パンチの独り言

(4月18日〜4月24日)
(引っ越し、孤立、肩書き、下野、異端、反発、道案内)



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4月24日(日)−道案内

 独自性を優遇する仕組みが導入された頃、褒めて育てるという考え方と相俟って、目的を果たすならば、規則を破ることも構わない、とする考えが強まっていた。それに加えて、所謂「ゆとり」と呼ばれる、教育様式の改革が、肝心の規則さえも、緩和の対象と見做され、放任主義が極まっていた。
 その結果を、書く必要はないだろう。現場の荒廃は、嘗てないほどに深刻となり、身勝手な輩の増産体制が、整ってしまった。世代の間を繋ぐ形で、これまで築かれてきた、社会の秩序の仕組みは、それを構成する人々の動きで、簡単に崩壊してしまうことが、少しずつ明らかになるにつれ、人々の危機感は強まった。その結果、先祖返りとも思える、制度の変更が、急速に行われてきたが、元通りにはならないもののようだ。原因の一つは、肝心の担い手が、新たな仕組みの中で育った世代であり、後に問題視された制度の中で、それに見合うような形に成長した人間であり、当時否定された筈の仕組みが、復活したとしても、それに対応できるようになっていないことにある。一度破壊されたものを、元通りに修復することは、人間社会の秩序においては、文化財の例よりも、遥かに難しいものとなる。旧来の仕組みで育った人々も、それらを全否定され、新しい仕組みを全面的に受け入れなければ、任に当たることもできない。戦後の混乱期の教育者と、同じ感覚に陥ったのではないかと思えるが、平和な時代に、その悪影響はもっと強いものであったかもしれない。何れにしても、崩壊したとはいえ、社会にとって秩序は不可欠な要素であり、その回復は、喫緊の課題となっている。たとえ、非常識を感じない人間が、大きな顔をして闊歩していたとしても、彼らを批判し、排除することは、必要な手順となるだろう。それと同時に、欲望のみを追う子供達に、行き先を示すことも、大切なこととなる。

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4月23日(土)−反発

 規則に縛られることに対して、反発を覚えるのは、人の常だろう。誰しも、自分に都合よく考え、それが通用すると思うから、規則で禁じられると、違和感を抱き、反発したくなる。だが、殆どの規則は、社会の秩序を保つ為のものであり、個人の都合に合わせて作られたものではない。
 本能のように、誰に教えられることなく、何かができたり、当然と考えるものには、規則で縛る必要はないと言われる。だが、本能が欲望を呼び、それが秩序を乱すものへと繋がる場合、抵触するものとして、禁じられることも多い。人が生まれながらに身につけているから、と言って、その全てが許されるとは限らないのだ。逆に言えば、環境や時代により、規則の項目とその内容が異なってくるから、時と場合により、処し方を変える必要がある。成長する間に、様々な形で学ぶことだが、時には、変更が起こり、正反対の考えを押し付けられることもある。敗戦の前後の急展開は、当時の子供達にとって、大きな負担を強いたようだが、それ程の大きさではなくとも、理不尽を感じることは多い。何故、という疑問を口にすることもできず、答えも見つからない中で、強制的に枠をはめられていると感じるのも、こんな時なのかもしれない。その時に、様々な考えを受け入れることは難しく、考えの基本を示されたとしても、到底納得できるものとはならない。だが、冷静になって、自分本位ではなく、異なる方向から眺めてみてはどうか。規則は、実際には、縛る為に設けられたのではなく、やはり、秩序の為に設けられたのであり、自分達の利益を考えれば、その存在は、必要不可欠なものとなることに、気付けるのではないか。反発が先に立ち、怒りを覚えてしまっては、そんな考えに辿り着くのは難しい。怒りを抑えることが、まずできないと、こんな思考に入ることも、難しくなってしまうのだ。それも、秩序に必要なものの一つだろう。

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4月22日(金)−異端

 与えられることに慣れてしまった人々は、何かが降ってくるまで待っている。動くとしても、与えられるものを要求するだけで、自らが先頭に立って、周囲に何かを与えようとする気は、ないらしい。このままでは、と心配する声もあるが、一方で、その中から出てきた、異分子に期待する声もある。
 いつの時代も、自分より若い人々に対して、様々な批判を浴びせるものだろう。厳しい声も多く、それが消極的な人々の行動を、かなり制限していると言われる。それでも、従順な人々の中から、批判ばかりの雰囲気に、反発を感じた人々が、新たな展開を求めて動き出す。他と違うから、ある意味、異分子と見做されるけれども、その存在がなければ、旧弊を打開することは難しい。新展開を求めて動いても、厳しい圧力がかけられ、行動範囲は狭められてしまう。そんな動きの多くは、その結果として、頓挫することとなるが、根気よく続けた人々や、画期的な企画を持つ人々が、成功への道を歩み始める。歴史上、こんなことが繰り返されてきたから、今度も同じことが起こる筈、と思っている人が多いが、果たして、どうだろうか。悲観的な筋書きを作る必要はないが、様々な可能性を想定しておかねば、肝心な時に、対応を誤りかねない。そんな考えを持つ人々は、異分子と対した時には、常に批判的になるものだろう。その壁を乗り越えてこそ、真の勝利が手に入れられる、と思えば、頑張れるのかもしれないが、ここでも、消極的な人々は、褒めてもらおうと待ち続ける。何がこのような歪みを作ったのかは、明確にはなっていないものの、何かしらの手立てが必要となっているのではないか。それぞれが、現場で、何ができるかを考えるだけで、変えられるのかもしれないのだから。

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4月21日(木)−下野

 肩書きは、受け手を有り難がらせるだけではなく、それを持つ人の気持ちを変える。地位が人を作ると言われるのも、その一つの例だが、そうやって手に入れたものを、いつまでも、持ち続けたいと思う心も、芽生えさせるようだ。退職後に、それまで同様の言動を続ける人の多くは、そんな心の持ち主だろう。
 地位に作られた人間とはいえ、中身が肩書きに見合うのであれば、何の問題もないだろう。だが、多くは、地位に名を借りて、自分の意見を押し通そうとする。肩書きに示す地位にある間は、それでも、大きな存在として認められ、扱われ続けるが、肩書きを失った途端に、空っぽな中身が露呈し、誰もが見向きもしなくなる。その理由に思い当たる人は、まだましな状態にあるが、多くは、問題の核心に気付くことなく、周囲の変貌に、不平不満を訴える。だが、元凶は何処にあるのか、火を見るよりも明らか、なのではないか。それに気付けない程に、能力が低かったと思えば、それで済むことなのだが、本人がそれを認めることはない。ここは一つ初心に還り、何も持たずに話に参加してみよう。自分の意見が、参加者の心を捉えるか、何人の賛同が得られるか、試してみるといい。その為の場所は、今、舞台を去ってきた人々が、彼らの経歴を始めた頃とは違い、様々に用意されている。少し前なら、馬鹿げた議論を戦わす場もあったが、今は、それよりは、落ち着いた形のものが増えた。逆に言えば、参加者の精神年齢が高くなり、感情よりも論理で、議論を戦わす場ができてきた、ということだろう。そんな場に入り、見ず知らずの人々と、意見を交換する。中身があれば、関心を呼べるが、そうでなければ、無視される。誰も、相手の正体を知ろうともせず、意見の質のみを測ろうとする。そんな中で、評価を得られれば、上等な人間と言えるだろう。だが、事はそう簡単ではない。言葉だけで、関心を得るのは、難しいことなのだ。

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4月20日(水)−肩書き

 匿名で活動するか、本名で活動するか、その違いはどこにあるのだろう。一般には、送り手の問題ではなく、受け手の問題となっているようだ。どこの誰かがわかると、同じ内容でも、違った形で受け取る。無意識的に、そんなことをやっていることに、ふと気付く時があるのではないか。
 肩書きという存在は、便利なように見えて、重荷となることも多い。こちらの気持ちが変わらないのに、相手の気持ちが大きく変わることがあるからだ。専門家とか有識者と呼ばれる人々の多くは、肩書きに頼った言動をするから、受け手もそれに合わせればいい。だが、その多くは、肩書きだけで中身が伴わず、誤った情報を流すこともある。本来なら、疑いかかってみれば、簡単に見破れる筈のことも、肩書きに左右される人々は、嘘を見破れず、振り回されることになる。本当に物事が分かっている人は、肩書きを持とうが持たまいが、正しい情報を流している。ここでも、また、肩書きに目が行く人は、別の過ちを犯す。つまり、肩書きがないから、この人の発言は正しくない、との判断を下すわけだ。先入観が全ての世界では、これで構わないのだろうが、論理的な話を交わし、互いに正しい情報を交換する世界では、これでは、損をするだけとなる。分かり易さに目を奪われ、論理の本質に、目を向けられない人の多くは、偽情報を掴み、喜び勇んで、間違いを犯す。自業自得でしかないことだが、騙す奴が悪いと反論する。原因を冷静に眺めれば、簡単に分かることさえ、目が眩んだ人々には、眩しすぎるのか、見えてこないらしい。まあ、一人一人が意識しない限り、この傾向に変化が起きることはないのだが。

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4月19日(火)−孤立

 引っ越しに伴って、別の問題も生じている。例えば、こういう場所は、どこかに入り口を設けないと、誰にも気付かれず、存在すらしていないこととなる。その役目を負うのは、情報を供給する場所で、以前のところは、そこにアドレスを掲げていたから、偶然を頼りにするにしても、無いよりましだった。
 それが今回の転居に伴い、登録されたアドレスの変更も必要となり、その依頼をしてみた。だが、結果としては、却下されたようだ。チャットの継続が、管理者側からの問題として、考えられたので、現時点では休止しており、そこが引っ掛かったのかもしれない。何れにしても、批判や文句が主体となる社会では、寛容に見逃すなどということはなく、ただ厳しく取り締まるというのが、当然なのかもしれない。にしても、唯一のきっかけも、今回の騒動で失ってしまったようだ。次は、どんなことが起きるのか、誰にもわからない。ただ、また長く続けていれば、その内、検索エンジンに気付かれる時が来るだろう。そうなれば、また、偶然の訪問が起き始め、興味を持ってくれるかもしれない。一方、本名で書いているフェイスブックに関しては、流石に、ネタバレをするのは憚られるから、何もしないつもりだ。所詮、ネット上でのこととは言え、何かと五月蝿い社会、時代である。何処かに線を引き、支障の出ない程度の活動を続けるのが、無難というものだろう。

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4月18日(月)−引っ越し

 新しい場所に引っ越して、何とか落ち着きを取り戻した。閉鎖の直後は、引っ越し先を探すことから始まり、一つ目の応募が、拒絶された時には、少々面倒を感じた。それでも、二つ目の場所は、何の抵抗もなく認められたから、今の状態に戻ることは、それ程には難しくなかったと言えるだろう。
 だが、引っ越し先が決まったとはいえ、その後の調整にも、幾つか戸惑ったことがあった。単なる書き込みである、「独り言」のようなhtmlの仕組みは、ごく単純であり、どんな場所でも通用するものである。だから、こちらの整備は、ただそれぞれのファイルを新しいところに移すだけで済む。それでも、別の場所に飛ぶ為の仕組みには、問題が起きるかもしれないから、点検が必要となる。こちらに関しても、ほぼ滞りなく進み、まずは一安心、といった感覚になった。だが、次の問題は、掲示板のような、サイトの中で動くソフトによるものである。こちらは、サーバーそれぞれに仕組みが異なるようで、単に移動させただけでは動かない。アドレスも変わったから、そちらの新たな記入も済ませ、再度試みても、動かなかった。結局、ソフトの一行目に書き込む、問い合わせ先のようなものが、新しい場所では、古い所とは異なるものが使われ、それを指示通りに書き換えたら、動くようになった。ところが、これでお終いではない。動くものと動かぬものがあり、ソフトの設定を変更しても、何も起きない。それらの問題は、実は、文字あるいはフォントによるものであった。これまでにも同じ障害が起きていたので、改めて点検し直したら、異常を示したところは、すべて"が”となっていた。こちらのテキストソフトの問題だろうが、迷惑な話である。そんなこんなで、すったもんだの末、なんとか今の状態に落ち着いた。あとは、客を待つのみか。

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