パンチの独り言

(4月4日〜4月10日)
(−、−、−、再開、平等、叱る、文句)



[独り言メインメニュー] [週ごと] [検索用] [最新号] [読んだ本]



4月10日(日)−文句

 強いか弱い、二つに一つとする考え方が、今の世の中では、当たり前のものとされる。ご都合と思えるのは、こんな考えに囚われる一方で、多様性という、数えられない程の種類で、ものを見る考え方を、重要と見る向きだろう。元々、同じものなどなく、また、二つに分けるのも、おかしなことだが。
 人権やら保護やら、そんな言葉が並ぶ時、そこには、弱者と強者の区別が、強調されている。時には、弱者に据えられることを、望む人も居るだろうが、必ずしも、そうとは限らない。自由を手に入れる為には、保護の対象となるより、何にも縛られない状況に、自らを置くことが大切で、それ以前に、弱いものとの決め付けが、なされてしまうと、狭い世界に押し込められてしまう。だが、自由よりも、権利を重視し、更には、区別により、特別な扱いを受けると、それに甘んじることの方が、遥かに楽な気持ちになれる。そんな考え方は、何の問題も抱えていない時には、安易なものと映るが、自らが窮地に追い込まれたと思うと、全く違った見方に傾いてしまう。なぜ、安易とか、楽とかに走るのか、こちらからは、見えてこない。復興が進まぬ中、焦りを示す人も居るが、それとは別に、依然として、「不安」を口にする人が居る。それを殊更に気にするのも、こちらが冷静な気分でないからだろうが、それにしても、あの言葉が、万能のように扱われて、それ以降、縋る人々が沢山出てきたことに、そろそろ、何かを感じてもいいのではないか。不安も安心も、人の心が産み出す感覚に過ぎない。にも拘らず、魔法の言葉のように使う人々には、どんな思いがあるのだろう。もう、こんなことは、考えなくてもいいのではないか。自由の為には、何かを失うことも、必要なのではないか。

* * * * * * * *

4月9日(土)−叱る

 勝っていさえすれば、何をしても構わない、との気持ちがあったかどうか、今となっては、正直な答えが返ることもないだろう。強気の発言も、敗者となれば、空威張りとしか見做されず、人格や人間性も、疑われかねない。だが、勝ち続ければ、様相は一変する。ところが、そこに落とし穴があった。
 派手な出立ち、過激な言動、勝者として許されたもの、というより、強さを裏付けとして、その自信の表れと見做されるものと言われる。だが、強ければ、何もかもが許される、という訳ではない。社会は、秩序の下に保たれ、それが維持されてこそ、勝負の世界が存在できる。法を犯すことは、たとえ、世界に一人しかいない人間と雖も、許されることはない。もみ消しが行われた時代もあったが、今や、情報の流出を止めることは不可能であり、発覚すれば、法律的な罰だけでなく、勝負の世界からの追放などの、生き甲斐や生業を奪われる処置さえ、行われる場合もある。競技の世界も、純粋な勝負は、遥か昔のこととなり、全てが報酬を伴うものとなってきた。勝負と金銭が結びつくことで、人間の欲は多様化し、それが別の問題を招く。不可思議と見る向きもあるが、まさに人間性を試す機会となっているのではないか。勝ちを求める心は、純粋であり、崇高なものとの解釈は、もう、非現実のものとなりつつある。勝手な解釈との批判を恐れずに、社会に対する苦言を呈すると、そこには、褒めて育てるという、あれやこれやの禁忌事項を並べることを、避け始めた時代からの崩壊への道筋を見ているのではないか。強さを増す度に、人格が形成されるとの考えは、単なる迷信に過ぎず、幼稚な心の持ち主が、勝ち負けだけに拘り、更には、恥ずべき行動にまで手を染めることとなる。萎縮に繋がる叱責ではなく、暴走を防ぐ叱責の必要性は、再認識する必要があるのだ。

* * * * * * * *

4月8日(金)−平等

 素人が口出しするようなことではないだろう。しかし、恥の上塗りとも思えるような言動に、何をか況んや、と思う。経済の動向に対する、解析を施す人々の、猫の目のような移り気に、呆れたことのある人は多いと思うが、理論を持たずとも、何かしらの一貫性を保つ姿勢は、必要なのではないか。
 民主主義を、平等主義と見誤る人々は、機会あるごとに、勝手な主張を突き出し、都合よく振る舞おうとし続ける。一方で、成長が頂に到達しようとした時代、成果主義という言葉を、都合よく持ち出して、如何に魅力的なものかを、喧伝していたのも、この類の輩達である。頼みの成長が頓挫し、それまでの自信も消し飛んだ後、彼らの主張は、再び、平等へと舞い戻っていった。無意識に、互いの協力体制を整え、その中で、互いの差を縮めるように努めるのは、成長期の重要な要素と見做されてきたが、それを、成果の名の下に、差別化を導入し、基本的な考え方を、微塵に砕いてきた人々が、掌を返すように、正反対の主張をし始める。これを、厚顔無恥と呼ばずして、となる訳だ。しかし、口先だけで生き残る人々は、そんな批判は聞き入れず、勝手な論理を展開し続ける。同一労働同一賃金、などという主張も、ごく当然の考え方だが、成果を重視しようと、無理にでも差を示してきた後では、何を同じと見做すのか、無理難題のように感じられる。同じ時間を働けば、結果がどうであれ、同じと見做すのだとすれば、結果重視の考え方が、蔑ろにされてしまう。今更、こんなやり方に戻せと言われても、一つの要素だけで、平等を考えることを、誤りと習ってきた人々が、簡単に受け入れられる筈もない。まして、理論的な裏付けなく、ご都合主義を押し付けられるのでは、やる気さえ起きる訳がない。それに、明日になれば、また違うことを言うだけ、と思われているのだから、やはり無理なのだ。

* * * * * * * *

4月7日(木)−再開

 突然の閉鎖に、関係者に困惑が広がったと思う。管理者のサイトでは、初めに掲示板に意見が寄せられていたが、おそらく、殆どの利用者は、その後、覗きに行くことさえしていないと思う。無料の関係は、所詮その程度のものと見る向きもあろうが、実は、使用料の有無とは、無関係なのではないか。
 この独り言も、カウンターの始まりを見れば、既に、10年以上の間続いていることがわかるだろう。この閉鎖を機に、さっさと引退する方法もあったと思うが、それまでの思いで、ファイル番号が999になる頃まで、と考えていただけに、突然引き摺り下ろされることには、抵抗を覚えた。そんな訳で、また、無料サーバー探しが始まった。開設者の1000株さんが設置していたサーバーは、管理規則の問題から、引っ越しを余儀なくされ、その頃に、管理者の交代が起きた。その後も、有料化による転居があり、不安定な状況に不満があったものの、それなりに続いていた、以前のサーバーも、管理者の都合からか、閉鎖の憂き目を見ることとなった。探してみると、依然として、無料の場の提供は続いており、仕組みは不明であるものの、利用者はかなりの数居るに違いない。とは言え、金での解決ではないから、拒絶も起きる。一軒目の場所は、落選の一言で扉が閉じられ、別の場所への挑戦を続けねばならなかった。つい数日前、そちらからの設置通知が届いたが、管理の仕組みの変更から、中々準備が整わなかった。まだ、掲示板の一部に不具合があり、チャットも閉鎖せざるを得なかったが、なんとか形は整ってきた。ほぼ一週間ぶりに、独り言を書く気が起きたので、今、つらつらと綴っている訳だ。これから、長い付き合いになればと思うが、縁の切れ目は、いつ訪れるかわからない。何れにしても、独り言については、多くの人に読んで欲しいと思っている。

(since 2002/4/3)