愚かな人々を、どう処するかが、時代と課題となっている。だからと言って、自由と責任の関係さえ理解できぬ、彼らの望みを叶え、夢を実らせることが、唯一の答えとなるのは変だ。にも拘らず、様々なところに活動の場が設けられ、小さく弱い声も、集められ、結びつけられ、力を得ている。
その力を後押しと頼み、権力を得ようとする人々が居る。これが政治の世界となれば、所謂、愚民政治となる訳だが、その他の組織でも、弱者を保護し、そこから力を得ようとする人々が、様々に暗躍しており、表舞台に上がることもある。彼らの頼みとする考えは、例えば、格差の解消であり、それが、平等社会を築く唯一の方法と、見做されているようだ。だが、人々が、それぞれに異なるのは、自明であり、そこに、差が生まれるのも、当然のことではないか。あえて、その状況を表現しようとすれば、差別ではなく、区別と言った方が、貧しい心の持ち主にも、受け容れられるのかもしれない。ただ、差の存在を、否定することは不可能であり、これを認めることが、まるで、差別的な考えのように扱うのは、大きな問題を生じている。実は、格差自体に問題がある訳ではなく、その広がりにより、一部が、著しい貧困に陥ることに、問題がある。ところが、攻撃性を高めた人々には、標的が必要となるようで、格差を問題視し、その中で、頂点を構成する、一握りの人間に、責任を負わせようとする。一見、問題解決に向けての、一手段と思えるものだが、現実には、課題の実像から、焦点をずらし、的外れな対策を講じさせることにしかならない。その先鋒を担がされた人々は、落ち込んだ貧困からの脱出を夢見て、声高に主張を訴えているが、違う的を射抜いても、何の解決も得られない。他力本願も、窮余の策の一つだろうが、自分でできることを、試してみることの大切さを、忘れてはならないと思う。
確かな存在の上に立つ、そんな感覚が砕かれてしまった。地面が揺れる度に、そんな思いを抱く人が居るだろう。火山国、地震国と称される国で、生まれ育った人々にとっては、耳にすることも、目にすることも、何度もあったことだが、実際に、足元が揺れ動き、見慣れた光景が一変すると、驚かざるを得ない。
世界で見れば、こんな国は多くはない。世界中の情報を手に入れることも、最近は、ごく簡単なこととなり、自分で調べることもできるから、試してみればわかることだ。人間の誰もが、地震のことを熟知している、との考えは、世間知らずのものであり、生まれてから死ぬまで、体験したことのない人の数の方が、遥かに多いのかもしれない。地震国の中でも、小さな揺れのことしか知らず、建造物が崩壊する程のものを、経験したことのある人は、やはり少数派となる。長い歴史で考えれば、何処でも起きてきたことだが、一人の人生で見れば、殆ど起きないことになる。そう考えると、それまで画面などを通して、見聞きしてきたものも、実際に体験してみないと、どんなものかを理解することはできない。特に、想像以上のことが起きた後には、強い恐怖感が残ることがある。いかに悲惨な光景でも、画面を通すのと、自分の目で直接見るものでは、大きな感覚の違いを生じる。心の準備も、役立たずに終わることもあるが、やはり、人の体験とは、そのようなものなのだろう。仮想体験として、様々に、実体験に似せたものに、接するような仕組みが導入されているが、所詮、似て非なるものである。人の心の動きは、それ程に単純ではない、ということなのだろう。
民主主義とは、大衆を中心に、様々なことが行われる体制、との解釈もあるだろうが、現状は、不確かなものとなっている。愚民政治と呼ばれるものが、民主主義の名の下に、行われているのを眺めると、その危うさが表面化しているように感じられる。では、大衆とはどんな人間なのだろうか。
大衆とは、ある地域や国を構成する人間の、大部分を指す言葉だが、彼らの利益になるように、働きかける体制のことを、民主主義と思っている人は多い。だが、国を治める為には、単に利益だけを追求するのでは、歪みが強まり、矛盾が目立つようになる。利害は、常に存在しており、一部の利益が、残りの不利益へと繋がることも多い。にも拘らず、大衆にとっての魅力は、自身の利益のみであり、それを手に入れる為に必要となる、何かしらの働き掛けも、不要なものと映るようだ。本来、大多数を占める人々の利益を対象とするのではなく、全体の均衡を保つことを考え、その中で、個々の利益を増し、不利益を減らす算段をするのが、施政者の役割と言われる。だが、今の世の中では、過剰な要求が突き付けられ、それに応えることが、役割と見做されることも多く、権利という代物が、殊更に強調されることが多くなっている。それが招く歪みに関しても、全体を見渡す、肝心の能力を持ち合わせていない人々には、まるで見えないものとされ、崩壊が起き始めるまで、見て見ぬ振りが続けられる。このままでは、危うさが増すばかりとの心配も、増すばかりの慾を抑えることができず、まるで、滅亡へと突き進むかの如く、無謀な前進が続けられている。愚かな大衆を、そちらへと導く人々も、自らの欲求を満たすことしか、考えておらず、このままでは、崩壊を待つしかないようだ。良識は、強まる欲の中では、邪魔なものとしか映らず、苦言は逆効果しか招かない。一体、何処に向かおうとしているのだろう。
上に立つ人間に、責任があるのは当然だが、それを行動に反映しているかは、怪しいものに見える。組織を操る上で、それに属する人々の信頼を得て、様々な決定を下すことが、上に立つ人間の役目であり、自らを信じる余り、信頼を失うような決定を下すと、その地位をも危うくすることになる。
下から見上げていた時には、そう信じていた人々が、努力の末に、上り詰めることとなった時、考え方を一変させる人が多いのは、何故だろうか。権力を得て、その座に留まろうと、守りに入ることで、誤った選択を繰り返すのは、よくあることだが、何故、そのような心理に囚われるかは、定かになっていない。冷静な判断が求められ、その責任感に潰れる人々は、元々その器ではなかったと、片付けられることが多いが、潰れるよりも、暴挙を繰り返す方が、遥かに被害が大きくなる。こちらも、器でなかったことに違いはないが、組織に及ぼす害悪は、自壊するよりも、遥かに大きくなるからだ。だが、当人は、上る以前と同じように、努力していると信じ込んでいる。それが、私利私欲に走ることへと繋がっても、組織の為の行為との、勝手な解釈を繰り返すのだ。以前であれば、独裁的な経営者でなければ、組織自体が自浄作用を示していたが、そんな組織でさえ、最近は、権力の集中の結果、暴走を止める力を失ってしまった。自治という言葉により、そんな作用を含有していた組織も、法人格を得ることで、権力の集中が強まり、命令系統が確固たる形をとることで、指導者の暴走を防ぐことが、難しくなった。本来、組織改編に先駆けて、構成員の意識を変える必要があったのだが、変えることにしか興味のない、施政者たちにとっては、改革後の変貌は、重要なものとは映らなかった。結果として、愚策を繰り返し、本来の役割さえも見失うような所が、増えている。不要なものとの切り捨てが、そろそろ話題に上りそうだが、そんな意見を突きつけられて、果たして、どんな対応を示すのだろう。今の姿では、期待できるものはない。
皆が勝手なことを叫んでいる、としか思えないのだが、それらを冷静に受け止め、何かしらの手立てを講じようとする動きは、全く起きていないようだ。ご都合主義が、社会に蔓延しているのだから、この様相は、当然の結果に過ぎないが、では、その中での騒ぎは、一体何を目指したものなのか。
必要としている人間を外すのは、世の中が悪いからとの解釈に、まさか、これほどの賛同が集まるとは、誰も予想しなかっただろう。騒げば、そこから、横車も押し切れる、としか思えない展開に、当事者の混乱は、強まるばかりとなり、あれやこれやの新手の登場に、嬉々とするのは、非常識な人間だけだろう。目の前の問題を解決するために、場当たり的な対応を続ければ、早晩、袋小路へと迷い込むしかない。論理的な思考を、経験したことのない者達は、差し出されたご褒美に手をつけ、明日は明日の風が吹く、とばかりに、先々のことは考えようとしない。既に、矛盾の数々が露呈しているが、それぞれに、個別に解決案を示すことで、更なる矛盾を作り出していることにさえ、気付く気配は見えない。無能な人々が、社会の大勢を占めるのは、いつの時代も当てはまることだが、国の行く末を左右する人々までもが、首の上に付いている筈のものを、何処かに置き忘れたかの如くの言動を、繰り返し続ける。じっくり考えるために必要となる、一種の辛抱さえ持ち合わせず、感情的になるだけの発言には、広い視野も、長い目も、全く感じられないのは、ある意味当然だろう。施策へと、様々な考えが注ぎ込まれるが、全体の均衡を思慮せず、個別の理想を追うだけでは、全体の秩序を保つことはできない。身勝手は人々を尊重すれば、更なる混乱が起きるのも、当然の成り行きだが、ここでも、個人の権利を主張し、狭い考えを、さも当然のように差し出す人が居る。でなければ、子供達の声を煩いと、断言する意見など、出てくる筈もない。
国境なき仕組みの導入が叫ばれている。国の中の統一は、国家として当然の一歩だが、その結果、国ごとの違いが出来てしまう。維新を機に、それまでとは全く異なる仕組みを採り入れた時、この国は、それを支える人々を、先に進む国へと派遣した後、途上の中に戻すことで、発展を目指した。
外の国で学ぶという方法は、今では、全く違った感覚で行われている。個人主義が、世界的に台頭したからか、国の為という考えより、個人の成長や利益が優先されるので、戻ることが想定されていないからだ。こうなると、国の仕組みに対して、個人の振る舞いは、随分違ったものとなる。戻る前提が外され、渡った国での活躍を優先させれば、育った国の仕組みは、過去のものとなる。国ごとの仕組みの違いも、このような状況では、相手次第となるだけで、統一の必要は、あまり無いように感じられる。だが、その中で、この国は、自分達が続けてきたものを、捨てようとしている。世界に合わせるとの考えが、間違っているかどうかは、定かではないが、その動機は、例の如く、不確かなものの上に築かれているようだ。自信の無さが、こんな所に現れるのは、いつも通りなのだが、それに巻き込まれる、自国民に対して、何の配慮もなされていないのは、無能な指導者達の、思慮の無さの現れなのだろう。とは言え、声高の訴えも、今や消沈してきたようで、暴挙も、ならずじまいとなりそうな気配で、毎年恒例の新しい年の始まりに、社会に進出した人々も、新たな学校に進んだ人々も、希望に溢れた表情をしている。このまま突き進んでくれたら、と思うのは、老婆心に過ぎないことだが、意欲の表れが、別の形に変容し、ついには、無気力の塊となってしまう人々が、続出してくるのも、すぐそこに現れる事実である。なぜ、こんなことになるのか。多くは期待を裏切られ、夢が消し飛んだ結果、と言われるが、適応力の減退が、最も大きな理由なのではないか。変化に弱い人々を、保護しようとする動きは、強まるばかりだが、成長を妨げるだけであることに、社会は気づくべきと思う。
勝つことを第一と、他の全てを排除して、育て上げてきた結果が、人間としての品格を、失わせたとしたら、誰が、その責任を負うのだろう。個人攻撃を好む人々は、既に、当人の異常行動を、事細かに取り上げ始めているが、その一方で、褒めて育てる側に与する人の中には、寛容性を強調する意見がある。
褒めることを、馬鹿げたことと切り捨てる訳ではないが、この辺りの行動様式に、彼らが示す異常性が、現れているように感じる。犯した罪を、どう償うかが、まだ決まらぬ中で、寛大な措置を求める声は、所業の問題を、有耶無耶にさせ、問題を不鮮明にするだけではないか。良いことを褒める行為に、問題を唱える人は居ないが、だからと言って、悪いことを指摘せず、ただ目を瞑るのでは、歪んだ人格が出来上がっても、ある意味、仕方のないところだと思う。ただ、その責任を、当人に負わせることに、逡巡する人が居たとしても、不思議はない。この類の人々は、その殆どが、自らの言動に責任を感じず、当人の為、社会の為、などと称して、社会の歪みを高めているだけだろう。その結果が、今回の賭博事件のような形で発覚しても、彼らの言動の迷走ぶりは、相変わらずのものであり、理解を示すという形で、別の暴挙を行うだけのことだ。こんな人々の意見を、さも大事そうに扱う連中は、所詮、自分さえ良ければいいという輩であり、社会や国の為という考えは、微塵もない。地位が人を育てると言われたのも、最近は、かなり違ってきて、的を外しているとみられるが、では、どんなやり方が適切なのか。勝手な意見を述べる人々にも、改めて聞いてみる必要があるだろう。身勝手な考えを、批判する為には、自覚を促すことも、方法の一つなのだから。