パンチの独り言

(5月2日〜5月8日)
(間違い、投資、先入観、広報、不注意、正当化、慇懃)



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5月8日(日)−慇懃

 言葉の難しさを感じる機会が多い。自分の言葉遣いも気になるけれど、遥かに強く感じるのは、他の人々の言葉だろう。慇懃な姿勢を心掛けようとする気持ちは、理解できない訳ではないが、過度な飾りは、無礼と受け取りたくなるものだ。それも、高齢者のものとなれば、嫌悪感へと繋がることもある。
 敬語の使い方が、様々に紹介されるのは、知らない人が多いからだろう。それも、誤用が目立つ為で、専門家と呼ばれる人々は、正そうと躍起になっているようだ。その一方で、言葉は生き物であり、次々に変化するものとの解釈から、多少の誤りは、明らかな誤解を招かない限り、許されるとの考え方がある。にしても、個人的に気になることがあり、それを指摘する声も、様々な場で、色々な形で、届けられている。つい先日書いた、「あげる」という表現も、多くの人が、ものに対して、「してあげる」と表現するが、「あげる」は元来、「差し上げる」から来た言葉だから、目上に用いるべきで、目下は勿論、まして、ものに使うは論外、とされてきた。が、今や、巷にあふれる「してあげる」は、膨大な数に上り、批判しても無駄と思える状況にある。「させていただく」も、散々指摘されてきたが、年配者に目立つだけに、根絶は不可能だろう。馬鹿丁寧と思える表現は、子供達に、「してもらう」とするものにも当てはまる。貰うという言葉の意味には、利益の有無が鍵とも受け取れるものがあるが、指示に従わせるという観点からすると、「させる」の一言で済みそうなものだ。ここまで書いてきたものを、実例として示すと、違和感が強まるのではないか。「料理に塩を加えてあげる」「乾杯の音頭をとらせていただく」「子供たちに遊んでもらう」は、変に聞こえないだろうか。「塩を加える」「音頭をとる」「遊ばせる」とすればいいのでは。どうだろう。

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5月7日(土)−正当化

 相手の不思議な行動を眺めて、何故、と思うことが屡々ある。特に、年代の差を感じる相手には、そんな感じを抱くことが多い。本人は、いたって真面目に対応していると思っているらしいが、こちらから見ると、何を非常識なことをするのか、と思うのだ。年の差を、こんな所で、感じてしまう。
 言い訳としか思えない話を、訥々と語るのを見ると、何の為と思っているのか、と考えてしまうが、本人の中では、ごく当然の行動と見ているようだ。自信なさげに見えるけれど、だからと言って、不確かな内容でもなく、他人に通じるかどうかは兎も角、何かを訴えようとする。だが、相手をする側から見ると、その内容は的外れで、非常識としか思えない。本人がそれを自覚しているかは、定かではないが、彼ら自身の目的があるようにも見える。では、その目的とは何か。確かめた訳ではないが、一つ思い当たるのは、正当化の為の言動なのかもしれない、ということだ。自分は正しいことをしている、という主張をなす為に、自らの論理を展開するのだが、肝心の内容が非常識となる。だが、これは、ある意味、当然のことではないか。自らの行動を正当化する、という目的は、何の問題もないと映るかもしれないが、実は、大元の行動自体が、常識を逸脱したものであり、それを言葉を弄することで、正当かの如くに見せようとするもので、相手の反応を気にすることなく、正しいことを行っているとする。更に、それを相手に伝えることで、確認したと思い込み、過ちを認めようとしない。この行動の原因の一つに、褒められてばかりで、叱られた経験を持たないことがあるように思うが、どうだろうか。

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5月6日(金)−不注意

 不特定多数を相手にする時、注意しなければならないことは、何だろうか。以前なら、一方的な情報提供は、時に、誤解を招くことがあり、人による受け取り方の違いを、考慮に入れなければならない、と言われたが、最近は、公開することにより、外部からの侵入に、気をつけろ、と言われる。
 印刷媒体や電波を介しての情報提供が、主な手段であった時代は、上に書いた通り、相手への配慮があれば、それで十分と言われた。だが、双方向性の情報媒体が普及するにつれ、それを悪用する連中の問題が、社会的な問題として取り上げられるようになる。国を挙げての休日の連なりに、多くの組織が、人の居ない日々となっているが、情報提供の場は、殆どの場合、普段と同じように開放されている。戸締りは、厳重になされている筈だが、普段のような監視体制は、整っていない場合が多く、この機に乗じて、悪意に満ちた侵入が行われることがある。皆それぞれに注意深くなり、多くの関所を設けているが、一部には、田舎の家のように、無施錠の場所も多いらしい。個人的なものでは、本人だけが被害を受けるが、公的な場では、被害の範囲は大きく広がる。そういう違いと、管理者の意識の違いは、必ずしも、一致しないようで、いい加減な管理は、こんな時に、被害を招くこととなる。特に、多数が接続する場では、改竄の結果が、被害者を出すこととなり、回復までの時間が、その広がりに影響を及ぼす。こんなことなら、接続不能の状態にすればいい、と思う人も多いだろうが、一方で、時間を持て余す中で、そんな場所に繋ごうとすると、何も見えないことに怒りを覚える。安全安心などと、訴える人が多いけれど、こういった被害を無くす為の最良の手段は、やはり、利用する側の注意ということになるだろう。

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5月5日(木)−広報

 広報活動が、大切なものと受け取られるどころか、不可欠なものと扱われるようになっている。知らないから、無視をして良いとする風潮では、知らせることが第一となり、知らないと言わせないことが、はじめの一歩と考えられる。情報社会では、当然のことかもしれず、皆が、精を出しているようだ。
 多様性が強調されるのは、逆の現象が目立つからに違いない。一極集中などと評される状況に、違和感を覚えたり、不安を感じるからこそ、多様な状況への転換が、必要不可欠と論じられる。だが、他人と同じ状況を好んだり、そうでなければ不安に感じる大衆相手では、多様性は、無駄なものと切り捨てられ、右に倣えといった状態を、安心の象徴と見做すこととなる。多種多様な人々を相手にすれば、全種類を用意することが必要となるが、ある偏りを持った集団を相手にすれば、少数を用意するだけで済ませられる。これもまた、仕掛ける側からすれば、力の分散を防ぐことができ、時に、一点集中での働き掛けで、世の耳目を集めることが、可能となるに違いない。情報流通に関しても、今や、その傾向が強まるばかりで、インターネット経由での流布が、最も効果的と扱われるのも、多くの媒体がそれを介するからだろう。マスメディアと呼ばれる媒体も、そんな風潮に流され、同じ話題を同じ情報源から流す。こうなれば、多様性は失われたも同然となり、一つの流れで事が済まされる。広報活動が、義務付けられるのは、このような状況下で起きるから、その達成度を測るのも、ただ一つの媒体の点検で済む。監督する側からは、喜ぶべき状況と呼べるだろうが、中身が、充実するかどうかは、全く別の話だろう。情報の真偽を、見極められぬ人々は、鵜呑みを続けるだけだろうし、散漫な人々は、一目で分かるもの以外には、目を向けない。さて、充実は、いつ達成できるのか。

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5月4日(水)−先入観

 情報社会において、如何に、確かな情報を手に入れるかが、重要と考えられている。得になるのは、損をしない為に、果ては、生き残るには、などと、様々な目的を果たす為に、必要な情報を、如何に手に入れるかが、現代社会の課題とされる。だが、別の視点がないことに、気付く人は少ないようだ。
 課題の多くは、受け手の問題である。如何に手に入れるか、という問題は、その為の道具や判断の基準を、どう手に入れるのか、という課題へと結びつく。情報の真偽を見極める為の吟味力は、どうやれば身に付くのか、という問題は、多種多様な情報が氾濫する時代に、判断を誤らない為の、最大の課題と思える。この点に関しては、これまでに何度も強調してきたが、日々起きる問題を眺めると、不十分な点ばかりが目立ち、解決は難しいと認めざるを得ない。理由の一つには、利害を優先し、確かな目より、欲望が先に立つ問題がある。一方で、逆の立場から見ると、そういった受け手が抱える問題を、如何に利用するかが、送り手の課題となる。情報による操作は、その典型例の一つだが、受け手が気付かぬうちに、真偽入り混じる情報を、鵜呑みにさせるのも、その方法の一つだろう。人それぞれが、世に溢れる情報の全てに通じることは、不可能と言える。だが、操作する側から見れば、その中で、ある情報に接しさせることが、大切な要素となるのだ。江戸時代の絵師の名が、この所、急激に耳目を集めるようになっている。二百年ほど前の人の名が、今になって、こんなに触れられるようになったのは、彼の作品に変化が起きたのではなく、受け手であるこちら側に、変化が起きたからである。触れた途端に、素晴らしい作品、と驚嘆の声を上げる人に、どんな審美眼があるのかは、わからないが、この急激な変化こそ、情報の扱い方によるものと言えるのではないか。振り回される人々には、信念があるのか定かではない。でも、先入観が、目に届く情報に、何かを加えているように思えるのだ。

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5月3日(火)−投資

 投機的という言葉が飛び交う。資産運用の基本の一つとして、株式や為替への投資があると言われ、資金を増やす為の手段として、多くの人が使っていると言われる。それが、投資でなく、投機と表現されるのは、何故なのか。一時の利益を目論んで、資金を投入する行為に対し、使われるようだが。
 実際には、資金投入という立場から見れば、大した違い、と言うより、全く違いがないと言うべきだろう。運用という意味では、損得勘定は欠くべからざる要素であり、虎の子を失うことは、絶対に避けねばならない。その一方で、濡れ手で粟の如く、泡銭と雖も、金銭に変わりがなく、利益が出ればそれでよし、という考えもある。それをよしと見ない人々から、投機的との批判を浴びたとしても、合法的な行為であれば、罰せられることもない。何が悪いのか、と思う人も居るだろう。特に、株式の空売りのように、暴落を機会と捉え、他の投資家の狼狽売りに、乗じるような行為は、極端に過ぎると、制限がかけられたが、それとも違う行為として、動き始めた相場を、後押しする形で、極端な動きへと導く。操作といえば、そうなのかもしれないが、売買を膨らませることによる操作は、違法行為とは見做されない。急激な変化への対応から、動きに敏感な仕組みが取り入れられた結果、それらの変化は助長され、思惑以上の効果をもたらす場合もある。その結果、投機との疑いをかけられるが、どうだろうか。一部には、そのような思惑が蠢いているだろうが、全てをそう断じることは難しい。真面目な投資家の中には、こんな動きに乗じて、自らの資産を増やす人も居る。結論がどう導かれるか、様子見の状態ではあるが、人それぞれの思惑が、ぶつかり合うのも、利害が絡むからなのだろう。

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5月2日(月)−間違い

 言葉の誤用は、数多あるけれど、それが時代の変遷と結びつくと考えると、なるほどと思えることもある。例えば、「あげる」という言葉の誤用が、世の中に溢れ始めた頃、気にした人々は、様々に働き掛け、元に戻そうと躍起になった。結果は、功を奏さず、蔓延を食い止めることはできなかった。
 以前にも、取り上げたことがあるが、辞書の名をもじった番組が企画され、若者の誤りを正す内容が、事例ごとに流された。その若者が、今や社会を動かす年代となり、依然として、その誤用を繰り返す。こうなると、何が正しいのかを、判断できる人も少なくなり、誤用は正しい用法となったかのように、受け取られるのだ。だが、違和感を覚える人の数は、それほどには減っていない。ただ、以前のような、厳しい指摘が、できる雰囲気を、感じることができないのだ。となれば、大人しく聞き流すしかない。またやっている、と心の中で思っても、そのまま黙りを続けるしかない。となれば、誤用の蔓延は、食い止めることができなくなる。そんな形で、新しい用法が、誤りから正しいものへと変われば、本来の用法は、忘れ去られるしかない。そんな憂き目に遭った言葉は、歴史上には数限りなく存在し、一部の専門家のみの知識として、生き残るのがやっとの状態となる。目下から目上への言葉は、敬語が重要な要素として存在してきた社会には、多く存在してきたのだが、これも上下の区別が不明確となるに従って、混乱を生じてくる。「してあげる」を、目下に対して使ったり、果ては、物に対して使うとなると、区別も何もない状態となる。単に、「する」とすればいいところを、「してあげる」とする意図は、全く見えていないが、当人の中では、はっきりとあるのだろう。こちらの戸惑いは、大きいにも関わらず、あちらの意図は、大したこともないのだろうが。

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