様々な圧力があり、急激な変化を強いられることが、ある年数ごとに起きていた時代、生き抜く力が第一と見做されていた。変化に応じきれず、圧力に押し潰された人は、落伍者とか、脱落者として片付けられ、忘れられた存在となる。全ての権利を失うことは無いが、見えない存在となるのだ。
世の中全体に、変化が激しい中では、人々はそれに合わせようと、必死の毎日を送る。他人の状況に目をやる余裕もなく、応じられかどうかは、各人の責任とされる。それに比べ、変化に乏しく、平和で安定した時代には、人々の心にも余裕が生まれ、他人への気遣いも、当然の義務のように、扱われることもありうる。その中で、弱者保護という考え方が、当然のものとなっているが、その範疇に含まれるものを、全て一様に扱うことには、強い違和感を覚える。お互い様という言葉さえ、一方的に依存するように解釈する人が、大きな顔をして過ごせる社会では、支え合うという考え方は、歪曲されてしまうからだ。明確な線引きがある訳でもなく、人それぞれの気持ち次第であることも、事実なのだろうが、それを制度化し、決まった扱いを強いるようになると、矛盾が増えてくる。保護されるかどうかを、自らの判断に基づくとしてしまうと、依存体質の人々は、それに寄り掛かろうとし始める。始めは、大した問題も起きず、支援を受けられるのだが、我も我もと駆け寄る人が増えると、制度自体が破綻を来す。その危険を避けるために、制限を厳しくし、自己申告でなく、客観的な判断に基づくとすると、肝心の保護されるべき人が、それから漏れることが起きる。ある意味、当然の展開なのだが、保護を掲げる人々には、そうは映らないようだ。各人の心持ちが悪く、差別意識があるからこそ、そんな問題が起きると結論づける。どこに矛盾があるか、明確でないのは事実だが、別の見方が必要なのは、明白だろう。
非常識と思えることは、世に溢れ返っている。皆の感覚から外れたところにあり、賛同が得られないことを、非常識と見做すのだが、これとて、何が常識なのか、定かでないものが増え、識別が難しくなってきた。逆に言えば、非常識という言葉だけで、鵜呑みにしてはならない、ということだ。
若い世代が好んで使う、「ブラック」という表現にも、そんな常識の違いが表れている。仲間内では、非常識と思えるような規則や、様々な制約を課されたものを、否定的なものとして捉え、好ましいものを白、好ましくないものを黒、と区別することから、「ブラック」という標識を付けたのだろうが、その多くに、上の世代から見て、常識的に思えるものが目立つことは、常識という括りが、如何に曖昧なものかを、示しているのだろう。過剰と思える制限に、そんな呼び名を付ける訳だが、好き嫌いの区別でしかなく、不当なものとの扱いは、明らかに誤ったものとなる。にも拘らず、弱者保護とでも思うからか、そんな苦情を訴える人々に、支援の手を差し伸べる人々は、彼らが「ブラック」と呼んだものに、何かしらの問題があると決めつけ、改善と称する、お節介を押し通そうとする。呼ばれた側から見れば、常識の範疇に過ぎないものを、異常と見做されたことに、反発を示すこととなるが、今の社会情勢は、正当な反応さえも、押さえ付けようとするようだ。少し考えてみれば、立場の違いを強調し、弱者を演じる若者達が、正当な主張さえも放棄した結果であることが多く、理不尽と片付けるには、余りに不正確な分析と言わざるを得ない。善悪の区別や好悪の区別など、二つの極端に分けることが、分かり易さへの近道とする時代には、こんなことが起こるのも当然かもしれないが、鵜呑みが先にあることに、気付くべきではないだろうか。
上意下達への転換は、どんな結果を招いたのか。牽引力を発揮することができる、との期待は見事と言うしかないほどに、裏切られたようだ。上に立つ人間の育成を怠り、上の命令に従うだけの人間を配した結果、決定を下せぬ組織が現れたり、船頭多くして船山に上る、となってしまった。
船頭も、責任を負うつもりのない、主張ばかりの人々が、その役を務めることとなり、互いの牽制が、混乱を招くだけとなり、暗礁に乗り上げることとなる。一方で、一人だけ選ばれた、指導者とも呼ぶべき人が、選んでくれた人々への感謝のつもりか、風向きばかりを気にして、決断をしないことが、迷走を招いた事例も、数え切れぬほどに並んでいる。後ろを振り返らずに、前だけを見つめて、突き進むことは、必ずしも条件とはならないが、一方で、後ろを気にするだけで、前も見ずに進む人は、あらぬ方へと向き始め、組織全体を、窮地へと導く。本来、船頭に選ばれる人には、成功への導きや、失敗の回避など、先を見通す力が期待されるが、皆の期待に応えようとする人には、その役は重すぎることとなるようだ。散々失敗を繰り返した後、引き返すことも難しくなって、初めて自らの過ちに気付く。それまで、期待に沿う活躍を続けてきたとの評価を、受けていたとしても、結果が全く異なるものになるのは、目の前の成果ばかりを追い求め、それを重ねた結果を予見できなかったからで、何を優先すべきかが、理解できていなかったことが、最も大きな要因となる。そんな人材しか見当たらないのは、今の社会が抱える一番の問題だが、そんな人が居ない訳ではなく、今の社会で選ばれる為には、人の気を引く必要があることこそが、真の問題であり、そのせいで、肝心の人材が発掘されていないことが、深刻な問題となっている。
牽引力とでも言うのだろうか。上に立つ人間が、組織を動かす力に、注目が集まる中、手際の悪さばかりが、目立っているようだ。リーダーシップとは、指導者としての地位や力を表わすようで、指導権とか統率力という言葉が、それに当てはまる。後者には馴染みがあるが、前者には、はてと思う。
何れにしても、注目が集まるのは、あらゆる組織で重要と見られるからで、特に、全体で運営する形から、少数の人間での統率を図る形へと、変貌した組織において、理想と現実の乖離が、目立つようになってきたからだろう。何故、このようなことが起きるのか。理由は簡単で、適任者の不在、ということだろう。それまでの運営では、一部に権力が集中することもなく、合議制を採ることで、最大公約数と見做せる結論を、導き出せばよかった。それが、一握りの人間が、責任を感じながら、決定を下す形に変わると、論点の多様性が著しく低くなり、極端な結果が増え、それにより、一喜一憂する環境となった。勝てば何とか、負ければ何とか、といった具合の展開となるが、勝ちと負けの評価は、全く異なり、連勝しても、一度の負けが退陣へと繋がる。理不尽を感じたとしても、責任の果たし方に、異常な見解が出される国柄では、指導者の資質も、違った解釈がなされる。ただ、現場で見る限り、適任者を選び出せる仕組みを、早急に導入しないと、衰退からの回復どころか、その勢いを止めることさえ難しくなる。どれほど深刻に考えられているのか、おそらく、何も感じていない人ばかりで、自分さえ良ければ、という思いだけになっているらしい。これでは、好転の兆しには程遠く、どうすればいいのかさえ、見出せなくなる。待望頻り、となるのではなく、誰かが立たねばならない時期なのだ。
何故、と首を傾げた人は、ある意味、健全な心の持ち主なのかもしれない。流石に、居ないとは思うけれど、下手くそと思った人が居たとしたら、それは不健全の表れだろう。経済成長の絶頂期には、誤魔化しも上手くやれば、問題ないとした人が要職にあったが、今は、そうはいかぬらしい。
不正が発覚した時に、裏切られたとの発言をする人は、信頼の意味を理解していないのだろう。盲信であれば、こんな心境になるだろうが、全てを疑い、吟味した後に、信頼感を抱くのが、本来の姿であり、信頼を確立したから、疑いも吟味も不要と感じるのは、真の意味でのものとは呼べない。製造業では、製品の質がその表れであり、その評価を操作したとなれば、根本的な問題があることとなる。検査を逃れるための仕掛けを組み込んだ、海外の自動車会社の製品について、批判が集中していたが、企業体質としても、悪質な姿勢が表れていると受け止められた。では、今度の例はどうだろうか。検査の仕組みが違うから、こんな小手先の嘘が、通用したという点に、別の意味での批判が向けられているが、件の会社の体質は、以前からの悪い方の実績から、またか、という声が絶えることはない。引き合いに出されるのは、旧財閥という点だが、もう、そんな誇りは何処にもないのだろう。企業の問題と片付けていると、また、個人の責任が有耶無耶となる。不正が蔓延る原因の一つに、組織の問題があることは事実だが、個人の責任が全くないとするのは、大きな間違いである。改竄や捏造が、問題となる世界では、組織に責任を転嫁する動きがあるが、元凶はやはり、個人にあるとすべきだろう。組織の利益の為などと宣う人間こそ、自分の利益しか考えていない。それに気付かぬ社会は、壊れ始めている、ということではないか。
情報に触れる機会が、これほどに問題となった時代はないだろう。弱者とか強者とか、的外れの指摘も多々あるが、情報の氾濫に、取捨選択の能力が重視されるようになっている。だが、それと共に、情報交換の能力について、多くの指摘がなされていることに、気付いていない人も多いようだ。
知っているとの返答があるのは、当然のことだが、コミュニケーション能力と称するものに対して、いい加減な解釈ばかりが用いられ、まともな見方を示せぬままに、焦ってばかりの人々がいるのは、気付いていないと言うべきと思う。受け取ることばかりに必死となり、送る方がお留守になるのは、考える能力も、判断する能力も、不足していると言うより、殆ど持ち合わせていないからであり、その問題点に気付かぬ人々は、情報に振り回されることが多い。これは受け方の問題であると同時に、それに対する反応の誤りが、大きな要因となっているのだろう。自らの考えを表明することも、彼らの苦手分野の一つとなり、意見交換も危ういものとなる。一方的な流れとして、情報を眺める傾向が強いのも、自分からの働き掛けが、正しく行えていないからに違いない。それでも、自らの欠点を克服しようとする動きは鈍く、良い点を伸ばすという間違った考えに囚われ、無駄な努力を積み重ねようとする。様々に指摘を受けても、欠点に目を瞑る人々は、誤反応を繰り返し、相手の期待に応えられずに、無意味な時間を過ごすこととなる。では、何をすればいいのか。勇気を持って、自分の欠点を見出すことで、その改善に努めることが、まず第一となるのではないか。認めたくないことも、こんな形で対応すると、別の展開が起こるものだ。
自由と義務、権利と責任、このような形で、一組のものとして扱われるのは、人間一人ひとりが持つものの内、対照的な存在と見做されるからだろう。身勝手な考えの結果として、一方だけを手に入れようとする風潮が高まる中、また、偏りを招きかねない仕組みが、導入されようとしている。
貧富の差を無くし、男女の差を無くし、資格年齢を下げてきたが、それぞれに、正当と思われる理由が、付けられてきた。だが、今回の引き下げは如何なものか。理由が不明確であるのは勿論だが、それに加えて、最近、劣悪化が著しいと指摘される、業界の人々の発言は、本質を見抜かず、一時の流行を追いかけるが如くの、無思慮なものとなっている。参政権は、社会に対する義務とも見做され、投票行為により、間接的に政治に参加する為の道筋と言われる。その権利を得る為の条件を、改定しようとする動きは、ある意味、突然始まったように見えたが、言い訳のように使われた理由が、無能な人々に正当と見做され、一気に実現する運びとなった。だが、その一方で、その年代に属する人々に課せられた義務には、特別に免除されているとも見えるものが多い。成人と見做すかどうかとは、基準が異なっていて構わぬ、とする向きが、これを正当と見るのだろうが、だからと言って、秩序を乱すような動きに、諸手を挙げて賛成という態度には、強い違和感を覚える。まるで、それにより、より高度な政治が行えるかのような、喧伝行為には、相変わらずの無神経ぶりと、無責任の表れと感じる。自らが行うべき政に対して、こんな発言が出てくるようでは、失格の烙印を押すべきと思う。今後、どんな迷走が続くのか、見えてこないけれど、良化するとの期待は、何の変化もない現実に、裏切られたとなるのだろう。