟り目、という表現も、屡々用いられていたが、責任とは名ばかりで、中身の無いことを示しているとの解釈も多かった。それ以来、随分時間が経過したが、今は、どんな様子なのか。
 様々な仕組みが破綻を来し、確実なものの無いことを、実感した時に、人々は逃げ場を失った感があった。そこに浴びせられたのが、自己の責任を問う批判であり、資産のみならず、精神的な支えさえ失った人々も居た。だが、その後の展開は、ある意味順調な回復を示し、また、確実なことしか無いかのように、皆の考えが固まり始めている。となれば、自分の責任は問わず、他人の責任をより重くする傾向が高まり、身勝手な意見が巷に溢れることとなる。この傾向は、経済活動において、明確に現れているけれど、他の場でも、より鮮明に見える形で現れ始めている。その意味では、大衆の感覚とは、何とも自分中心のものなのだ。都合よく展開できれば、それで何の問題も生じない。そんな態度を貫き通し、自分の生活を守り抜く。当然の権利のように見做されているが、本当にそうなのかは、誰にもわからない。特に、これが他人への責任転嫁となり、迷惑を招くものとなれば、話は大きく異なってくるだろう。狭い視野に拘らず、広く見渡そうとする気持ちになれば、随分違った状況を作り出せるが、多くの人は、それをまるで被害を受けたかのように感じる。自分の思い通りにできないことが、まるで被害のように感じる訳だ。どこから、こんな考えが台頭したのか、知る由もないが、特に、自己責任が強調されて以来、そんな考えに囚われる人が、急増したように思う。

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3月30日(水)−無用

 情報社会では、種々雑多な話が伝えられる。それを使いこなすかどうかが、賢く生きる為の術の如く、実しやかに論じられるが、所詮、役立たずなものは無用であり、そんなものに時間を費やすのは、愚の骨頂となるだろう。にも拘わらず、何か大切なものを失うかのように、煽る人々が居るのだが。
 彼らの主張の目的は、殆ど見えていないが、それでも、情報社会の構築に、何らかの形で寄与することで、自らの利益を追求してきた人々には、役立たずの情報とて、捨て去るわけにはいかない。それより、玉より石の方が、場合によっては、情報伝達の重要性を強調できるものとなるようだ。何の役にも立たないものを、取り上げれば、まるでその有用性を付け加えられるかのように、言葉を補うことで、情報の価値を高めることができると言われる。ただ、これは所詮、嘘を塗り固めただけに過ぎず、何も産み出さない状況は、何の変化も示さない。口先だけで、話を纏めようとする連中には、中身のないことは、実は有利と見る向きさえあるのだ。犯罪者が、普通の人とは違う行動に出るのは、ある意味、当然のことだが、その手口を事細かに伝えることに、社会としてはどんな意味があるのか。全く理解に苦しむ。伝達者たちは、その中身にこそ意味があると、主張しているようだが、犯罪の手口にどんな意味があるのか。それを繰り返させようとする以外に、目的は見出せぬように思う。これほど明らかなことさえ、情報社会の一言で、別のものに見せかけようとする。普通の感覚では、思惑さえ見えてこないが、彼ら独自の思慮があるのかもしれない。ただ、そんなことに耳を貸す必要はないし、聞いても役に立たないことは、知らぬふりをすることも、賢さの表れとなると思う。

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3月29日(火)−まやかし

 ある職業では、収入が低いことが問題となり、それが更なる問題を生じていると言われる。世話にあたる人々に対して、どんな責任を課しているのかは、定かではないのだが、低所得が主因のように言われ、その改善が急務のように扱われる。だが、問題の本質は、本当にそこにあるのだろうか。
 誰もが齢を重ね、一人で生きることが難しくなれば、誰かの世話にならねばならない。その為の施設が、次々と建設され、競争は激しくなっているものの、まだ、不足の状態に変わりはない。以前から大きな問題と取り上げられてきたものの、解決の糸口さえ見出せない状況で、貧困が更なる貧困を産み出す、そんな図式に対して、不安が膨らみ続けている。しかし、そこでの役割を果たすべき人々の、資質に関しては、人の数の不足ばかりが強調され、殆ど問題視されていなかったように思う。これでは、根本的な解決は期待できない、と思う人は沢山居るだろうが、給料さえ上げれば、優秀な人が集まるかと問えば、やはり「否」と答えるしかないだろう。同じことは、子供達の世話をする人々についても、当てはまるようだ。不足の原因として、低所得を殊更に取り上げる人々は、どんな意図を持っているのか、わからないのだが、少なくとも、それだけを問題と捉えることで、解決への道を近く見せようとしている。だが、実際には、的外れの指摘と言うべきかもしれない。誰もが、多くの収入を望むのは、事実だろうが、では、幾らだったら満足できるのか、と問いかけると、大した答えは戻ってこない。対価とか、価値とか、そんな言葉が、意味も知らずに使われる時代に、こんなことは、よく起きているようだが、それに目を奪われて、問題の核心から目を逸らすことになるのは、あまりに馬鹿げたことではないか。子育てを誰が担うのか、こんな問題さえ、真剣に考えることなく、安易な答えに飛びつく風潮に、危うさは増すばかりに思える。

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3月28日(月)−自己中心

 如何に不幸かを訴えることが、重要であると思われているようだ。だが、この論理の杜撰さに、もっと厳しい意見が出されてもいいと思う。自分の不幸には、様々な点からの指摘をするのに、他人のものには、全く目が向かない。そんな姿勢に基づく言動には、著しい偏見が満ち溢れているのだ。
 満足できないとか、貧しい生活を強いられているとか、そんな理由を並べ、自分のやりたいことをするのだとの、意欲を示す。だが、こんな連中の多くは、自分さえ良ければいい、との思いしか抱かず、それにより、他人を不幸に陥れたとしても、自らの正当性を主張する。社会の中では、一方的な状況が起こらぬように、様々に配慮する必要があるが、まるで、自分が被害者のように振る舞う人々の多くは、自分の不幸だけを強調する。不均衡が、自らの不幸を招いたと主張する一方で、自分の言動で、別の不均衡ができても、それを意に介さない。結局、まともな見方をできない人間が、自ら招いた不幸に、陥っているだけのことというのが、結論なのかもしれない。自分中心で考えるだけに、悪いことは、自分ではなく、他人の責任であるとすれば、確かに、気楽になれるかもしれない。しかし、社会の中での自分の責任を、果たそうと思うのであれば、責任転嫁ではなく、責任を負う覚悟こそが大切だろう。ぬるま湯の中で育った人間こそ、こういう傾向が強く、打開のために無茶なことも引き起こす。テロへの参加は、確かに、自分の生活を一変させるものだろうが、その結果が、何処に繋がるのか、想像できない人間では、責任を果たすこともできないだろう。本当の意味で、痛い目に遭えば、やっとわかるのかもしれないが。

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